八木が谷地区の歴史

更新日:平成23(2011)年3月31日(木曜日)

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地名の由来

八木が谷

八木ケ谷村は近世以前に成立した村であるが、文献上の初見は慶長7年である。
「八木ケ谷」の語源については

  1. 「八岐ケ谷」で谷が入り組んだ複雑な地形
  2. 城主の八木ヶ谷式部胤宣の名から
  3. 八木は八種類の木(松・カラタチ・橘・柏・楡・桑・ナツメ・竹)のことで、八木が繁る谷あいの土地
  4. 「八木」は米の字を分解したもので米のよくとれる谷田から付いた
  5. 「八木」は米の字を分解したものであるが、「米」は「込」のことで古い馬牧由来の地名等の説があるが、いずれも今一つ釈然としない。

「やき」「やぎ」には狭い小谷、焼畑・野焼、湿地等の意味もあるというが、それらを考慮しても当八木ケ谷は語源不詳とするしかない。

みやぎ台

昭和56年にできた新しい町名。

三咲の「み」と八木ケ谷の「やぎ」から合成した地名が、住民投票で圧倒的多数で選ばれたもの。

元は三咲町と八木が谷町の一部。

咲が丘

同じく昭和56年にできた新しい町名。三咲の「咲」に丘を付けた地名が、住民投票で圧倒的多数で選ばれたもの。元は三咲町と八木が谷町の一部。

高野

八木ヶ谷村には「高野(こうや)」の付く小字が4か所もあった。高野・高野台・高野崎・鳥高野である。

その内の高野台が昭和56年に町名となった。「こうや」は中部、関東、東北に広くみられる地名で、大半は古代末期~近世初期の開墾地に付けられている。

高野台の語源の説明については、八木ケ谷村からみて高台にあるから付いたとする書物もあるが、実際は新耕地の「高野」の上の台地の意である。「高野」が先にあって、「高野台」は後で付いた地名である。

王子・白幡

八木ケ谷村の小字。それぞれ王子神社・白幡神社があった場所である。

八木が谷の「歴史」

当地で発掘調査が行われた遺跡は、「柏上(かしあげ)遺跡」と「八木ケ谷王子遺跡」である。

柏上遺跡からは古代の古墳時代中期の住居址が発見された。八木ケ谷王子遺跡は中世の墓址である。

他に中世の遺跡として長福寺周辺の八木ケ谷城址がある。

近世に入ると、慶長7年に検地が行われ、当時の戸数は12軒前後であった。

その後、寛永2年(1625年)に旗本長井氏、同4年に市川氏に村を二分して与えられ、その知行地となった。

元禄13年(1700年)頃の記録では村高79石余であった。

また、元禄年間に郡域の一部変更があり、当地は葛飾郡から千葉郡に替わった。

享保10年ごろ(1720年代)には、幕府牧の一部が下げ渡されて、幕府代官支配所の新田となった。

(高野台等)慶長2年の記録では、家数18軒、人口82人であった。

明治に入ると、当地方は2年(1869年)に葛飾県、4年に印旛県と県の興廃によって所轄が変わり、6年に千葉県が成立するとその所轄になった。

明治22年の町村制施行で豊富村が成立するとその大字となり、昭和29年(1954年)の豊富村の船橋市への合併後、船橋市大字八木ケ谷となった。翌昭和30年に八木ケ谷町となった。

その後、当地区は昭和56年に住居表示が実施され、旧来の集落一帯が八木が谷1~5丁目、北部が高野台1~5丁目、南部がみやぎ台と咲が丘の一部となっている。

八木が谷の「史跡と文化財」

長福寺

天台宗帝龍山と称する。印旛郡和泉村(印西市)泉倉寺の末寺であった。

本尊の不動明王は慈覚大師の作と伝え、33年に一度しか開帳しない秘仏である。

他に弥陀三尊、不動三尊、毘沙門天、聖徳太子、弁才天と十五童子等の像が安置されている。

寺の起源は不詳であるが、墓地には江戸初期寛永年間の墓石も見られ、古寺であることは疑いない。

当寺旧藏の梵鐘は宝永3年の鋳造で「八木ケ谷村帝龍山安楽院」「長福教寺」等の銘がある。(戦時中に供出。現在は埼玉県深谷市呑竜院に所在。)

本堂には明治27年に奉納された大きな句額が掲げられている。

当寺も吉橋組大師講の54番の札所で、小堂に文政10年(1827年)の石造弘法大師像が安置されている。

王子神社

八木ケ谷の産土社(鎮守)。祭神はいざなみ命・日本武尊・誉田別尊。ここは、江戸時代に石尊社(石尊権現)があった場所で、明治45年に明治政府の神社整理令を承けて、区内の王子神社・白幡神社・石尊神社が合併し、新たに王子神社となったものである。

社殿は中世城址土塁上にあり、外側に空堀の名残が見られる。土塁上には区内から集められたと思われる多くの石祠がある。土塁斜面には元禄2年の青面金剛王像の庚申塔があるが、これは青面金剛王像の庚申塔としては市内最古のものである。

長福寺門前にある石造弘法大師像を納めた小堂は吉橋組大師講の48番札所で、元々は石尊社が札所であった。

八木ケ谷城址

長福寺周辺には所々に土塁が見られ、多くは中世城址土塁の名残と見られるが、断片的で元の形態は復元できない。

地元の郷土史家等が想像復元図を残しているが、その形状では防御機能が弱く、また類例のない形式で採用できない。現時点では元の形状は不明とするしかない。

城主については、千葉氏の宗主を継ぐべき胤宣がここに居城したとは考え難い。

また、松戸市本土寺の「大過去帳」に明応8年(1499年)に没したとされる八木ケ谷兵部卿良宗を城主と想定する説もあるが、同帳の傍書では良宗は沼南町柳戸に居住したと解釈できるので疑問である。

八木ケ谷王子遺跡

昭和60年に、市史編纂事業の調査の一環として発掘調査が行われたが、それ以前に地元の郷土史家等が板碑を発掘していた。

ここは通称首切り山と呼ばれ、城に関連した処刑場だといわれていた。調査の結果、板碑は大半散乱して発見され、近代になってから撹乱されたものと想定された。

板碑は文明16年(1484年)のもの以外に年号が判別できるものはなかった。他に火葬骨を埋めたと思われる土壌が4口発見された。当遺跡は中世中・後期の墓地と思われる。

一説では、長福寺の旧地かというが未詳である。

十数年前までは、低い土塁で2区画に分かれたようになっていたが、現在は埋められてほぼ平坦になっている。

                                                              神保・八木が谷歴史散歩(綿貫啓一氏)より抜粋

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