地域の歴史と文化財
この地域の歴史あれこれ
船橋市は、昭和12年4月、当時東葛飾郡の内にあった船橋町、葛飾町、八栄村、法典村、塚田村、あわせて五つの町村が合併し、千葉県内で4番目の市として発足した。その後、昭和28年、29年に二宮町と豊富村を合併して今日の基礎ができた。
中央公民館が建つ、ここ本町あたりは、江戸時代の「船橋宿」に位置する。「船橋宿」は、五日市村・九日市村・海神村3村の総称であった。3村は江戸内湾の最奥部に面し、西から東へ海神村-九日村-五日村と続いた。この3村の南寄りを横切るように佐倉道が通っていた。佐倉道は、江戸と下総及び上総・安房方面を結ぶ主要な道であった。また、江戸時代中頃から成田山(新勝寺)参詣が盛んになるにつれ、佐倉道は成田道と呼ばれるようになった。
船橋は佐倉道(成田街道)最大の宿場であり、交通量・旅籠の利用者とも多かった。船橋宿で最も有名なのは飯盛女(宿場遊女)の「八兵衛」であった。江戸時代の宿場は、一般の農村から比べると賑やかな場所で、歓楽街的な要素も多分にあった。船橋はその一面を近代に入っても持ち続けた。
三番瀬
船橋3村にはそれぞれ田畑があって農業が行われ、九日市村と海神村は、船橋浦(漁場)で、現在でも東京内湾奥部で唯一本格的な漁業を行っている地域である。船橋浦漁業の歴史は古く、三百数十年の歴史を有する。江戸前期の船橋浦は、将軍家の御台所へ魚を献上する御菜浦(おさいのうら)として、現千葉県域内湾では傑出した存在であった。近代の船橋漁業の最大の変化は、海苔養殖が冬の主役になったことである。明治30年代頃から開始され、昭和30年代には全国上位の生産枚数を上げていた。こうした船橋浦漁業も昭和40年代末、埋め立ての進行と、海水の汚染によって苦境に立たされたが、それを克服し、現在従業者は減ったものの大都市の中の漁業として注目されている。 船橋漁場西部には全国的にも有名な「三番瀬」がある。この「三番瀬」は、江戸時代には地引き網の漁場であるばかりでなく、内湾有数の貝漁場であった。浅海に魚のいなくなる晩秋から早春にかけては、貝漁が船橋漁師の生活の糧であったが、密漁が絶えず、幾度となく紛争が生じた。
国の工業化政策を受けて千葉県は、昭和20年代後半から遠浅海岸を埋め立てて工業地帯を造成することを目標とした。昭和36年には船橋・市川沖の埋め立てを計画して順次着工した。三番瀬北部も昭和40年代から埋め立てられ、工業用地や港湾関連用地等となった。その後県は、平成5年に740ヘクタールの三番瀬埋め立て計画を発表したが、貴重な自然である三番瀬を遺すべきだという声が各方面から広がり、埋め立て計画は見直され、保全・再生計画が策定され現在に至っている。
灯明台
意富比(おおひ)神社は、船橋大神宮の名で知られる船橋地方最古最大の神社である。歴史的にみて意富比神社が古くから太陽信仰と深い関連を持っていたことを考察し、意富比神は「大日神」すなわち“偉大な太陽神”が原義であるとする説がある。境内には40を超える神社のほか、県の文化財に指定されている灯明台がある。明治13年に完成した和洋折衷の建物である。
明治初期から昭和4年にかけて、旧船橋町の海岸には四つの塩田があった。その一つ三田浜塩田がここ湊町二丁目のあたりにあった。塩田を開いた子爵 仁礼景範が東京の三田に屋敷を持っていたため、その名がついたといわれている。昭和4年、政府による製塩地整理の対象となり、三田浜塩田も廃止された。
塩田の跡地は、割烹旅館や遊園地のある三田浜楽園となった。遊園地には、魚釣・玉突き・野球場・海水プールなどの施設や、猿・熊・鶴・孔雀などの動物を飼育する所があり、特に夏には東京や地方から多くの人々がやって来て賑わった。
昭和8~10年頃には、作家川端康成が割烹旅館三田浜楽園を訪れ、執筆の場として利用した。「童謡」は、そこで描かれた小説といわれている。平成18年3月、三田浜楽園は79年の歴史を終え、閉館した。閉館の時に、離れの客室として使われていた「月廼家」(つきのや)の部材の一部を中央公民館に移築し、当時の面影を再現した。
三田浜全景(当時)
太宰治ゆかりの夾竹桃
文学者といえば、太宰治も昭和10年頃の約一年間、現在の宮本1丁目に住んでいた。当時27歳で、船橋時代の作品として「虚構の春」「ダス・ゲマイネ」などがある。のちの作品「十五年間」には、「私には千葉船橋町の家が最も愛着深かった」と綴られている。太宰が自ら植えたという夾竹桃の木が中央公民館前の広場に移されている。
ばか面おどり
船橋の一つの伝統文化として「ばか面おどり」がある。明治20年代から30年代初めにかけて漁師町(現湊町地域)では、疫病が発生したり海難や不漁が続いた。このため、漁師たちは厄払いと海上の安全、豊漁を祈願して明治33年、八剣神社の夏祭りに神輿を奉納した。「ばか面おどり」は、葛西(東京都)や鷺沼(習志野市)等から招いた演者により、漁師町の人々が習い覚えて今日に至ったもので、囃子は「ばかっぱやし」と呼ばれている。お面に合わせたこっけいな所作が強調されて踊られ、現在では船橋市を代表する民俗芸能の一つになっている。
文化財・寺社等
西向地蔵(本町2)
ここは旧船橋宿の入り口で、かつてはこの付近に罪人の仕置場(処刑場)があったと言い伝えられている。地蔵尊像、阿弥陀仏如来像、聖観音像が全て西側に向いていることから地元では西向き地蔵と呼んでいる。
稲荷神社(本町1)
お稲荷さんは、農民には豊作を祈る神、漁師には大漁を祈る神、商人には商売繁盛を祈る神であり、非常に守備範囲の広い神である。江戸時代になると、家々の屋敷神として広まり本社の伏見稲荷から分けて祭られた。このお稲荷さんも地区の守り神として信仰されるようになった。
猿田彦神社(本町1)
猿田彦は、古代神話で道案内をした神として知られている。長身で天狗のように鼻の高い神様で、道祖神と同じだとされる場合もある。道の神として知られる猿田彦神社は、悪疫・悪霊を防ぐはたらきの他に、火事を防ぐ神等の要素もある。江戸時代に船橋宿と呼ばれた本町一帯には、村の鎮守以外に、猿田彦神社のような隣近所の家で祭った小さな神社が数多くある。
道祖神社(本町4)
道祖神は道六神(どうろくじん)とも呼ばれ、元々は村境や辻に祭られ、町や村に悪霊や悪疫が入るのを防ぐ神だった。道祖神は非常に古くから信仰された神様なので、様々な祈願に応える機能を持つようになった。元々の厄除け的なものから、足・耳の病を治すはたらき、さらには子授けや夫婦和合の願いを叶える神様としても信仰されるようになった。境内には仏教の中の“愛の仏”である愛染明王の石仏も移されている。
船橋御殿跡・東照宮 (本町4)
慶長19年(1614年)、この一帯に船橋御殿(将軍家の宿泊休憩所)が建てられ、元和元年(1615年)徳川家康・秀忠父子が東金に鷹狩りに往復する途中に宿泊したところ。その後、東金での鷹狩りは行われなくなり、船橋御殿も廃止された。その後、船橋大神宮神職に下げ渡され、御殿中心部に家康を祀る東照宮を建てた。現在の建物は安政4年(1857年)に再建され、昭和2年に修繕されたものである。
御蔵稲荷(本町4)
当時飢餓に備えて穀物を蓄えておく郷蔵(ごうぐら)を建てた。そのお陰で以後、当地では飢餓を免れた。村人はその恩に報いるために、神社を祀るようになったと言われ、これを御蔵稲荷と呼ぶようになった。
厳島神社(本町4)
厳島(いつくしま)神社というと、瀬戸内海に浮かぶ安芸の宮島が有名である。当社もその厳島神社を勧請したもので、田心姫命(たごころひめのみこと)・市杵島(いちきしま)姫命・多気津(たぎつ)姫命を祭っている。元来この三女神は海の神だったが、市杵島姫命は「市」の守り神ともなり、また、弁才天と結びついて水神、学問・技芸 の神様としても信仰された。地元では“弁天様”と呼ばれ親しまれた 。
明治天皇行在所跡(本町3)
明治天皇は習志野原で近衛兵の演習を統監した。その際にここにあった桜屋という旅館に立ち寄ったということである。明治天皇が県内でも最も多く立ち寄った場所である。
浄勝寺(本町3)
浄土宗の寺。幕末から明治にかけて火災に見舞われたが、現在の建物はその後再建されたもの。毎年11月に十夜法要(浄土宗の念仏)が行われることから、「十夜寺」とも呼ばれる。墓地には、船橋宿の遊女たちを救うために立てられた「お女郎地蔵」がある。
行法寺(本町3)
日蓮宗の寺。本堂前に高さ1.8メートルの日蓮の像がある。ここは、旧船橋町の小学校教育の発祥の地でもある。明治5年、政府が定めた「学制」に準拠した小学校がこの寺の本堂で授業を始め、船橋小学校の前身となった。
不動院(本町3)
真言宗の寺。入口にある大仏は、もとは津波による溺死者供養のために建立されたものだが、文政年間(江戸時代後期)以降は、近隣との漁場争いから獄死した二人の漁師総代の供養が行われる場所となっている。この供養は「大仏追善供養」と呼ばれ、市の無形文化財に指定されている。毎年2月28日になると、大仏に白米の飯を盛り上げるほどにつけて供養する。これは牢内で食が乏しかったのを償うためと伝えられており、地元ではこの大仏を「飯つぶ地蔵」と呼んでいる。大仏の西側に漁師総代二人の墓碑が建てられている。
覚王寺(本町3)
真言宗の寺。本尊は大日如来。境内には「難陀龍王堂」(海上守護の神、市指定文化財)、弘法大師供養塔、十九夜塔がある。明治6年に小学校が置かれ、行法寺とともに船橋小学校の前身となった。
円果地蔵尊円蔵院(本町3)
真言宗の寺。山門を入ったところのお堂の中に石の地蔵尊が安置されている。一般に「因果地蔵」と呼ばれている。盗難にあったらこの地蔵を左結びの縄で縛ると盗人の体に痛みが起り盗品が戻るとか、体の悪い場所があると地蔵様の同じ場所に触れて拝むと治るとか言い伝えられている。今は商売繁盛や合格祈願のためお参りする人が多いようである。
海老川の橋
海老川は全長2670メートル。個性豊かな橋は、昭和61年から平成4年にかけて、河川改修に伴って架け替えられたものである。ジョギングロードは桜の名所として知られ、下流には海の見える親水公園がある。それぞれの橋には野外彫刻がほどこされ、訪れる人を楽しませてくれる。
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