「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録39
私の従軍体験記 三浦 芳雄(宮本・69歳)
一、入営前後
(1) 私は、山形県米沢市所在の旧制米沢高等工業学校(現山形大学工学部)に昭和十四年四月一日入学、太平洋戦争勃発のため在学期間三年のところを三ヶ月繰上げ卒業した。同期の電気、機械の生徒は、従来は定員三十名のところを各々六十名に倍増、又満州、台湾、韓国の諸地域からも相当数の生徒が入学、卒業も私達と一緒であった。其の頃私達は入隊を目前に控え落ちついて勉強するような雰囲気は更になく、卒業後は生か死の命題を解決しなければならないような気分に取りつかれ、ある人は宗教に、又ある人は哲学などにより命題の解決に努めたが、人生経験の浅い我々には扉は開かれなかった。
(2) 昭和十六年末、徴兵のための身体検査が行なわれ、身長(一七二cm)の割には体重(五十二kg) の少ない私でも甲種合格と判定された。当時軍は下級将校の急速な育成に大わらわであったことが伺い知ることが出来る。
(3) 昭和十七年二月一日町会長初め町会の皆様が大神宮の社前で盛大な壮行会が行なわれ、現役兵として近衛歩兵第一連隊に入営、霰まじりの雪がひひと舞う中で中隊、分隊(内務班)毎に仕分けされ、担任班長に引卒され、中隊舎前において山根中隊長の訓示があった後営舎に入り、予め準備されていた寝台を前に、戦友(河野一等兵)の手助けにより、受領した被服に氏名の註記を行ない、入営時に着用して来た学生服等を一包にし郵便で送り返してもらう。
(4) 近衛部隊は、宮城の御守衛を任務の一つとして分担していたため、被服、兵器とも一般部隊より新しく又近代的なものが支給されていた。
(5) 二月一日の入営の翌日から一期の検閲を目指し、直立の姿勢、徒歩行進等、歩兵操典に示された事項に基き猛訓練が始まった。
(6) 教官は小野寺少尉、助手として柳沢軍曹ほか上等兵一名であった。朝夕体操、銃剣術も行なわれ教官も初年兵も汗と土にまみれ、四月末日の一期の検閲を迎えた。
(7) 四月末日豊島師団長以下の検閲があり「概ね良好」の評価を得た。
(8) 引続き幹部候補生の試験が行なわれ、歩、騎、砲、工ほか経、法の希望兵種毎の試験が行なわれ、その結果により甲種(士官)と乙種(下士官)に分けられた。
(9) 私と旧制中学(府立三中、現両国高校)同級の橋本賢二君が第七中隊長として在隊され、何かとお世話になった。
(10) 軍隊は運隊と云われているように、当時大臣あるいは長官の子弟は、技術または経理将校となりいつの間にか消えて行った。私でさえも橋本君から内地滞留の暗示があったが、兵種は歩兵、地域は北支を希望し、そのようになった。
(11) 前述のように近衛部隊は特殊な任務をもつていたため、被服(帽子、襦袢、袴下、軍衣袴、衿布、編上靴、営内靴)は御守衛用、外出用、演習用の三種があり、兵器としては、最新式の九九式短銃、九六式軽機関銃を渡され、その整理、手入れには骨が折れた。
(12) 近衛歩兵第一連隊は、留守部隊業務にもなっていたことからマレーの戦斗に加わり、生還した近衛歩兵第三、及び第四連隊の古年次兵が内務班に雑居し、消灯後私的制裁が行なわれたためか虚弱体質の兵を集め、特訓班(内務班)を作り、昼は通常の訓練を受けたが、夜は特訓班に帰り制裁を免れた。私も特訓班に編入された。
二、幹部候補生
(1) 前述のように試験を受け、幹部候補生に採用されると四月一日、一等兵の階級を与えられ、五月一日付にて上等兵の階級に進められた。ここで宮城見学が行なわれ、御守衛規則の説明のほか、宮城内の主要設備を見学、二重橋に立ったときは感無量であった。
(2) 五月十日付にて前橋陸軍予備士官学校に入校、六月一日付にて伍長に、九月一日付にて軍曹の階級に進められ、十一月三十日付にて、曹長の階級に進められ見習士官を命ぜられた。これにて教育終了原隊復帰を命ぜられた。
(3) 中野学校(諜報活動等)応募の回覧があり、私も志願したが長男であり一人子の理由で外された。
(4) 学校は榛名山ろくにあり歩兵六区隊二棟、重機、大隊砲、通信の各区隊毎に一棟に分かれ、練習場は山の中腹にあり、施設は完備され訓練を行なうにはもっとも良い状態であった。
(5) 学校は国鉄群馬総社駅西方約四粁に位置し、近衛からの転属部隊は想定に基づき駈足行進を行なった処十一年式軽機関銃の担ぎ手がなく、私が最後迄担ぎ駈け抜けたことを昨日のように思い出す。
(6) 歩兵第一区隊長は田中大尉、第二区隊長は中嶋大尉、第三区隊長は大工原中尉であり、教育は熾烈を極め加えて夏期(七月)は分隊教育が行なわれ、演習中一人の生徒が倒れ死亡した。この為か、たこつぼ掘の演習は三十分穴を掘ると十分の休けいという具合に変って来た。教育中水を飲むことは許されなかった。理由は将校の水筒の水は兵の末期の水であると説明された。
(7) 学校では古年兵がいないことから原隊のような私的制裁はなかった。そのかわりに真夜中の非常呼集が必ずあり、夏の蒸し暑さに加え雷が多く、夜もおちおち眠れないこともあった。
(8) 学校入校から卒業迄外出は一度も許されず、夜になると前橋の灯火が無しょうに恋しかった。ただし、面会は二、三度許された。若々しい生徒に大きな小供がいたり、予想外な発見があり、やさしさと花やかさとがあった。
(9) 昭和十七年十一月に入ると侍従武官が派遣され、閲兵と分列行進が行なわれ中隊長の亀田中佐は全員の指揮をとる。普段と異なり区隊長もあご紐、脚絆姿で一同緊張した表情であった。成績優秀生徒には恩賜の銀時計が与えられた。
三、転属
(1) 昭和十七年十一月三十日見習士官を拝命以後、昭和十八年五月二十五日迄の主なる事項としては、北支派遣要員の教育があり、小野寺教官の補助教官を命ぜられた。
私個人の問題としては痔の手術をした。手術後二週間で中隊に復帰、その後四十年間発病しないのは陸軍第一病院が非常に上手であったといえよう。
(2) 又、見習士官として近衛部隊に在隊中、連隊本部前に五米平方位の桧のお立台がつくられ、兵の噂では今上天皇が満七才になると陸海軍少尉に任官され、命下布達式が行なわれるためとのことであった。通常、将校を新らしく迎えたときは、命下布達式が行なわれ、連隊長と当該将校は抜刀して向い合い連隊長より、「天皇陛下の命により陸軍歩兵○○中尉はこのたび○○を命ぜられる。よって同官の命令に従い服従すべし。」と刀の礼を互いに行ないラッパの吹奏を受ける。次いで○○中尉は、兵の敬礼と分裂行進を受ける。ラッパ手は通常は各中隊に所属するが、儀式のあるときだけ集まり国のしづめなど吹奏するとほんとうにその気になる。平常は各中隊の御守衛があると先頭に立ちラッパを吹奏しながら行進する様は見事であった。見習士官の戦死は上官の恥とされた。
(3) この間、同期生は中支、マレー、ジャワ、スマトラ等に派遣され、中支に派遣された吉田見習士官は、上陸するとすぐに連隊の討伐に参加、戦死したということであった。
(4) 私は昭和十八年五月転属の命令があり、同期生十名と共に鵜飼連隊長に転属の申告を行なったところ連隊長より「諸君は最も平和な地域に転属され、いろいろな経験をすることになる。その経験をもとに将来国のために大いに役立ててもらいたい」旨の訓示があり、我々も大いにその気になって出発した。
(5) 昭和十八年五月二十五日、下関出帆、同日釜山上陸、同月二十七日鮮満国境(安東)通過、同月二十九日、満支国境(山海関)通過、同月三十一日、山東省勝県着、歩兵第二一一連隊に転属した。ここで初めて外地の土を踏むことになった。直ちに歩兵第二一一連隊連隊長に着任の申告、同連隊直轄の十二中隊付となり佐野中尉に着任の挨拶を行なう。
四、戦闘
(1) 師団は歩兵第二一一連隊(東京)、第二一二連隊(佐倉)、第二一三連隊(山梨)と郷土部隊であり、津浦線(しんぽせん)沿いに展開、統括する師団長は近衛から来られた豊島房太郎中将で温和な方であった。
(2) 私たちが着任する二、三年位の前迄は、駐屯地付近は兵一名が丸腰で歩けたが今では守備位置(点と線)を確保するのがやっとであるという状況であった。
(3) 私達が到着して間もなく、連隊は出動して掃討作戦を行なうことになり、連隊長より「歩兵操典通りの戦闘を行なうよう」旨の指示があった。敵は精鋭中の精鋭で将介石主席が最も信頼していた于学忠軍(うがくちゆうぐん)(幹部将校には日本陸士出身者が多いとゆうことであった。)であって津浦線の東に展開していたが、新たな編成替えの為、津浦線を跨いで西進するとの情報に基づくもので、連隊は直ちに出動、私は十五名と重機関銃一の小隊長となり鞍部の台地に陣取っていたところ、敵は目の前の谷底を一列縦隊で西進して来た。私は好機来れりとばかり重機を前へ出して戦闘準備を整えていたら、村長と称する男が連隊長の使いだと言い山を撤去、佐野中隊に協力するよう指示があったと言うので幹部と協議、下山することとした。戦闘終了後佐野中隊長から、路次戦闘にて頭部負傷、三浦少隊は情報戦に負けた旨中隊長から連隊長に報告した。撤去せず山の上から射撃していたら于学忠軍に包囲され戦死したであろうとのことであった。
五、情報戦闘
(1) 歩兵第二一一連隊は南方に転出のため、日本にて再装備することとなり、私は北支那特別警備隊第一警備大隊に転属することとなった。
(2) 前述の于学忠軍の撤退に伴ない、毛澤東の率いる八路軍が山東省にも進出し晋冀路予辺区の行政組織を確立したという。この状況変化に対応するため警備隊が誕生したものである。大隊長は中山憲兵大佐で北京に、中隊長は坪井憲兵中尉で開欒(らん)炭鉱の林西(りんしー)に、私は趙各荘(ちようかくそう)にそれぞれ位置し、情報収集に当ることとなり、憲兵軍曹二、憲兵伍長二、憲兵上等兵一が私共歩兵三十名に配属されたが、憲兵はいずれにしても日支事変以来の強兵で統率するに難があった。
(3) 一九七六年七月二十八日大地震のあった唐山(たんさん)、林西(りんしー)、古治(くえ)では中国では最も品質の高い粘結炭が生産され、北九州の鉄の生産に大いに役立った。従って開欒地区には共産党系、重慶系の情報員が入り乱れ我々情報部隊が敵に与える影響は多大なものがあった。
(4) 従って我々部隊は夜間行動(例えば潜伏)、諜者の情報に基づく急襲等、今迄のような真面目な戦闘でなく欺瞞行動が多くとられた。
(5) この間昭和十八年十一月三十日にて、現役満期、昭和十八年十二月一日付にて陸軍少尉に進められ、予備役に編入、引続き臨時召集となった。
(6) 昭和二十年四月内地要員の内示があり、四月十九日北京出発、来た道とまったく同じ道を逆に辿り、四月二十四日博多に上陸、同月二十五日東海軍官区司令部付、五月七日には金沢師管区歩兵第二補充隊附、七月八日は歩兵第三三五連隊付、第三大隊副官を命ぜられ、八月二十日陸軍中尉に任ぜられ、残務整理のため、十月十二日召集解除となった。
六、被災
(1) 内地は戦地と異なりまだのんびりしたところがあったが、グアム、沖縄が敵の手に落ちてから内地の主要都市に爆弾の雨が降るようになった。
(2) 日本海沿いには、福井、富山、新潟と爆弾の洗礼を受けたが、金沢、柏崎は無傷で残った。
(3) 新たに編成された歩兵第三三五連隊は、富山県の郷土部隊であり、日本海からの敵の上陸部隊を水際で阻止するための張付(ハリツケ)部隊で富山で編成されたが、富山市街が丸焼になった三日前に富山県呉羽村に移動したのは部隊としてはまことに幸いであった。当夜は十二時頃快晴であることから富山市の東端を流れる神通川(川は月光を受けると銀色に光るという。)めがけて焼夷弾の雨を降らせた。このため河原におりた人々の死傷は大変多く、日本で一番であり、又復興も日本で一番早かったという。焼残ったのは海軍の水交社(鉄筋)、神通中学であったがいずれも陸軍の兵が木の枝で落ちてきた焼夷弾を叩いてけし止めた、という。そのため負傷者、死者がたくさん出たという。
七月初め日本の近代戦術は、アメリカの戦闘に対抗出来ない、との上司の意見で少尉クラスに近代的歩兵戦闘を体験させるため豊橋予備士官学校に派遣されることとなったが、私共の到着数時間前に爆撃を受け、盛んに燃えているので止むを得ず駅から士官学校に連絡、当夜は引込線の貨車に一泊することとなった。
(5) 昭和二十年八月十五日終戦となり、三三五連隊は郷土部隊であったので暫らくの間、体操や駈足をやり、果物の買出しに出掛けたところ、老人や子供に石を投げられたりしたので、兵の間に不穏の空気が出て来たので解散することとし、食糧、被服等を分配し帰させることとなった。
当時の上級士官は大隊砲に山盛りの物資を積込み家と部隊を往復し、我々下級者のひんしゅくを買うような人もいた。(完)
参考文献
千葉県(軍歴証明書)
陸軍幼年学校よもやま物語 村上兵衛
花の近衛兵よもやま物語 村上稔夫 村上兵衛
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