船橋市立 行田中学校
- 〒273-0044千葉県船橋市行田3-6-1
- 047-439-2118
学校へのアクセス・沿革
学校へのアクセス
電車
- 京成「西船」駅から歩いて22分。
- JR総武線「西船橋」駅から 京成バス「行田団地行き」か「桐畑行き」か「中沢行き」に乗り、5分。「行田団地」下車、徒歩2分。
- 東武野田線「塚田」駅から歩いて18分。
- 武蔵野線「船橋法典」駅から歩いて19分。
自動車
- 国道14号線から船橋中央病院の横の交差点を北に5分。行田公園に沿ってふなっこ畑JAと陸橋の間の細い一方通行の道(気をつけないと見逃します。見逃して通り過ぎると、行田の円形道路をもう一度回ってこないと入れません。)を入る。
- 木下街道から南に3分。ふなっこ畑と陸橋の間の細い一方通行の道(気をつけないと見逃します。)を入る。
- 簡易マップ(緑色の部分が県立行田公園です)
行田中学校について
前貝塚町、行田町は古くから農業中心の地域であり、学校所在地周辺は、旧日本海軍(戦後米軍)の無線電信基地でしたが、近年、日本住宅公団・行田団地をはじめ、各種の住宅が建ち、都市化が急速に進んでいます。
学区は広く、保護者の職業は多彩で、東京方面への通勤者が多いです。
行田中学校の学区につきましては、下記のURLからご覧ください。
https://www.city.funabashi.lg.jp/kodomo/ichiritsu/004/p008674.html
「昭和51年 創立1年目の風景」
「ふるさと行田」
船橋無線塔 ここから「ニイタカヤマノボレ1208」が発信された。
昭和48年頃の行田
シンボルの無線塔が姿を消し、跡地には、行田団地の建設と並行して、県立の行田公園の造成工事が進められた。
行田のシンボルの旧海軍無線塔は昭和46年に解体された。
昭和51年頃の行田(写真提供:UR住宅公団)
行田中学校周辺(H.17.6撮影)
30数年前、畑に囲まれていた行田の地も急速に宅地化が進み、大きく様変わりした。
完成間近な行田団地の向こうに建設中の行田中学校が見える。この頃は校庭の真ん中を道が通っていた。
「船橋無線塔記念碑(行田公園中央に設置)」
行田中学校内 旧海軍石碑(令和3年2月撮影)
今の行田団地、県立行田公園がある直径800メートほどの円形道路。ここにはかつて、日本の歴史に深く関わった無線塔があった。通信も併設されたこの施設は、大正4年(1915年)4月に完成し、当時、東洋一の性能と言われ、船橋のシンボルとなった。
大正5年11月16日、当時のアメリカ大統領ウイルソンから大正天皇に、無線電信所開通の祝電が届き、大正天皇からもお礼の電報が打たれた。これを機に、船橋無線塔から出された日本の電波が世界につながることを認識されるようになり、世界地図の中に『フナバシ』の地名が記されることとなる。また、大正12年の関東大震災の時には、その様子を全国に知らせる役割も果たした。
昭和12年(1937年)5月、船橋送信所は東京海軍通信隊船橋分遺隊と改称された。無線界にも大きな変動があり、短波が登場し、しかも鉄塔の老朽化、アンテナも改装の必要に追られていたため、新たに長短波用の大アンテナが建てられることになった。高さ200メートルの大鉄塔の建設は、当時としては大工事であった。工期に遅れては申し訳ないと、工事責任者は懐に短刀をしのばせて決死の覚悟で仕事にあたったという。
戦線拡大の速度を早めつつあったこの頃、昭和12年の日華事変突入、翌年の張鼓峰(ちょうこほう)・ノモンハン事件で対中国関係を悪化させてしまった日本は、昭和14年(1939年)欧州での第二次世界大戦勃発という情勢を利用して、対中国題の解決と南方進出をあわせ実現しようと図ったが、これがアメリカとの関係をも悪化させてしまい、日米関係は一触即発の危機を迎えるに至った。
昭和16年(1941年)4月以降、ワシントンでは野村、未栖両大使とハル国務長官との間で外交交渉が重ねられていた。その間、帝国海軍は真珠湾攻撃を計画し、これを密かにZ作戦と呼んでいた。ハワイ攻撃の機動部隊は南雲忠一中将が引率し、千島列島エトロフ島のヒトカツプ湾に集結、同年11月26日にはハワイに向けて同湾を出発した。
同年12月1日、御前会議が官中で開かれ、東条首相が対米開戦の決意を述べ、「帝国は米英蘭に対し開戦す」の決定がなされた。
南雲艦隊は、このときハワイに向けて航行中で、攻撃決行か中止か、本国からの指令を今や遅しと待っていた。日本時間12月2日午後5時30分、山本五十六連合艦隊司令長官からの暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」が届いた。言わずと知れた、攻撃決行の暗号である。この指令を受けた南雲艦隊は全速力でハワイに急行、帝国海軍最新鋭の航空部隊は翼を並べて真珠湾に襲いかかった。昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争突入である。
この暗号電文は、瀬戸内海・柱島にいた旗艦長門から発信され、柱島のブイから海底ケーブルで呉鎮守府を経て東京の海軍省に、そして海軍省と直通となっていた船橋分遣隊がただちに長波・短波の双方を使って全艦隊に伝えたものであった。
日米開戦にあたり『船橋無線塔』が果たした役割は、このように大きなものだったのである。
竣工以来半世紀にわたりこの地を見続けてくれた無線塔は、昭和46年(1971年)に撤去された。
その後、行田公園西側広場に無線塔の記念碑が建てられ、現在の私たちの平和な営みを静かに見守ってくれている。
行田中学校の沿革
学校着工前の完成予想図です。
年月日 | できごと |
---|---|
51.4.1 | 船橋市行田中学校開校(船橋市行田町15-6) 初代校長 椎名 清 教職員18名 学級数7 生徒数239名(1年105、2年126、3年8) |
51.9.1 | 校章制定(いちょうの葉を図案化) |
51.10.30 | 第1回生徒総会 |
51.12.10 | 体育館竣工 |
52.2.28 | 校旗完成 |
52.3.15 | 第1回卒業証書授与式(卒業生11名) |
52.6.25 | 校歌制定 |
53.3.6 | 普通教室8教室竣工 東、北側外柵完成 |
55.4.1 | 第二代校長 宮島通利 着任、学級数14 生徒数578名 |
56.2.28 | プール及び技術科室(金工、木工)完成 |
57.10.26 | 市指定学習指導公開研究会 |
58.4.1 | 第三代校長 松本鍵三 着任、学級数20 生徒数867名 |
60.3.15 | 普通教室6 美術室1 調理室1 視聴覚室1竣工 |
60.3.23 | 市立旭中学校新設に伴う離別式 1年76名、2年71名、計147名旭中へ |
61.3.12 | 創立10周年記念誌発行 |
61.4.1 | 第四代校長 若山 優 着任、学級数22 生徒数925名 |
61.6.22 | サッカー千葉県選手権大会で優勝 |
年月日 | できごと |
---|---|
元.2.15 | 普通教室4竣工 |
元.4.1 |
校長 若山 優 学級数25 生徒数1008名 |
2.4.1 |
第五代校長 藤代 實 着任 学級数26 生徒数964名 |
2.7.11 | 体育館ステージ竣工 |
2.10.30 | 創立記念日制定 記念講演会 |
3.4.1 |
校長 藤代 實 学級数26 生徒数968名 |
4.4.1 |
第六代校長 松原義修 着任 学級数25 生徒数942名 |
5.4.1 |
校長 松原義修 学級数24 生徒数922名 |
6.4.1 |
第七代校長 子安俊二 着任 学級数23 生徒数876名 |
7.3.13 | ランチルーム竣工 |
7.4.1 |
校長 子安俊二 学級数22 生徒数832名 |
7.10.27 | 創立20周年記念誌発行 |
8.4.1 |
第八代校長 山崎一政 着任 学級数20 生徒数767名 |
9.4.1 |
校長 山崎一政 学級数20 生徒数766名 |
10.4.1 |
校長 山崎一政 学級数19 生徒数713名 |
10.10.27 | 市指定特別活動公開研究会 |
11.4.1 |
第九代校長 菊地忠信 着任 学級数19 生徒数711名 |
12.4.1 |
校長 菊地忠信 学級数18 生徒数686名 県指定「校内適応指導教室推進校」 |
13.4.1 |
校長 菊地忠信 学級数18 生徒数686名 市指定「総合的な学習の時間」 |
14.4.1 |
校長 菊地忠信 学級数19 生徒数710名 |
15.4.1 |
第十代校長 佐藤絹子 着任 学級数18 生徒数679名 |
16.4.1 |
校長 佐藤絹子 学級数19 生徒数676名 |
17.4.1 |
校長 佐藤絹子 学級数19 生徒数680名 |
17. 11. 1 | 創立30周年記念誌発行 |
18.4.1 |
第十一代校長 小野沢常裕 着任 学級数19 生徒数687名 |
19.4.1 |
校長 小野沢常裕 学級数20 生徒数701名 |
20. 4. 1 |
第十二代校長 池田義光 着任 学級数20 生徒数701名 |
21.4.1 |
校長 池田義光 学級数21 生徒数742名 |
22. 4. 1 |
第十三代校長 石川誠一 着任 学級数21 生徒数779名 |
23.4.1 |
校長 石川誠一 学級数23 生徒数827名 |
24. 4. 1 |
校長 石川誠一 学級数24 生徒数848名 県指定「福祉教育推進校」 増築校舎竣工 |
25. 3. 31 |
増築6教室校舎完成 テニスコート2面改修工事終了 全教室空調設備設置工事終了 |
25. 4. 1 |
第十四代校長 大月秀夫 着任 学級数27(普26 特支1) 生徒数905名 特別支援学級新設(1学級) |
26. 3. 31 | 体育館耐震工事終了 |
26. 4. 1 |
第十五代校長 瀬川弘智 着任 学級数28(普26特支2) 生徒数955名 |
27.4.1 |
校長 瀬川弘智 学級数29(普27特支2) 生徒数948名 |
27. 10. 30 | 創立40周年記念誌発行 |
28.4.1 |
第十六代校長 佐藤公康 着任 学級数28(普26特支2) 生徒数956名 |
29.4.1 |
校長 佐藤公康 学級数28(普26特支2) 生徒数957名 |
30.4.1 |
第十七代校長 鈴木信也 着任 学級数29(普27特支2) 生徒数977名 |
31.4.1 |
校長 鈴木信也 学級数28(普26特支2) 生徒数936名 |
年月日 | できごと |
---|---|
1.5.1 |
校長 鈴木信也 学級数28(普26特支2) 生徒数936名 |
2.4.1 |
第十八代校長 大場雅俊 着任 学級数28(普26特支2) 生徒数951名 |
3.4.1 |
校長 大場雅俊 学級数30(普27特支3) 生徒数959名 千葉県学校体育研究指定(R3~R4) 船橋市教育委員会研究指定 (学校体育)(R3~R5) 埼玉県行田市立行田中学校姉妹校提携 (R3~R5)調印式(R3.6.21) |
4. 4. 1 |
校長 大場 雅俊 学級数31(普28特支3) 生徒数986名 千葉県学校体育研究 発表 R4.11.18 埼玉県行田市立行田中学校交流行事開始 「1年生校外学習(埼玉古墳他)R4.6.3」 校舎外壁工事 |
5.4.1 | 第十九代校長 髙橋 和宏 着任 学級数30(普27特支3) 生徒数985名 船橋市教育員会指定学校体育 公開授業研究会発表 R5.11.8 太陽光パネル設置工事 R6.1.19 |
6. 4. 1 | 校長 髙橋 和宏 学級数29(普26特支3) 生徒数935名 |