「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録44

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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戦中・徴用二十年四月現役兵として  養日 武夫(薬円台・65歳)

 戦争勃発。翌年四月七日徴用され、軍需工場へ。気球・落下傘・クリーク渡航(とこう)ボート・南方資源海中曳航(えいこう)船・風船爆弾・防毒面等製作。戦争が激しくなるにつれ疎開した百人位が働ける場所・建物に工場を分散し、昼夜別なく働き戦場に送り出しました。
 青春時代、働き盛り、食欲旺盛だ。戦争も段々と激しくなって来て、「欲(ほ)しがりません。勝つまでは」。国民標語の基(もと)で、農業に産業に総動員生産に国民が一丸(いちがん)となり、全力を出して働きました。衣食住(いしょくじゅう)もままならず、都会(とかい)では家も学童も強制疎開しました。
 工場の食堂も戦事食となり、豆・芋・トーモロコシとなり、飯粒(めしつぶ)が付いていれば良いほうだった。たまの町、食堂での行列の後へ並(なら)ぶ、顔の映(うつ)る雑炊が一杯でもありつければ良いが、大概(たいがい)二、三人前で終りという事が多かった。
 今と違い、「金が有っても買える時代」ではなかった。
 B29が東京上空へ飛来する様になり、「サイレン・鐘(かね)が鳴り空襲警報発令」が激(はげ)しくなった。
 十九年十一月二十四日。B29が編隊飛行で本土初空襲だ。何十機来たのだろう、爆弾投下していった。下からは高射砲が撃(う)たれ、炸裂するもB29に届(とど)かず、下の方に白い煙りが六(むっ)つ位見えるだけ、それも「各編隊の下」に見えた。次に白煙が出来るのが必ずB29の機体の下であった。
 高射砲も随分撃たれたが、B29は一機も落ちていない様だった。歯がゆいばかりだった。B29墜落させたのは、「象に蚊」の様な良く見ないと解らない我が軍の勇猛(ゆうもう)な戦闘機だった。
 当時、軍の一人に高射砲について聞いた。「高射砲弾の破裂と同時に破片が飛散り、機体に当り、損傷し墜落する。」と教えてくれた。
 戦後になって発表されたのだが、日本に一万メートルも上空へ届く高射砲は一、二門(もん)しかなく、研究中であったとの事だ。
 二十年三月十日。又だ、今度は曇り空で「空襲警報」だ。サイレンが鐘が一斉に鳴り響く。数分後だ。B29の編隊が来た、来た、落とす、落とす。黒いものと一緒にキラキラ光を散らした大きな爆弾だ。間もなく大火となり、どうにもならない大空襲だった。
 他の主な都市も日は違ったが空襲を受けた。
 翌日屋上に昇(のぼ)って見てびっくり。一面焼野原だ。風呂屋のエントツ・質屋の蔵(くら)・大きな店の金庫・鉄骨で出来た橋が黒く焼け残っていただけである。交替(こうたい)用員が来るまで工場にいて宿舎に帰ったのだが、交通便なし、唯(ただ)歩(ある)くだけだった。近道と思い、四、五人で丸の内方面へ行ったが又、だめだ。右往左往した。随分遠かった。(工場は品川、宿舎は東大裏の根津で学生専門の下宿屋。木造三階建て戦中の事、学生は学徒出兵で、私達の宿舎となっていたわけです。)
 途中色々と見た。人語に表(あらわ)せない。
 万物皆死す、と言うが、人の身、我が身、銃後も皆戦場(せんじょう)となる。
 一年繰上げ兵隊検査で甲種合格。二十年四月一日現役兵として第十二航空教育隊第四中隊へ。三月三十一日、日の丸に武運長久と村の人の寄せ書きを肩からタスキに千人針を持ち、部落の人の軍歌で駅まで送られ入営した。
 毎日戦闘訓練訓練だ。五月末だ。栃木県小金井へ飛行場設定に行き、滑走路傍に分散兵舎設営所の切取作業であった。十五日間小学校に宿営し、風呂は民家へ。設定終え隊へ帰ったのだが、六月末、いつもの訓練を終え消灯、朝起床してびっくり。三カ月寝食を共にして来た友は、私一人残して誰もいない。
 秘密に転属か、出兵したのか未だに解らない。翌日より本部通信室勤務となるも、八月六日、本土空襲され、強威力爆弾を投下された。「ビカドン、ピカドン」と言い出した。新兵さんには何がなんだか解らなかった。
 「老若男女 国民皆兵だ 本土決戦間近」との事だった。
 八月十四日、午後だった。週番士官が「明日十五日十二時、ポツダム宣言受諾。玉音放送有る。営庭に整列、傅達する」であった。
 十五日正午、天皇陛下の玉音放送を聞き、涙が出た。終戦だった。
 この涙は戦争に負けてくやし涙か、戦争が終って、ホッとした涙か、その時は複雑な気持ちであった。
 

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