「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録43

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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第二次世界大戦の体験記   山上 講(八木が谷・84歳)

  第二次世界大戦の体験記
 私は昭和十五年五月、海軍艦政本部第五部より舞鶴海軍工厰造機部に転勤を命ぜられた。昭和十二年に始まる日支事変、昭和十四年米国の予告付日米通商条約の廃棄、第二次世界大戦の勃発、昭和十五年一月日米通商関係が無条約状態なるなど、日本を取巻く情勢が容易ならざる時であった。
 舞鶴海軍工厰について一言説明すれば、舞鶴湾の入口が狭く、一万トン級を越える艦船の出入が容易でなく工厰の広さ及び設備の規模も大きくなかったから、駆逐艦以下の艦船しか作れなかった。しかし海軍で初めて採用する最新鋭の機関及び改善機器は、先ず駆逐船に装備して実績を見るのが通例であったし、舞鶴はボイラー及び溶接研究実験担当厰であった。昭和十五年十一月紀元二千六百年の祝賀があり、翌昭和十六年十二月八日、日本海軍は真珠湾を奇襲し、ここに太平洋戦争に突入した。我が海軍は米内光政大将、及び山本五十六大将を首班として米国の工業力、及び天然資源より見て日米今戦う時に非ず、として開戦論を抑えて来たのである。私も昭和九年米国に技術習得のために派遣され、見聞したことなどあるが、米国には我が海軍より大使館付武官が居り、また船艇諸機関の注文のための監督官事務に造船、造機造兵の技術士官数名と監督官助手が駐在してた。さらに兵学校機関学校の優秀な卒業生が留学して居り米国の技術水準、生産力、軍事情勢を研究していたから、多くの海軍首脳部はさきに述べた如くであった。したがって太平洋戦争に突入したことを知らされた時はショックであった。果して勝算があるであろうか、と不安であると同時に、膨張する人にと資源を求めて満州進出し、また南進する政策に事毎に反対する米にたいして抱き続けた不快感で、戦闘開始によってふき彿う思いもあった。
  軍秘に関する事
 戦局を左右する作戦計画に相当する文書に『軍秘』の朱印が捺印され、これにつぐ重要文書に『軍極秘』ついで『極秘』【秘】となっていた。私は一文官にすぎなかったけれども、職務の関係で軍秘を知ることになった。
 昭和十七年七月、南雲機動部隊率いる航空母艦四隻重巡二隻は、ミッドウェーを空襲。敵空母二隻のほか、相手にしかじかの損害を与う。わが方の損害空母一隻沈没、一隻大破、大巡一隻沈没、未帰還機三十五機と大本営の発表があった。実は空母四隻、重巡一隻、味方の航空機全部を失う決定的打撃を受けたのであるが、国民一般は知る由もなかった。以来大本営発表は嘘が多くなった。昭和十八年になると戦雲急をつげ、二月ガダルカナル島の日本軍撤退発表、四月連合艦隊司会長官山本五十六戦死。五月私は海軍技師に任せられ、作業係勤務となる。作業主任(大佐又は中佐)は部長(少将又は大佐)に次ぐ要職で、建造船の竣工期に合て各工場の作業進捗計画をして、工場の諸施設の増設、民間企業への工事外注をするものであり、この下に技術士官あるいは技師があり、さらにこの下、技手及び工手以下で編成されて居て、作業主任は極めて多忙であった。私の隣の机に海軍機関特務中尉のN氏が居り、或る日士官以上海兵団に集まれの命令を受け、N氏は海兵団に行き帰って来てから「山上さん、あなたにだけ話すから口外しないで呉れ」といって、ミッドウェー海戦の真相が打ち明けられた。それによると、わが艦隊の接近を電信探知機で知った敵は、わが飛行隊が敵飛行場に飛立った後に空母に波状攻撃を行い、わが空母四隻全部撃沈され敵の飛行場を爆撃して帰来したわが飛行機は燃料つきてことごとく海中に墜落して行った。これによって第一線のパイロットはことごとく戦死し後に残ったパイロットは内地で指導する教員のみとなった。したがって南進作戦は中止させることになったことを知らされた。これは決定的な打撃で、南洋諸島に展開している日本軍は制空権を失い逐次撤退し、逐に戦場は本土に及ぶであろうことを意味している。これが軍秘を知った最初であった。
 昭和十八年後半より十九年にかけ、南洋諸島の日本軍は全滅或いは敗退し十九年九月にはサイパン島の日本軍は全滅して石油の入手全く閉ざされたので、舞鶴鎮守府に原油規正委員会が設けられたのはこの前後であろう。工厰は作業主任が委員であり、私が代理出席した。駆逐船の公試運転及び工厰で使用する石油類の使用を厳しく規正するためのもので、鎮守府側より機関参謀が金モール姿で出席した。駆逐艦では公試運転を終り、引渡すまで七百五十屯の重油が必要であったが、入手が途絶えて以来次第に使用量が減らされ逐に二百五十屯にまで減らされた。工厰の要求する所要量もこれに準じあるいはこれ以下にされる、きびしいものとなった。昭和十九年後半になると、トラックなどは木材燃料のエンジンとなる仕末であった。鎮守府側に重油の必要量を望むと、参謀は窓越しに見える海兵団沖の燃料タンク指差し、今舞鶴鎮守府管下の重油はあのタンクだけである、飛行機のパイロットにもガソリンにアルコールを混ぜよ、と言っても彼等は一端飛び立てば生きて帰れぬのに、アルコールなど混ぜられるか、と言われると返す言葉がないと嘆息した。愈々最後の段階に来たことを知った。これが第二の軍秘であった。
 昭和十九年末になると、戦局は愈々不利になった。舞鶴は艦船に使用するボイラーの重油噴熱器を一手に製造して居た。噴熱器は一定時間使用すれば取換える必要があった。作戦中の艦艇は外洋にあり、取り換えは入港した時に噴熱器送れの指令が来る。このことは噴熱器送付艦の行動を示すと共に艦の存否を知ることになるから軍秘扱いとなり、作業係の極秘金庫に台帳が保管されることになり、私の下の工長が管理することになった。ある日、工長は私に台帳を示し「山上さん、この艦に噴熱器を送るには及ばずの指令が来ました。」送るに及ばずと言うことは、この艦は既になくなったことを示すもので、これよりすれば目立たる大艦は殆どなくなって居たのである。これが私の知った第三の軍秘であった。
 昭和十九年十一月、B29本土空襲開始以後表日本の各工厰及び民間工場は、爆撃のため機能を失い、裏日本の舞鶴工厰だけが艦艇の製造を続けることのできる状態となった。十二月以降度々B29が飛来した。最初の頃の出来事であるが空襲警報が発令され待機中「サーチライト」に照らされてB29の姿が顕われた。これを砲撃し得る高射砲はこの地方にない。碇泊中の軽巡洋艦の主砲で攻撃したが、朱色に見える砲弾は飛行機に達せず落下するのが目撃された。以来B29は悠々飛来したがついに爆撃されることはなかった。
 昭和二十年一月、米国ルソン島上陸四月沖縄に上陸。世界に名をはせた日本の綿火薬も製造不能のため黒鉛火薬の製造機を製作することとなり、また海水を電気分解して過酸化塩素をとり、これと炭素と化合させて爆薬とする「カーリット」を製造することになった。これに要する蒸留タンクは重量七トンの鋳鉄製であり、この製造担当を私がすることになった。このような大重量の鋳造物を製造する設備は工厰になく、三トン半宛に分けて製造した後、組立てることにし、これを尼ケ崎の栗本鉄工に注文した。
 同年七月二十六日、私は工期促進のため大阪に出張することになった。この当時は製品の製造を民間の工場に注文することが多く、相当無理の注文も事局重大なことから引受けて呉れた。私は先ず京都に注文した部品の督促を終えて、京都の水交社支社に泊まった。嵐山の向いの京都側にあり、附近に人家もまばらで連日の敵機の来襲にも安心であった。翌朝九時過ぎ、水交社を出て阪急京都線の駅に近づいた途端空襲警報退避である。途中二回ばかり空襲警報退避があり、大阪梅田駅についた時は十二時頃であった。駅にはあふれるばかり一杯の群集である。午前中の度重なる空襲警報のため電車が動かなかったためであった。約一時間位経ってようやく電車が動き出したが、先ず軍人より乗ることになった。私は戦時服を着ていたので真っ先に乗車することができた。尼崎駅を出た途端空襲である。空はドンヨリ曇って百米先も見えない状態で、上空の敵機より通行人は見えないであろう。海軍兵曹が退避せよと叫んで居たけれども、かまわず進んで工場に到着した。工場長に面会して督促したが、工場長は御覧の通りの状況で工事どころではないと、言われて見ればかえす言葉もなく引返さざるを得なかった。帰途大阪監督官事務所に寄ったが空襲が発令されて所員一同屋上に出て小銃を構えていた。敵機に届くわけもないのに何と馬鹿げたことをと思ったが監督長は士気を鼓舞するためにやったとのことで終戦直後この監督長は割腹自殺をとげた。夕陽が西に傾くころ敵機は去り、それまで防戦する高射砲も味方の飛行機もなかったが、この頃ようやく大津の訓練用復葉機が飛来するのを見た。その夜水交社の「ラジオ」で舞鶴地区の軍事施設が爆撃されたことが報ぜられた。おそらく栗田の航空隊が空襲されたであろうと思った。翌日京都を出発東舞鶴駅についた時は異常な光景であった。工厰及び軍の車があわただしく動き海兵もまた行き来しているのである。私は工厰の「トラック」に便乗し、工厰の前に来て空襲の惨状を見た。聞くところによれば、昭和二十年七月二十九日土佐沖に来襲した米機動部隊の艦上機二機による五百キロ爆弾たった一発の投下が海軍技手や工場見学の生徒とその引率教員など約九十名が痛ましい犠牲となった。爆弾は入口礼場近くの崖、つまり造兵部の地下内に落ち工場の一角、及び崖を破壊した。翌三十日には舞鶴軍港を中心に宮津湾伊根湾、及び小浜湾に在泊する艦船に対し爆撃があった。前日の工厰爆撃はグラマン機による気まぐれ的短時間のものだったのに対し、この日の艦船爆撃数は早朝から夕刻まで、二百三十機の艦載機が数次に亘って襲いかかる本格的な大空襲で、米軍機は機関学校の裏手の山から港内の艦船めがけて次々と降下艦の「マスト」すれすれまで降りて来て、攻撃してきた轟音と水煙で一面濠々たるなか、在泊艦艇病院船二隻海防艦や小艦艇数隻三〇〇〇トン、我が艦艇は右に左に移動しつつよく闘ったものの、大半は沈められたり座礁する一方各所で軍人、軍属工員など八十三名の死者と二百四十七名の重軽傷者を出した。この内工厰内の死者は三名、負傷者三名で何れも流れ弾ともいうべきもので爆弾五発が、造機部器具工場に落ちたが大きな被害はなかった。
 惨憺たる光景を見ながら造機部長渡辺敬之助大佐に帰着挨拶したところさすが剛毅な部長も「飛行機だけには如何ともし難いわい」と嘆息された。
 昭和二十年三月二十六日沖縄諸島の日本軍全滅愈々本土決戦が迫った。松代の地下壕に大本営を移す計画は変更せられ陛下は一万トン級の軍艦で満州に渡られると知らされた。本土決戦となれば戦死は免れないと覚悟せざるを得なかった。この当時、敵機より度々ビラが降下され、ビラには「無駄な抵抗を止めて降伏した方がよい」というものと、次は何処を爆撃するという計画と地点を地図で示したものであった。これを拾った民間人は直ちに警察か鎮守府に届けるよう警告されていた。私達は高等官会議の折、これを知らされた。これによると舞鶴は七月十九日爆撃されることになって居た。私はこの日までに子供達と必要品を疎開させ、その日に備えたその夜十時頃と思ぼしき時B29が顕われた。愈々最後の時が来たと覚悟していると舞鶴上空より急に方向を変更して福井市に向った。ここで一応福井の地下工場の話をしなければならない。福井駅の南西約一キロの足羽山の麓から地下にかけて一千五百年前から掘っていたと伝えられる「芍󠄁谷石」の採石跡地があり、その広さは数千坪に及ぶ巨大な洞窪であった。地元の有力者よりこの話を聞いた舞鶴造機部長渡辺敬之助大佐は空襲にも絶対安全な地下工場とし、当時航空優先であったので、主として航空機製造工場として稼動し初めて居た。米軍は如何なるスパイ網でこれを知ったか、舞鶴爆撃を止めてこの地下工場を爆撃したのである。この爆撃により、私の同僚の優秀な広野技師外二名を失い、福井市もまた甚大な被害を受けたのである。
 私は重大な軍秘事項を知り得たが、戦後三十数年にして初めて一部の人にこれを打ち明けたに過ぎない。終戦前後の状況について、語りたいことは多々あるが、紙面の都合で筆をおくことにする。
 私はいささか米国を知り、戦時思わざる軍の重大な機密を知ることとなり、勝算なき戦を胸に秘め、弱体に鞭打ち献身的に勤めて来た。最後は本土上陸戦に於いて、防空壕内で自爆を覚悟していたが、終戦の詔勅で生き延び本日に至った。太平洋戦争は一体何であったであろうか。戦後の惨憺たる苦難の後、国民各位の努力により今日の経済大国になったのであるが、第二次大戦はこのためにくぐらねばならない関門であったのであろうか。
 

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