「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録42

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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上海海軍陸戦隊と航空母艦翔鶴・天城の最期    柳田 常四郎(西習志野・66歳)

   まえがき
 今、半世紀前の遠い記憶が生々しく浮かんでくる。「私達は、こんな青春時代をおくった」と精一杯の記憶を思い出し、記述するに当たっては、異常な時代を文字通り一つ鍋の麦飯を分け合った親しい仲間達があのいまわしい太平洋戦争で多く散華したのを知り愕然(がくぜん)とした。何故か私の心の中に青春のノスタルジアを覚えさせてくれる。記憶に忠実かつ素直に表現したつもりである。
  一、上海海軍陸戦隊時代
 昭和十五年九月、私は十五才で掌電信兵(少年電信兵)として久里浜の海軍通信学校第五十五期普通科生として入校した。当時の国際情勢は緊迫の度を加え、昭和十二年七月七日勃発した支那事変も戦火が上海方面へと飛火し、一方海軍航空部隊による渡洋爆撃も日増しにエスカレートするなど、戦いは収拾の糸口さえ見え出せず泥沼化の様相をたどった。こうした状況の中で普通科一カ年の学習も八カ月に短縮され、翌十六年四月末で卒業式を迎えた。卒業生は一刻の猶予もなく勤務地に向け出発せねばならない不文律があった。満洲・支那事変の二度にわたる上海陸戦隊活躍は皆様も御存じの通りである。威風堂々たる鉄筋五階建に菊の御紋章が燦然と輝き、本部隊員約三千名の一員として若き血を踊らせたのも青春ならばこそであった。そして伝統に従え、厳しい訓練が待っていた。本部五階の通信室の勤務は主として重慶(じゅうけい)・昆明(こんめい)・ヌーメアおよび敵潜水艦などの敵信傍受であった。昭和十六年十二月八日の開戦当日は午前一時に本部中庭に集結し出動態勢に入った。午前六時すぎ、戦斗開始とともに黄捕江(こうほこう)に浮ぶ敵砲艦二隻に対し戦車などの火砲が一斉に火をふき一隻は撃沈、一隻を拿捕(だほ)した。そして英米租界に進駐し、武装解除を行った。私は有名なガーデンブリッチの際にあるブロードウェイマンションニ十六階屋上と約四キロ離れた陸戦隊本部との通信連絡にあたった。こうした中にも情勢は刻々と悪化の一途を辿り各地から暗い戦友玉砕の悲報が入ってきた。陸戦隊在勤三カ年近くの昭和十八年十一月に電報で呼び戻され通信学校第七十二期高等科生に再び入校した。主に対機交信(航空機と航空母艦との通信)の学習であった。
  二、航空母艦翔鶴の最期
 昭和十九年四月末、高等科を卒業し、即日航空母艦翔鶴乗組を命ずの辞令を受領した。当時連合艦隊と共に翔鶴はジャワのリンガエン泊地から出撃しボルネオ島のタウイタウイ基地に前進待機し戦斗訓練中であったが便船がないので約一カ月を横須賀海兵団に仮入団した。五月初旬、戦艦武蔵は護衛艦数隻を従え、呉軍港からマリヤナ沖海戦(あ号作戦と云う)参加合流のため出発し、私は武蔵に便乗して五月十七日タウイタウイ基地に到着し即日翔鶴に乗艦した。今回顧するとわずかな乗艦期間であったが世界に冠たる巨艦武蔵(大和と同型)の威容にふれ、なつかしく思っている。
  (一)攻撃隊発艦、被雷傾斜、総員退艦
 六月十九日。払暁から九九式彗星艦上爆撃機(彗星艦爆と云う)数十機が発艦した。つづいて零式戦斗機五十二型(零戦と云う)が護衛のため飛び立つ、艦内は緊張づくめである。私は艦橋下にある第一通信指揮室で対機交信をしていた。〇九四〇索敵機から敵機発見の第一報が入る。一〇三〇頃敵艦発見の報に接し、にわかに騒然たる雰囲気になった。十九才の私も負けてたまるかと意気に燃えた。この頃になると矢つぎ早やに無線連絡が入る。(通常は隠語を使用)しかし通信が輻湊し平文にきりかえた。受信文の状況は次のとおり。「ワレ、グラマンと交戦中」「エンヂンに被弾」「燃料少し」「ワレ自爆す」などであった。こうして先輩・同期の仲間達が大空の彼方に消えて行った。極度の緊張化では感傷にひたっている余裕などない。「明日は我が身か」とも思った。とにかく全力をつくして通信連絡の確保にあたった。一一〇七頃、突然轟音とともにはじき飛ばされた。第一通信指揮室の水線下に魚雷が命中したのだ。丁度震度七以上あると思われる衝撃である。身体が三~四十センチ位とび上った。”やられたな!“と思っている最中、時間にして七・八分後二発・三発と続けざま魚雷が命中した。すべての通信機器は破壊され機能は完全に止まった。電源も停止し、艦内は真っ暗となった。なにせ本艦は数千トンの重油と多量のガソリンを搭載しているので次々に引火して誘爆し第一・第二格納庫は一面の火の海と化した。猛火は通信指揮室の外側までおよんでいる。とてもハッチを開けて脱出することはできない。室内はかなりの高温になっている。“万事休す!あと数分の命だな”と誰かが叫んだ。すると舷窓(航空母艦は一周り大きい)から脱出しようと誰かが言った。次々と舷窓から脱出をはかり頭・手は容易であるが腰部が出ない、後続の者が渾身の力を込めて押し出す。丁度トコロテンを押し出すようなものである。多少痛かったが生死の瀬戸際ではそんな悠長は言っていられない。次々と海中に落下した。第一通信指揮室の外側にはカッターが係留してある。爆発によってロープが切れ、海面に垂れていた。次々にロープをよじ上り後甲板に集まった。すでに前甲板は水中に没し母艦の傾斜は三十五度位になっていた。仲間達は持場を脱出、後甲板はすでに一〇〇〇名以上のものが力なく集まった。私は無念と空しさで放心状態になっていた。
  (2)逆巻く水流、消え行く戦友
 私達通信科員は飛行甲板右舷の最後部に集まった。刻々と母艦の傾斜も増してくる。前部にいたものはやむなく次々と泳ぎ出していったようだ。そのうち大きな波があり前部リフトに流れ込み、とたんに艦尾を六十度位空中に突き立てて、前のめりになった瞬間、七~八十メーターも空中高く持ち上げられた姿となったのである。後甲板にいた多数のものは、雪崩のように甲板をすべり海中またリフトに吸い込まれていった。なにしろ四枚の巨大なスクリューがあり、このままなら艦とともに凄い勢いで吸い込まれてしまう。これで終りだと思った瞬間、そのまま何も解らなくなり、一瞬意識をとりもどした時は海中であった。上方が明るく波がゆらゆらとうごいていた。急に元気をとりもどし海面に出た。目の前に私と同じような人影が見え、手に触れるものなら何でもつかもうとしていた。やがて海上のあちこちに木材や箱などにつかまり互いに元気づけるため大声で軍歌や戦友の名など呼びあっていたが、なかにはそのまま沈んでしまったものもいた。(注、本艦沈没時刻は私の時計の止まった時刻と戦史資料が一致し昭和十九年六月十九日午後二時〇一分であった。)一五〇〇頃スコールがやってきた。まだ、戦斗中で海面に漂う私達に二度にわたり敵グラマンの機銃掃射を受けた。何しろ波まかせの身である。たしか二回目にグラマンがやってきたとき一直線に水柱が立ち、私の方にむかってきた。その時、後頭部に焼火鉢をあてたような熱さが走った。(皮膚がむけた程度で救助後八針縫った)太陽も西に傾き、スコールもやんで一六三〇頃に護衛の駆逐艦浦風に救助された。
  (3)翌六月二十日の海空中戦
 私は護衛の浦風に救助されたが任務する場所がない。自分の艦であればこんなことはないのだが仕方ない。各戦隊毎に集結し沖縄中城湾に帰投する準備を始めた一四〇〇頃突如敵機二〇〇機位の来襲があった。早速戦斗配備に着き応戦した。通常、海空中戦は円形を組み、航空母艦を中心にして内側順に戦艦・巡洋艦・駆逐艦などで防護する。一斉に火砲で応射する。青空が弾幕で薄暗くなるほどだ。それでも敵機は勇敢に母艦めがけて突っ込んでくる。戦斗配置のない私は砲塔脇の甲板で高見の見物である。もの凄い音で鼓膜が切れるのではないかと思った。それでも敵機はなかなかおちない。母艦に至近弾数発が落下した。数機の敵機が撃墜されたのも目撃した。海空中戦は約七・八分で終った。私は淋しさとむなしさで一杯であった。この戦斗はながーい時間のように感じた。大した損害もなく艦隊は沖縄に引揚げた。生存者は久里浜の海兵団分室に機密保持のため約一カ月軟禁され、残務処理にあたった。因に翔鶴の乗組員中、士官を除く、下士官兵約二四〇〇名のうち生存者は三八四名と記憶している。
  (4)翔鶴艦艇の要目
 常備排水量三六、〇〇〇トン。飛行甲板長さ二六〇、〇米。最大幅二九、〇米。最高速力三六ノット。飛行機搭載数約一〇〇機。
  三、航空母艦天城の最期
 昭和十九年七月、翔鶴生存者は久里浜の海兵団分室に軟禁後、航空母艦天城艤装兼乗組員を命ずの辞令を受領した。ただちに汽車で三菱長崎造船所に行き乗艦した。ほとんど天城は完成し、同年九月試運転を兼ね、長崎をあとに呉軍港に回航した。瀬戸内に散在する島々、飛行甲板から見る夕日の美しさは今でも忘れられない思い出になっている。戦局も風雲急を告げ、発着艦訓練も強化された。しかし航空燃料の欠乏は訓練にも支障をきたし、翌二十年に入ると母艦の基地である松山・岩国の両基地に分散移動し、陸上訓練が多くなった。外出には、よく松山そして岩国の錦帯橋に遊びに行った。桜咲く川辺からみる錦帯橋は特に美しかった。二十年三月に入ると燃料蓄積のため江田島の近くにある三ッ子島脇に母艦を係留し、宮島の山から、伐採した樹木を飛行甲板に並ベカムフラージした。上空から見下ろすと如何に幼稚なしぐさであるかが証明された。呉大空襲、(二十年三月十九日・七月二十四日・七月二十八日の三回)特に三月十九日の空襲はカムフラージしたばかりの天城に敵機は間断なく波状攻撃をうけた。防禦の弱い母艦は応戦むなしく至るところに損害をこうむった。天城は六発の命中弾・十五発以上の至近弾を受け大破横倒しとなる。そして数多くの犠牲者を出した。日本海軍最後の正規空母天城は出撃して戦うことなく破れ去った。本当に残念の極(きわみ)である。
  (1)天城艦艇の要目
 常備排水量二六、〇〇〇トン。飛行甲板長さ二二〇、〇米。最大幅二八、〇米。最高速力三六ノット。飛行機搭載数約七〇機。
  むすび
 金余りの現代社会、金では解決できない尊い人生を体験した。戦争とは何か、お国のためとは言え、若くして海に空に散華して行った同期の桜を供養するため、昭和五十五年六月一日、比叡山延暦寺横川中堂秘宝館前に総工費一千五百万円をかけ慰霊碑を建立し、除幕式を盛大かつ厳粛に挙行した。安らかに眠る仲間達もさぞ喜んでくれるでしょう。
 中国の諺に「千丈の高樹もその葉は根元に落ちる」。
 青春時代は東奔西走であった同期生もいつしか磯子会という巨木のもとに集り旧交をあたため、深い友情の絆で結ばれている。ふれあいを大切にし、ロマンを求め幻想の桃源境を夢見て、限られた人生を有意義、かつ頑活に永遠(とわ)の路を力強く歩んで行きたいと思う。
 昭和二十年九月一日復員海軍上等兵曹 二十歳
以上
 

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