「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録41

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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友の遺骨を抱いて家に届ける  森川 一郎(海神・63歳)

 私は市内に青果小売商を営んで居ります。
 戦雲急を告ぐる、昭和十九年八月十四日、海軍飛行予科練習生として熊本県人吉海軍航空隊に、乙飛第四期生として入隊しました。
 昭和二十年二月四日、普通科練習生を卒業。九州・四国・朝鮮の各航空隊に五十名位づつ別れ、実務練習生として出発した。
 私は、博多海軍航空隊に入隊しました。飛行班第三分隊、第八班に属し、博多湾の彼方に見える筥崎の宮の鳥居を眺め、毎日飛行作業に整備兵と共に明け暮れました。
 三月始め、同期生が盲腸炎にて死亡。私が呼ばれ、第七班下士官外井兵曹と、白木の箱写真を抱いて船橋市に向いました。
 住所、氏名を失念、誠に申し訳なく思っています。
 空襲が激しく、下関駅にて汽車が動かず、下関駅前の旅館に一泊する事となりました。下関駅は線路が真ん中でホームが上下に別れていて、地下通路の途中に遺骨を安置する佛壇があって、其処(そこ)に遺骨を納め、駅長さん駅員さんの焼香、上下の通る方最敬礼又、お線香を上げて下さる方に敬礼答礼しました。数時間後、外井兵曹が迎へに来たので、駅長さんが立って下さいました。
 翌朝東京に向いました。東京は夕方に入り、時間の関係で市川市真間の私の家に一泊する事にしました。佛と外井兵曹と私と一緒に休みました。
 翌朝船橋の彼の家に向いました。市と町会に連絡がないので、町会事務所の前を通った時、町会の人達は驚きました。誰か家の人に知らせたのか、母親と見える人が仕事着で飛んで来ました。何か大声で叫んで泣きだしました。彼の家は漁師のようで、家族の人は仕事に出ていたようでした。大通りに面し、植木の垣根平家建のように覚えています。
 帰隊後、飛行作業に励んで居りました時、沖縄失陥らしき事が報ぜられ、空襲が激しく、福岡市は米軍グラマンの攻撃上空の乱舞、大きな蜂の巣を叩いて群がる蜂の如く夜の攻撃も凄く、対岸で福岡市内の火に包まれた町を見ていました。
 米軍機の電探を散らばづに、まとまって落ちて来るのを、最初はキラキラ光っているのをやっと近付き拾って来たのを思い出します。又空襲があると、博多空の零式戦斗機フロートを付けた水上機は、博多湾内奥に退避、陸上機は防風林の間に退避、私は昼夜間問はず、九三中練の尾翼をかつぎ、松の木の間にかくしました。しかし、私も九三中練に乗って、上空より見ると、ハッキリと飛行機は見えます。
 間もなく稲の穂が出た頃に、鹿児島海軍航空隊に派遣隊員として、転勤を命ぜられ、鹿児島空に向いました。本来なら飛行練習生として入隊すべきが、米軍の鹿児島湾上陸に備え、陸海の兵集結。しかし、鹿児島駅はホームしかなく、市中も焼野原でした。
 鹿児島空は解隊基地になっていました。鹿児島湾に立つ桜島を目の前に飛行作業に励みました。其の時、同期と整備兵米軍グラマンに銃撃され戦死、そして終戦帰郷を命ぜられ、鹿児島駅より復員の途に付きました。
 汽車が来たのに何万の兵が阿鼻叫喚の中列車に向い、鹿屋空より来た同期池田君、銚子出身の柳瀬君と三人で、若さで一隅を占領、しかし五つ目の駅隼人で全員下され野宿。翌日、改めて来た汽車に乗り東京へ。
 懐かしの人吉八代を過ぎ、筑後川の鉄橋に来た時、全員下車。筑後川鉄橋米軍機爆撃のため破壊された橋桁をやっと歩いて次の駅まで行軍。又汽車に乗り関門の手前の駅でストップ。ホームで三人飯盒炊飯してたら、子供・大人大勢見に来たのを思い出します。汽車は無蓋貨車でした。
 一路東京へ。しかし岡山駅で何時間か動かず、私達もなんとなく安心の気がしました。動き出して、梅田劇場の建物を見て、ア、大阪だなと思いました。三池炭鉱から来た娘子群が同乗していたのを思い出しました。
 池田君は浜松で下車。娘子群も静岡あたりで下車。私達二人は東京へ。東京駅のホームに下りた時、丸五日目の午後でした。銚子の柳瀬君と別れ、市川へ。
 数多く亡くなった先期・後期・同期の碑が建っていると云う、人吉空にお線香を持って行きたいと思っていますが、今だに叶わず残念に思っています。
 左は終戦時の所属と階級です。
  鹿児島海軍航空基地気付 博多海軍航空隊派遣隊 第三分隊第五班
  海軍飛行兵長 森川 一郎
 

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