習志野原の変遷
『習志野原の変遷』
【船橋市(習志野、習志野台、西習志野) or 習志野市東習志野】という地域・・・。
船橋市なのに習志野という地域が3箇所あります。習志野市には東習志野という地域があります。他から見ると、『何ともややこしい地域』と思うことでしょう・・これらの地域はかつて『習志野原』と呼ばれた一帯の地域でした。その名残りとして、現在もその名が残されております。
明治6年(1873)時の明治天皇は、近衛兵を引き連れてこの地で大規模な演習を統監された。お供には天皇の信望厚い近衛都督の西郷隆盛もいた。その時に天皇が野営された場所が現在の船橋市習志野台4丁目あたりであった。この時に天皇は、この地が演習場として大変有効な土地であると判断され、以後この地を『習志野之原』と命名し、陸軍の演習場として活用するよう命ぜられたのであった。
天皇がお供を引きつれ地方にお出かけになることを『行幸(ぎょうこう)』または『御幸(みゆき)』と言った。野営をされた場所には後に行幸記念碑『明治天皇駐蹕之処(めいじてんのうちゅうひつのところ)』が建立された。また、石碑が建立された場所は「御幸台」と呼ばれていた。
石碑は平成6年まで船橋市習志野台4丁目に現存していたが、「みゆき町会」の会館が建設されるにあたり、薬円台公園内に移設されて現在に至っている。なお、町会名は『御幸台』から名づけられているそうである。
当初『習志野原』と呼ばれ、後に『習志野』と呼ばれるようになったこの地域にはどんな歴史があったのでしょうか?
平成22年度~25年度まで、地域講座『習志野原の変遷』を開催しました。
*講座の資料は、右の各年度をClick! してください。
平成22年度資料 ・ 平成23年度資料 ・ 平成24年度資料 ・ 平成25年度資料
下記画像は、北習志野駅前えびす通りを高根公団方面へ向かう景色で、画面左は昭和27年(1952)頃に、右は平成22年(2010)夏に撮影された同じ場所です。
《習志野原の歴史》
*下記画像をクリックすると、別画面で大きく見られます。
(1)縄文時代の習志野原・・・縄文時代の集落「高根台遺跡」が発見された。
(2)江戸時代末期の習志野原・・・小金牧と呼ばれた広大な幕府直轄の馬の放牧地だった。
(3)明治以降の習志野原・・・軍郷習志野として、軍の施設が周辺に配備されていった時代。
(4)戦後の農地開拓時代・・・昭和20年(1945)12月より農地開拓の時代が始まる。10年、20年後と習志野原の風景は激変していった。
*これら資料は一部です。その他の資料は公民館ロビーに展示してあります。
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