「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録40

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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私の戦争体験記  峰 輝明(宮本・84歳)

 私は明治の生れで大正・昭和・平成と八十四の間社会の荒波にもまれ人生行路を乗り越えて、今日に至り健康の喜びを味わっております。その長い人生の中で小学校の頃より学校教育も軍国主義の下で、忠君愛国滅私奉公の理念等々で心髄に刻まれ、軍隊教育も受けておりましたので、昭和十二年度支那事変が勃発と同時に十二師団が誕生、其の所属の歩兵五十五連隊に入隊する様召集令状が来ました。噫々(ああ)戦争に行くのかと、心のとどめきがありました、然し当時は戦争などに行くのが男としての誇りみたいのような感じでありました。入隊迄十日余りの猶余があり学友、仕事の関係、親族等々で送別会、送別会で招待され家族の心配もよそに毎日毎夜宴会続き、愈々入隊の日が来ました。出征兵士旗の下、駅頭には大勢の人々の見送りを受け、万歳万歳の換呼の声に送られ故郷を後にしましたが、第一回目の召集ということで花やかなものでした。入隊翌日からは隊の編成を始め個々の準備に追れ乍ら完了すると同時に、中支派遣の名のもとに門司港まで列車で行き、輸送船に乗り込み母国を離れることになりました。初めて乗った輸送船で目的地まで直行するかと思っていた処、九州の五島列島の福江港に寄港し、二泊の予定で上陸しましたが、こんなに大勢の兵隊が来たことがないと話されていました。出征兵士とあって島民の皆様方の温い出迎へをうけ各地区に分散して宿泊することになり家族の方々と会談しつつ一家和楽のこの一時、私の御世話になった宅は漁業する家で新鮮な魚料理と会話に花が咲き夜おそくまで待遇されていた矢先、夜中になって明朝出航するとの連絡があり一夜でお別れ、島の遠い所から大勢の人が駆けつけて来て見送って下さいました。愈々之からが本番、母国に最後の御別れかと思い乍ら輸送船に乗り込み島民の皆様にお別れしました。ここを出ると支那海峡で何処を見ても大海原、敵の潜水艦を警戒しつつ、台湾と中国の間を上海に向って航行中、間近になったと思っていた処、作戦がかわり方向転換目差すは裏側の抗州湾ということになり、覚乱戦法かとも思いました。我々は敵地上陸第一線部隊の先兵であり敵との激突もあり得ることと覚悟はしていましたが、輸送船から上陸用舟艇に乗移り暗い夜空に上陸開始操縦する艦艇の兵士が、此の船は潮の為、流され予定の地ではなく位置が違っているので注意する様にとのことであったが、暗くて足元だけしか見えず砂の上を地下足袋で踏むザクザクと音がする位で気にかけず歩いていると突然銃声がしたのです。敵だナーと思い乍らも暗いのでどこから飛んで来るのかわからず、私の先方に上等兵が先行していたので危ないから気をつける様に注意した直後、その上等兵のウメキ声がしたのです。直感的にやられたナと思いましたが側迄行くことが出来ないのです。それというのも敵の照準軌点が先方の地点であり銃弾が砂に当る音だけわかるのです。又、次の弾が当ったのか其の時も大きな声を出したので之が最後だったのでしょう、それからは声も聞取ることができなかったのです。それで敵の照準が変れば現在の地まで弾が来る危険な状態になるので各員に砂を掘って其の中に伏せる様にして沈黙状態、そうこうして居る中に少し明るくなり対岸の様子が見える処になると後の護衛艦より艦砲射撃で敵の陣地に打撃を与えて戴き小難で助かりました。上陸して驚いた事は、敵の陣地の重要地点の真正面であり敵の警備隊は日本軍が上海に上陸するとの情報で上海に急行したことになったと思われました。そこにいた兵隊は十八線の針金で足をしばられ歩行出来ない様にして銃弾は大量そのそばに置いて鉄砲の照準距離も一定していた様で私達は助かりましたが、実戦の体験を得て戦争という残虐な行為は、今世紀だけでやめるべきだと実感させられました。上陸第一号の犠牲者を出した事が残念でなりませんでした。けれど、其の時の状態ではどうすることも出来ず、反省させられました。然し、此のことで本隊と離れているので早く合流せねばならず隊でも心配されていることと思いあせりました。二日後に本隊の居る処がわかり現在迄の行動を報告し戦死者の処置も衛生隊にお願することが出来ました。其の翌日であったと思います、日本の策戦で上海上陸が杭州湾になった為に杭州湾の警備隊が上海に移動したのが今度は杭州湾に引返す部隊と或る川の線で撃突し三日間の対陣夜になると敵は鳴物入りで接近して来るのです。こちらの方は河岸にての対戦で苦労しました。此の間の犠牲者なんと四十九名(記念写真二枚あり)後で供養搭を建てられました。それで我が隊も人員が少なくなる一方でしたが目的地南京攻略まではと頑張りました。然し、主要都市蘇州、ウーシ、チヤンチヨウ、チエンチヤン等要所々々を撃破し十二師団の威力を発揮し中国軍も我が戦力を認識する様になりました。愈々南京総攻撃の為に陣容が整いかんらくさせることが出来、我が部隊は前記の戦で友を失い減員の為、予備軍ということになり、南京落城後支那軍の退路を断つ作戦に当りました。後日、内地の新聞紙上をさわがした記事などがありましたが、此の紙面では控えさせていただきます。
 一応の戦いが終わり、我々は仏法の都市抗州市の警備につき地域の治安維持、住民への対応等々、敗惨兵の討伐等大なり小なりの戦の末、六ヶ月の駐在で、他の部隊と交代し上海に移動、人員補充も内地よりの補充により完了強化されました。次の目標である南支広東攻略に参加することになり、十三年十月頃上海を出発南支バイヤス湾に上陸、ここでは何のていこうもなく広東市に向い、ここの中山大学に十二師団の司令部が設置され治安維持に香港、九龍その他周辺の掃討に再し出勤している時、私は司令部の参謀部に勤務する様になり、昭和十四年を迎え、三月、高令者順に内地帰還が出来る様になり生死をともにした戦友と袖別れ、黄浦港から輸送船で途中潜水艦を警戒しながら懐かしい故国の地を踏むことが出来ました。
 変り果てた姿で突然帰ったので家族の者も驚いていました。戦争という事は敵も味方も死という最悪の事が起きるし、早く終結することを願い乍ら銃後の守りについて頑張る決意で帰国したものの、第二回目の召集が来たのが昭和十九年三月応召、此の度は大東亜戦争又南支警備派遣隊として広東に行き黄浦港周辺の警備が最後で終戦を迎えたもののすぐ内地に帰ることも出来ず捕虜生活、体験者でないとわからない苦境の中での生活でした。敗戦の土産も重く中国軍の支配下に於ての生活は想像以上でした。
 愈々帰国出来るようになり引揚船で二十一年の四月に母国の土を踏むことが出来ると喜んでいた処、航海中に船内にコレラ患者が出、浦賀港で停船二ヶ月病魔との戦がおこりました。船内のせまい処での発生で身動きも出来ないで病との斗い、自家が見えると喜んでいた戦友が翌日には帰らぬ友となるし二年余り苦楽を共にした戦友の家族の方々の御心労と銃後の努めを果され終戦の幕の下されたものの御苦労を感謝致し乍ら四十五年前の思い出をつたない文句でお恥かしい乍ら認めました。
 

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