「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録37

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

ページID:P150324

戦争中に於いての弐年間を通じ記憶せる体験を思い起こしつつ浮かびし事態を記述す  鞠子 保雄(金堀・74歳)

  まえがき
 弐年間の体験を思い出し乍ら記述せんと心に定めてはみたものの、さて振返れば四十五、六年前の昔のこと。簡単に思い浮ぶ様な事態許(ばか)りは無い又、忘れられぬ恐怖幸運呑気だった場面は数々有れど、此れを口の先で喋べる事はいと易いことなれど、文章の如くにして、著述せねばならぬので容易なものではない、と半信半疑で悩み躊躇(ちゅうちょ)もしたが斯くては果てじと又、気持を入れ替え何としても書かねばと腹を決めた。然し乍ら若い頃とは違うし、年老いての今日で況してや人生の地の果てを歩みつつ過ごして居る我が身、俗に貧すりや鈍すの諺(ことわざ)通りで思い出た事が又、浮かんだものを其の儘うまく当て嵌(は)め表現させるのは到底無理な事とは思えど、記憶を収集し乍ら綴る気に漸やく傾きしが此らを、どこから手を下し書き始めたら良いかに突当り迷った。仕様がない、召集される前の銃後の事から思い浮かべ、それを基礎に順を辿らば道が開き続くだろうと、応召前の日毎の事より繋いでみようと思い付き茲(ここ)に決意を固めた。
  序文
 召集令状は昭和十八年の夏の事でした。
 当時私の家は南行徳町香取(かんどり)百番地であった。(現在は市川市香取一丁目百番の一)(住表は別)
 家では親の代から青果物商を営業としており、店の看板は八百清で、店内も広く売れていました。つい先頃企業統制令が執行され、町でも同業の店が幾店舗も整理されたが、私の店は好条件が揃ってた故残存店舗となった。町では四店舗に定められ、店は直ちに名称が青果物配給所と替り配給制を用いるようになった。けれども当初の事、半統制と言った具合、緩やかなものでほんの名ばかり商売としては寧ろ気楽なものだったので、前よりも尚好都合な事、重なり合い自由な商いは出来たし、張り合いも付き、面白い位で有った。勿論家内中は協力し、喜び乍ら毎日働く事に励み、幸福其のもので笑いが多かった。父親は前々より町内の幹部引続いての役員で、母親は国防婦人会の役員、私は南行徳町青年団第四支団長又警防団の本部付班長もやらされて居た。そして行徳の土地は前から行商の盛んな處(ところ)で、私の仕入先市場でも百七十人程度組合員が居り、行商組合と改め組織し県知事より許可鑑札を受け新発足した。私も同様組合員で有ったので、店舗持ちとゆう事から副会長に選ばれた。
 商売も忙しく体も随分動かしもしたが、仕事が終ってからは当時華やかなりし亀戸三業内の花柳界(かりゅうかい)で、大勢の芸者を手玉に遊ぶ楽しみも又、土地の料理店にも繁く遊んだ。八百屋仲間では市場内で評判だった。此の道楽に付いては後程現れるが、妻は一男一女三歳を頭にした二人の子供の面倒をお守(も)りの傍ら、水田の稲作りにも余念なかった。此の頃辺りから敵大型機B29が上空高度一萬米位で偵察に来たので、町中は防空演習の訓練に励み、燈火管制では各家々の見廻り等なぞで厳しく、種々な演習が行われた。此の様に家内中がお互いに内に外に又、昼夜の隔てなく毎日多忙な労働だったが、円満だった此の様な處へ令状が舞い込み来たのでした。
  前文
 其の日こそ、昭和十八年八月十三日午後だった。出征日は二十日なので七日間の余裕が有ったので、近所親戚及び付近の人々に知られる處となり吹聴された。此の頃は紙の日の丸の旗を輪に刺し、旗輪としたものを親の光は有難たくそれをいろいろな関係の人達より沢山贈って戴き、店頭は県道バス通りなのだが其の道路を挟み両側に立並べられ、旗輪の陳列の如くで付近の人々の噂となり評判が大きい程だった。そして前夜の立振舞いも両親の深い心遣いで六十人以上のお客を呼び、ほんとうに盛大なる歓送別会の宴を催して呉れ有難い思いをした。明けて翌日出征の日を迎えたら、店の前辺りは近所親戚の人達が集り居並んで居た。其の人達及び町内の役員の面々とに囲まれて鎮守様の境内へ、又同じ町内から他に一人居たので二人並んで、私が挨拶を済ませ、今度は町全域にては此れまでに無かった七名の召集だったので、全員が学校の校庭に集り合同した。此の挨拶も何かと曲りなりにも済ませて、さあ出発する事となった。応召者大勢の為か町長の計らいかと思われたが、迎えに来て呉れた車を江戸川の辺(ほとり)今井橋の袂に待たせ置く事にして呉れて、町長が先頭引率者は在郷軍人分会長、警防団長の指揮で街路を行進、道路の両側には老若男女大勢の人達が各自、手に手に日の丸の紙の旗を振り乍ら萬歳萬歳と声張り上げて見送って呉れました。軍歌の中の文句に有る。
 歓呼の声に送られて今ぞ出で立つ、との事は実に此の様相な景観を指し歌われしかと胸を打った。其の儘大勢の人達に囲まれ見送られて、所定の場所へ到着した。迎えの車は待って居た。車は大きな軍用トラックで、荷台は全部シートで包囲して有った。此れを見た私は自分が思ってたのとは大分違うな、と思った。と言うのは、普通は営門の手前まで送って行かれた。営門を通り、兵舎の前に集合するのを見て別れたのに、と其の有様を幾分知ってたからで、此の車の姿を見て心中は些か不安を抱いた位であった。これでは箱車との違いが有るだけで囚人達の輸送車と同じ様なものではないかと思った。そこへ迎えの兵隊さんが来て、直ぐに私達を一も二もなく車の中へ入る様にと指示をして乗せられました。車内はテントで覆われてる為、暗くてよく分らない有様であった。何處へ連れられて行くのか、誰しもが不気味な不安な心で居ただろうと思われた。私自身も其の様な気持に誘われて、ほんとうに気味の悪い様であった。そのうちにトラックは走り出したが、いずこをどの様にどの道を走っているのか一向に分らず、それでも七名が同乗しているので気強かったが、お互いに静かで沈黙を続け通してるうちにどの位走ったか、トラックは止まりシートを捲り上げ、車より下ろされたが周辺を見て驚いた。其處は野中の兵舎だった。それも粗末なプレハブ式な建物が大小幾棟か見えたが、周囲は一面の農地、水田と畑だけで、其の中に設置された防空隊の兵舎で高射砲の円体が築かれて、中から砲身が六カ所より出てるのがよく見えたが、戦争にだけ備え、敵機を迎え撃つ高射砲の一個中隊だった。此の時思ったが、同じ高射砲隊が行徳の丸浜養魚場の付近の海辺寄りに矢張り一個中隊有ったので、戦時中での野営陣地であるなと直感はしたが、成程此れでは思ってた事と違うのは当然である。きちんとした軍隊とは大違いだと思い乍ら諦めた。余り良い感じには思えなかったが仕方ないと観念した。其の日は何が何だか無我夢中で有り何事も分らず、只毛布と軍服其の他身装品一切なる物の支給を受けたが、食事なぞはどの様にして食べたか分らずで、第一日目は全然覚えはなく夜となり終った。
 第二日目は朝の集合号令と、そして伝達も有り初めて教練場にて教官と初年兵教育係の古年兵に並べさせられ、整列の順序を定められ係りの紹介なぞされたりした。又、内務班にては食事当番の事やら自分の官姓名の名乗りかたなどを教わったが、他の事は覚えない。三日目の朝の出来事だった。初年兵六十名がダラダラと揃わずに兵舎から出たが、教官は教練場の中央に居り、皆の集まるを待ってた。ダラダラ乍ら皆揃った時に教官は真剣な顔して赤くなって「何のザマだ」と言って怒って皆を叱り飛ばした。怖かった。三日目の事なので誰も何とも言えず只呆然と棒立ちになって、下を向いて小さくなっている許りだった。私は、少し変だな、昨日は伝達が有ったのになー、今朝はないのに何故怒られるのか分らない、と思ったから「私は昨日の様に号令と伝達が有るのかと待っていましたが、今朝はなかったのです。」と何か面倒臭い様な気持になったので、度胸を決めて教官に言って了(しま)ったのでした。すると教官は少しの間黙ってたが、幾分柔いだ口調で「今まで地方に於て相当な地位に有った者もいるだろうが、此處(ここ)軍隊は違うから其の点はよく承知して貰いたい。教官も上官の命を受けての事である、教官の言う事を聞いてそれに習って守って貰いたい。分ったな。」と言って直ぐ其の場は初年兵係に指示して体操となり、納まりはしたものの、私は少し出過ぎたかなと思いしが後の祭りで仕方ない。怒られたら謝ろうと腹に決めて居たが、其の日何の事もなく済んだ。又其の日に隊長の個室へ呼ばれたので何の事かなと気味悪く思い乍ら行って、ドアーを開けても教わった官姓名が名乗れず声が出ないで立っていたら「駄目ぢゃないか、官姓名も言わず。」と言い乍ら、笑い顔して「まあ入れ」と言われたので入ったら「僕の家内はまり子と言って、お前の性と同じだ。だから一番先に覚えたぞ。これからはいろいろな試験問題や検査も有るが質問をするからな。そのつもりで居な。」と言って煙草を一個呉れました。それから学科は小隊長の教育を連日受けていましたが、或る日隊長の精神訓話軍人勅諭と口答試問が始まったが、其の都度に何かしら一番先に鞠子と指名された。自信は余りなかったが小隊長に教わり聞かされたので、何とか曲りなりにもどうやら答える事が出来たので「ヨショシ」と言って呉れた。其の様に引き続きいろいろな試験やら速記情報の発唱等の問題に殆ど合格して居たのか、六十人中の序列二番になれたとの事を班の専任兵長に言われ「お前は一選抜になれるんだぞ」との事を言われたが、自分の頭にはピンと来なかったが、上級古年兵もその成績を認めて呉れたりした。そしてはっきりと改めて通信班に配属となったが、他にも三人居て四人が通信の新兵となったのでした。通信班は指揮小隊に属し、成績の良い者を選び出すのだとの事を聞かされた。私は運が良かった。通信班長は浦安の者で、私が市場で仲良くして居た八百屋店の近所だったのでした。班長は軍曹で、隊の兵器係りもしていたので下士官仲間では上の方で、其の班長に通信班になってから初めて個室へ呼ばれ、いろいろと隔たりのない形で土地の言葉で喋り合い、上下の差なく親切にして呉れて煙草と菓子を貰った。そして班長は「お前は序列では二番だが隊長の学科試験では一番良かったのだから、一生懸命頑張れよ。」と励まされた。又、中隊長に二度目に呼ばれて菓子を馳走して呉れ、其の時「教育が終ったら僕の当番やって呉れな」とも言われた。そして憎まれるかと思って居た教官も、そんな様子も見せず何だか却って好感を持って呉れた様にも察せられたので、尚更安心ほっとした。此の分で行けば教練にも総てに何も辛い事や苦しい事なく教育期間も済ませるな、と思ってたら、同じ土地南行徳から一緒に入隊した家の近くの同期兵が脱走して、大変な騒ぎを起こしたが、何が辛かったのかと思いやった時、俺は良い方だなと心に思ってたら其の夜、隣に寝てた同年兵通信に一緒に配属された一人の萩原と言う者が「鞠子、俺には通信勤務はとても難しくて叶わない。無理だから砲隊に廻して貰う様、明日班長に頼む事にする。」と寝床で心細い声で話したが、矢張り砲隊に廻された。何だいろいろな事が出来るなー、と思い乍らも、でも俺にはやり通せそうだからやり抜こうと思った。此れまでに何事も無くやって来たのだ、教育期間もあと二十日だ。無事に済ませたいなと腹の中で喜んでた。
 それから四日後の出来事で有った。如何なる天のいたずらか、神佛の祟りか余りに苦なしに過ごして来た罰か、幸せに恵まれし為の戒めか、インキンになって睾丸(こうがん)が赤く腫れて膨れ上がってきたので、吃驚(びっくり)して衛生兵に見て貰い、直ぐ隊長の前に連れて行かれ直ちに病院行きと決まったが、隊長は笑いを含めて曰く「お前は随分道楽したとの事だから仕方ないな。だがすっかり治して元気になって中隊復帰するよう心掛けてな。」と言って呉れたのでほっとしてたら、又「お前は勿体ないなー」と言っただけで事済んだが、本来ならこんな病気は梅毒と見傲され、軍隊では一番悪いので怒られるのだが、怒られずに済みほっとして市川の国府台陸軍病院へ行き、入院する事に決った。病院では此の様な病気故担当軍医とて勿論良い顔はせず、二十二病棟第二外科の隅の方の小部屋に入れられたが、そこには白衣を着た者が三人居た。皆古兵だったが、其の兵隊の言うのには「此處は隊と違って別世界だ。陸軍地方人なんだよ。」と言って呉れて、差別のないお互いが道楽話をして冗談言ってたので、此の場合も大いに助かり味方を得たも同然の様であった。翌日診察室へ呼ばれ、担当の軍医は「なんだ此の様な病気で入院して」と言い乍らも治療して、明日から注射をすると言い渡されたが、その注射と言うのは週一回一本、他に尻に一本打つので七十日は掛ると部屋の兵隊に教えられた。そんな具合で入院生活を続けてたが、三週間程経過したと思った時に主任軍医さんに呼ばれ、何事と思い軍医の個室へ行ったら「お前の母親が僕の知り合いの吉田機司病院に入院してて、重症との事だから面会に行って来い。外出させるから見舞って来い。」と言って直ぐ、衛生兵は新品の様な白衣を持って来て貸して呉れたが、私は不意の事とて面喰った。其の病院名はよく知ってたが、市川のどの辺だが分らない。軍医に聞く訳にもゆかず、外へ出て聞けば分ると思い、病院を出て尋ね当てたが近かった。その病院へ行き話をしたら看護婦が案内して呉れたが、部屋は個室でドアーに面会謝絶の札が下がってたので驚いたが、病室へ入れて呉れたので母親の枕元で顔を合わせた。母親は微笑し乍ら「よく来られたね」と言った。側で看護婦が鞠子さんはおつきあいが広いとみえて、面会人が余りにも多いので、先生が此の様にしなければ手術前だから為に悪いと言って此の様にしたとの事だった。母親は腎臓病で入院して、先生に「息子が国府台の陸軍病院に入院してる」と話したら主任軍医が僕の友達だから話してやる、と言って電話を掛けて呉れ、頼んだとの事が分かった。帰って来て軍医さんにお礼に行ったら「お前は今から大部屋に移る様になってるから直ぐ移れ」と言われた。大部屋は二十二人の部屋で一ベット空いて居た。私だけが移されたが、大勢なので何か皆なに出してやり、仲間入りをしたいものと家へ知らせ、食べる物と煙草なぞ届ける様手紙を出したら、早速妻と親戚の者が五人で来て呉れ、いろいろ持参して呉れて、帰りに母親の居る病院へ廻ると言っていたが、沢山の品々を持って来たので皆に配ったので、忽ち皆と友達になれたので気楽な毎日を過ごす事が出来、又軍医さんもあれ以来好意を以って呉れ扱って貰える様になった。又、衛生兵も遊びに来る様になったので、手持ちの品を上げようとしたら「ただでは勿体ないよ。夜の楽しみにしようよ鞠子さん。」と言ったのが「薬用アルコールを持って来るから其の時のつまみにしよう。」との事だった。其の夜アルコールを持参したので水を割って衛生兵五人と共に楽しんで飲んだ。そんな風で軍医が良くして呉れる様になったのが衛生兵も分かってか、八名の衛生兵と大の仲良しとなった。其の兵隊達は衛兵係りで、日曜日には必ず誰かが営兵に立つとの事だったので、土曜日の夜は誰か来て「鞠子さん明日は俺が付くから面会人を廻すからね。」と言ったが、それは入院患者に知人のない当てなしの慰問者の事なので、その様な人を廻すと言う事なのである。そんな人を営兵は病院へ連絡するので病院中に聞えるスピーカーで「第二外科の鞠子保雄さん、面会人が玄関に来て居ます。」と放送するのです。其の様にされたとしても一組や二組ならまだよいが、日曜の度に四組も五組もの時も有り、そんな際には随分まごつき困る場合も再々有ったが、時には偽の鞠子を使った事なぞ有った。主として慰問者は看護婦が多かった。そんな風なので、土曜の夜は白衣を霧吹いて寝押しをして「シワ」を伸ばし体裁よく見せて清潔感を与える様にしてました。一度或る日、五人の看護婦さんに慰問された時「此の病院は入院した日には赤飯でお祝いして呉れますよ。」と話したら驚いてたが「実はそれは高梁飯の事だったの。私も生れて初めてなので赤飯と一寸見た處では間違えますよ。」と言ったら「面白い人ですね。」と言って仲良しになり、其の後日曜日にはよく来て呉れました。中隊では戦時給与だったので、白米で良かったが、病院は平時給与の為高梁飯を食べさせたのでした。アルミの碗に山盛りにしてあるのを少し離れて見ると、赤飯その物で、初めてだと誰でも間違えると思った。初めは食べづらかったが、馴れて来たらさほどまずいものではないと思う様になった。そして毎週日曜日には面会人が何組も有って多かったので、病院内の患者は皆、鞠子保雄と言う人はどんな人か、さぞかし現役の。パリッとした若い良い男なのだろう、と評判された位で有った。其の様にして面会人が一度に重なってスピーカーで放送され、呼ばれた時には、友達に、今日は鞠子は外出してると言って断って呉れと頼んだ事も有った。それと病室には二十二人の患者が居たが、此れも珍らしい程で、全部の者が将棋を指したので、毎日交代で指して競い合ってたが、一番上の者がトーナメントをやろうと言い出し、大きな画用紙に名前を書き、壁に張り出し印を付けた。此の時私は上に二人居たが大駒を外して指したので二人に勝ち、次ぎ次ぎと勝ち進み全部白丸が付いた。こんな時に主任軍医の週番で点呼は夜なのだが、部屋の中へ入り眺めてたが此れに気付き笑い乍ら軍医は「鞠子お前はこんなものまでうまいんだな。全勝の白星ぢゃないか。」と言ってひやかされた。そんな事有ってから他の部屋から「手合せしてみませんか。」と申し込みが有ったので、此方から三人行きますと返事をして、直ぐに私が先鋒で中堅と大将とを決めて、他の部屋でも三人揃えて貰い指しましたが、私一人で三人を負かしてしまいました。そんな具合で道場破り式で他の部屋へも行ったが、私一人で勝ってしまいました。そんな事有り、私達の部屋は此れ又評判だった。
 入院中前記の如くまだまだいろいろと思い起こす事は沢山面白おかしかった事をしてる中に、九カ月以上も経過したが、或る日の事です。主任軍医に呼ばれ「お前も随分長い間の入院だったが、もうすっかり治った。悪い處はないが此の病院からは治癒退院中隊復帰は出来ない事になっているので、金沢の陸軍病院へ転送するから其の病院で幾日か気楽にして居て、五日位で気が向いたら軍医に話して中隊復帰の手続きを取って貰いな。又、金沢には良い處も有るし、兼六園と言う日本でも有名な名園も有るから、ゆっくり見物して自由気儘にかえればいいのだ。其の様に総て連絡取って有るからな。」と言われ、白衣の新しいのを着せて呉れ、衛生兵が市川駅まで送って呉れて、何か乗車券に代る記名書を渡して呉れて電車に乗せて貰ったのでした。此れまでは覚えて居るが此の先々途中の事は分らずでお先真暗。どこで乗換えたかも覚えてない。ほんとうに無我夢中で、車内でも誰と話しする人なし、淋しかったも覚えてないで、いつのまにか金沢の病院へ全く何もかもが分らないうちに到着してしまった。どの様にして斯くして着いたかは夢の如くだった。全然何事も分らずだった金沢病院で、軍医が知らせて呉れたのは、私の家の近所で、私とは又従兄が戦地より病気の為に返送されているからと、教えて呉れたので逢って見たが、話が合ないし、四日目に此の病院を退院したが、市川の病院に居た時の友達が金沢の者で、兼六園の近くだと言う事で手紙を書いて呉れて、此れを持って行き父親に渡せば分る様になっているからとの事だったので、其處の家へ遠慮なしに行って一夜お世話になり、又馳走にもなって帰りの途中で兼六園の中を見物と言う程の気もなく歩き廻ってみたが、此れとて何と言って良いか、よかったでもないし悪かったでもなしで、全然頭の中に入らなかった。それで又どの様にして金沢の駅へ着いたかも分らずで、其の儘駅へ入り列車に乗ったのだが、又どの様にして都内の駅へ到着してどの様にして戻ったか分らない儘に中隊へ着いたのでした。ほんとうに夢の様で、狐につかれて案内され手引きして貰ったのか、何が何だか此れも全然分らずで、夢の中をさまよい来た様な気持で、中隊へ着いた時は夢から醒めた様な思いだった。国府台陸軍病院より金沢の陸軍病院そして中隊までの道中は今思い出しても不思議な程で、又途中でも他隊の上官とも会わず誰にもとがめられもせずで、無事今思い浮かべるのに金沢までは白衣だったが、金沢の病院で軍服を貸して呉れたのでしょうと思いますが、軍服と気が付いたのは今で、一夜金沢でお世話になる時入って行ったら其處の主人に「第一釦が外れてますよ」と注意されたのを思い出し、中隊までは軍服着てたのだなと気が付いた様な次第で、それにしても道中何事も無かったと言うのは、軍籍除外の天下の素浪人の様なものではなかったのかと思われてなりません。其の時私がもっと世間ずれしていたらゆっくりのんびりと悠々とあちこち見物して来たかも知れないと、今思い出すと残念だったとも思いますが、如何せん家の近所では威張って居ても此の時許りは盲目で度胸も無かったのでした。
 斯くの如くして漸く中隊まで着く事が出来、到着したら衛兵に付いてた兵隊達が立上って「鞠子よく帰って来たな。」と言って皆で温かく迎えて呉れて、兵舎の中へ案内され直ぐさま中隊長の個室へ連れられて行き、復帰の挨拶の申告をしたら隊長は笑い乍ら「オー良く帰って来たな。よかった、よかった。」と喜んで呉れました。でも直ぐに「鞠子、お前はほんとうに勿体ない事になってしまったな。萬年になったよ。仕方ないな、仕様がないから馬鹿になれ、馬鹿になって呑気に暮すより道はないな。」と言われたが、此の時は十九年八月下旬頃だと思ったが、それに付けてもまだ運は付いてたのか、班長が変わらずに其の儘通信に居ったので大きに助かりました。然し同年の兵隊は通信には誰も居なくなって古年兵許り、それらは古年兵と共に毎日通信所にて勉強に練習は怠らずやったので、兵隊達は好意を以って教えて呉れ、優遇されたのと同然の様で通信勤務も早く覚えられて来た。毎日を練習と勉強に励み、通信勤務の仕事だけ古年兵並みになった。
 其のうちに演習が有り、電話機を持つ様にと言い付かったので、練習で覚えた通りに情報受信し、直ぐ発唱管に口を当て発唱したら、指揮台から「今の発唱は誰か。」と隊長の声なので吃驚(びっくり)して「ハイ、鞠子です。」と答えたら「ヨショシ、はっきりしててよく分る。聞きよいぞ。此れから続けろ。」と言われ、通信連絡は総て私がやる様に班長に言い付けられたので、どうやら此れで通信兵として一人前になれたのかな、と我乍ら思えた。通信に私を含め四人も居たのが、皆砲隊へ逃げ、私一人残り古年兵相手に総て習ったから、呑み込みも早く身に付ける事が出来たので有ったが、私は自分だけに分る暗号記号を作ったので受信は早くも出来て、元より声は大きい方だったので発唱も隊長に聞きよかったのかな、と自分で思ってたら、班長が思ってたのと同じことを言ってくれて「今では鞠子、お前が通信では一番役に立ってるぞ。よく早く此れまでになったな、忽ち上達したな。よかったな。」と言って喜んで呉れたので自信も付き、尚更向上すべく努力もした。又、班長は萬年にはなっているが一般の者皆はそうは思ってないから「挫けずにやって呉れな。」とまで励まして呉れた。
 そして十月中旬頃朝礼終って人事係の准尉が「隊で此虜で兎を飼いたいと思うんだが、誰か兎を持って来る者は居ないか、一匹持って来る者に一泊の外出をさせるぞ。」それを聞いた私は一年余り家へ行ってないので、一番先に手を挙げて外泊を貰い、家へ行った。突然の事なので家中の者が驚いたが、母親も治って居て訳を話したら「何虞かで探してやるよ。」と父親が探して呉れたが、母親は「当てもないのに随分出鱈目な事だったね。」と笑われもしたが、一年以上も帰らずで他の同年兵は皆教育終って半年後には交代で外泊していた。矢張り妻恋しの念が深かったことは隠せない。両親は気を利かして呉れて有難かった。
 隊へ戻ってからは毎日の様に練習、又は演習とに追われてたが、十一月十日に中隊の創立記念日なので演芸会を催すとの通知有り、各班共何か余興をせねばならぬので思案してたらしいが、私は班長に呼ばれ「通信ではお前以外にやれる者はいない。通信班代表でやれ。お前なら出来るから漫才をやりな。」と言われたが、漫才位なら、と思い、やる気になったが、「相手がなくては。」と言ったら古年兵なれど「成島を使えばよい。」と相手を見付けて呉れた。そして「お前は軍服では星一つで格好悪いから、俺の作業衣を着てやれ。」と白い新しい様な上下の服を貸して呉れた。「此れなら舞台へ出られるよ。」とそこまで心配して呉れた。然しどの様にしようかと班長に相談したら「お前の歌は八百屋仲間で一番うまいとの評判だ、との話を浦安にお前の友達から俺は聞かされて居るのだ。だから歌謡漫才と題して覚えた知ってる歌を全部歌っちまえ。それに外にも隠し芸を持ってると言ってたぞ。」と言われ、そんな具合でそれからは毎夜、通信所で相手と二人で猛練習を班長も夢中になって力を入れて呉れて、私の歌の順序順番を手帳に控え置いて、当日は舞台の中央に置いて有る机の裏側の中に身を隠し、手帖を見ては私の顔を見乍ら小さな声で次ぎ次ぎを誘導して呉れた。九個班九組が矢張り漫才が多かったが、私が一等で通信班が一位になったので、班内の兵隊許りでなく中隊ぢゅうの評判になり、漫才の鞠子、鞠子の漫才師と呼ばれる様にまでなって人気者になってしまった。又、其の夜会食有って少し酔っても居たが、将校連の席へ割り込み、隊長の席が空いてたので座り込み、注いで有った酒とビールを飲んで居た處へ隊長が戻って来て「誰か。」と怒鳴ったが「アアー鞠子か、いいぞもっと飲んで行け。」と怒らずに言われた。普通なら大変で怒られる處だったが、漫才のお蔭で此れも助かった。自分では分らなかったが、さぞ馬鹿馬鹿しい漫才で賞められもして、又馬鹿にもなりきれた調子だなと思った。
 その後も何回となく敵機の襲来を受け乍らも此れに応戦射撃に励んだ。此の頃からか艦載機小型機までが編隊で頻りに上空に現れたのだ。高射砲の働きも凄い程の戦い振りでも有った。連日の空襲敵機との戦闘は続いた。そして又、高射砲弾が敵機に命中して尾翼が燃え、落下し墜落する姿も見た。其の様にして毎日を過ごしているうちに、私は益々自信を持ち戦いに遂行する事が出来て、皆に認められて来たので心中嬉しく思った。そうしてだんだん戦いは益々激しくなった。空襲も遂に東京へ。三月九日夜の東京大空襲に見舞われ、次ぎ次ぎと落下される様の焼夷弾に、見る見る中に東京は真赤な火の海となり燃え上る。其の様相を見詰め乍らの勤務は実に恐しかった。それに通信所はプレハブ式で、屋根裏に松丸太で蓋の様に並ベ乗せて有るだけなのであった。ほんとうに命掛けで、一発が落ちれば木っ端微塵で有る。覚悟して情報受信発唱管に口を当てて精一杯の声で発唱したので、一先ず戦闘終ってからは大役を果したとも思った。私の情報受信は同時電話一番先に来たのを其の場で直ぐ発唱。二番手、三番手、聯隊本部、大隊本部が来る前に発唱したので、観測班の測定が早く出来るから隊長も指揮台に立ってて操作を早く号令出来るので、砲隊はそれを聞いて砲身の回転をするからで、私の発唱次第で他の中隊より遅れることになるという訳です。通信班では、他の仕事は別として、此れだけは絶対に誰にも負けないとはっきり自信を持つ事が出来た。此の様な次第で隊長にも指揮小隊長にも、又各班の兵隊にも知られ好感を持たれ、古年兵達にも可愛がられ怒られる様な事はなかった。こんな風で漫才師の鞠子、鞠子の漫才と言われ、ほんとうの馬鹿にもなりきれたりして戦闘以外には苦労なしの毎日を過ごした。處が過日の東京大空襲で神田市場が焼けて野菜が回って来なくなり、困ってるのを知った私は人事係りの准尉に「野菜を父親から貰って来ましょうか。」と話したら准尉は喜んで「それはよい。ほんとうか。」と言ったので「家は八百屋で配給までしてるから、一日置きにリヤカーに一台ぐらいなら寄せ集めの品を貰って来られる。」と言って約束し、早速兵隊二人を引連れてリヤカーを引かせて貰いに行き、父親に話した。父親は「お前が居る中隊じゃ仕様がないよ。神田市場が開場する迄での間だけなら都合付けるから取りに来な。」と言ったので直ぐ残り物でも半端物でもと思って寄せ集めて、自分でリヤカーに積んで中隊へ帰った。此の様にして四回は繰返し運んだが、神田市場も開場したのでそれまでだったが、炊事の連中にも大変喜ばれて前からも仲良くはしてたが一層深くなり、夜の空襲にて戦い終った後は必ず小夜食に決ってスイトンが出るのだが、炊事では私を呼ばって食べ放題に馳走して呉れたが、其の味の事なぞは忘れない。又豚肉の角切りが沢山入ってたからでも有ったが、此れだけは思い出される。(余談になるが豊寿園でもたまたま馳走して呉れるが、其の度思い出深く馳走になってます。)そうこうし乍らも敵機の襲撃は引続き激しくなって来て、此れに応戦してたが、中隊に突如思わぬ移動命令が下り、中隊は二分され半分は仙台へ、半分は小松川の堤防にある陣地へ回されて、他の中隊から兵隊が転属されて来て混成中隊となったが、隊長は元より私が仕えてた通りの儘だったので至極都合は良かったが、陣地内の円体(高射砲台を設置)を一箇所新設するとの事で、それには種々の運搬や作業が有るので、大八車が六、七台必要なのだとの事で隊長に呼ばれた。小松川と家(行徳)とでは目と鼻の先と言っても良い位なのを隊長は知って居ての事なので「車を借りて来て呉れないか。」と頼まれたが、嫌とも言えず早速自転車で家へ行き父親に話したら「大八車は空襲の時荷物を積んで逃げるのに必要だから貸すかな、無理かな。」と言ったが忽ち七台の車を借り集める事が出来たので、直ぐ中隊に戻り隊長に話したら喜んで、直ぐ七人の兵隊を繰り出して借りて来た。其の時隊長は「よく貸して呉れたな。お前の親は顔がきくんだろう。」と言われた。早速翌日からは土工、土木運搬と作業が始まったが、兵隊達が疲れ乍らに仕事をしてるのを見た隊長は私に又もや「お前の知っている處で、おやつになる様な物製造している處はないか。」と尋ねられたが、又具合良く近所で父親の町会役員仲間で葛餅と芋羊羹の製造をやってるのを知っていた私は、それを隊長に話したら「それはうまいぞ。」早速と言う訳で頼まれた。私が話に行ったら「今は葛餅だけだけれども、一個中隊の兵隊のおやつなら四、五日分位なら寄付して上げますよ。」と言われたが「黄名粉と蜜は付けられないからそれだけは隊の方で心配してね。」との事で承知をした。此れを隊長に話したら蜜は炊事で代用品でも作らせるが黄名粉は「鞠子、大豆が有るからそれを持って行って作って呉れないか。」との事なので「ハイ、作りましょう」と返事をしておいて、翌日からの事だったので大豆を持ち、朝から隊を出て黄名粉作りに、そして午後になれば他の兵隊がリヤカーか自転車で葛餅を取りに来る様に手配はして置いた。大豆を持ち家へ行き、石臼で大豆を引き遺し粉にする事にした。此れを母親に話したら気を利かして呉れて「では防空壕の中でやりな。一人ではうまく引けないから手伝って貰いな。」と言って妻に言い付けて呉れた。これはうまい、有難いな、母親はやはり気が利くな、と心中喜び早速妻と二人で防空壕へ入ったが、中には畳五枚が並べられて有った。二人して石臼引きが始まったのだが、葛餅貰いがとんだ良い事に出逢わされ、戯れ事遊びが出来たので嬉しかった。わざと一度に持って来ずに毎日続けたが五日間で終り、車も返し、一段落したかと思ったら、又良い話が向って来たのだ。それは中隊の中での酒保係が「鞠子、配給を取りに行くのだが、部隊本部なので金が足りないのだが二百円貸して呉れないか。」と言って来たので「二百や三百ならいつでも有るよ、持って行きなよ。」と貸したが此れには又恩典が有る。品物次第だが他の兵隊より裏で余分に廻して呉れる。こんなうまい話はないな、なんて間がよいやらと、此れも腹の中でしめたと思った。其の後も何回か有り、大きに助かったのでした。小松川へ移ってからは情報の入ってない時なぞは提下の川で、兵隊全部で蜆取りもやった。又隊で豚を一頭貰って来て、それを処理したが其の折丁度私の妻が長女を亀戸の病院ヘ一日置きに治療に通ってた時なので、炊事場の下の道を電車とバスの乗継ぎの為に、此處を通ってたのを炊事連中は皆知ってて「鞠子の女房が通るから豚肉を呉れてやれ。」と言って沢山持たせて呉れたのを見せられた。豚肉はいろいろと料理された。たっぷりと炊事に呼ばれて馳走になったが、此の事も忘れられない。又或る日隊長に呼ばれ「酒が支給品で相当来るから会食したいと思うんだが、鰻が欲しいが手に入らないか。」と尋ねられたが、実はこれも手軽に入手出来る事情は知ってたから「それは何とか手に入るけれども、隊長はお金を出さず又出そうとも思わないんですものね。」と隊長に言って「煙草一箱もあれば二貫匁位なら貰って来られると思いますよ。」と言ったら「煙草でよいなら有るよ。」と言って直ぐ出して呉れたので、行かない訳にはゆかなくなり、直ぐ出掛けたが、其の鰻が自由になれるのは丸浜養魚場の留守番で熊田と言う人で、家の隣に前から住んでて、家で世話してやった事を知ってたからで、其の人は自分の小遣い稼ぎの為に竹筒を沢山池に流し置き、それで鰻を取っては小遣い稼ぎをしてた。大分年は取ってたが煙草が大好きなのを知ってたからで、直ぐに思い出し隊長に貰ったのだった。其の頃は地方では煙草は不足してたので見せたら喜んで、早速「ポーポー」(とは前記竹筒のこと)を一本一本上げて、忽ち鰻笊に約二貫匁程を取って呉れた。私も喜んで二つの袋に入れ替えして貰い、急いで中隊へ帰りしが、翌夜早速会食となり各班に酒が配られ、蒲焼が主体の御馳走となって凄く賑やかにする事が出来た。私には特別に酒は余分に呉れましたが、これで味をしめた隊長は其の後も酒の支給配給の有る度に言い出して、二回は貰いに行きましたが、嫌な顔もせずに鰻を取って呉れたので気の毒になり、父親に何かやってと頼み置いたのでそれは済ました。空襲は毎日は無くとも日を置いては襲って来た。練習は連日余念なく怠らずにやって居た。敵機は中型小型と編隊で来た事は度々で有ったが、弾薬が缺乏してたので発砲は中止命令が再々で有ったので、敵機の飛行するのを情報だけで眺めてる事も度々で有った。そうしてる中に又隊長に呼ばれ「鞠子、お前の家の近所に蒟蒻の製造してる家はないか。」と尋ねられたが「家は八百屋ですもの蒟蒻屋なら有りますよ。」と答えたら「蒟蒻の粉が五百匁程有るが、それで作って来て呉れないか。」との事、此れはいと易い簡単だと許り引受けて其の粉を持ち、自転車で店の取引先なる平野屋と言う製造所へ行って頼んだら、気持良く受けて呉れた。そして「これから早速作りに掛るが取りに来る時は大きなリヤカー持って来てね。」と言ったが「四斗樽三本に作るから。」との事で私は吃驚(びっくり)した。「僅か五百匁の粉でそんなに出来るのですか。」と問い返したら「だから蒟蒻屋は儲かるのですよ。売物ならもっと余分に作りますよ。」と言われ尚吃驚(びっくり)した。そして出来上がる迄での間に自転車で中隊まで行って、此の旨話したら「そんなに沢山有っても仕様が無い。一樽分有れば充分だよ。それでも多いくらいじゃないか。」と言われたが、とにかく行ってみての事にしようと兵隊二人をリヤカー持って来て呉れる様手配をしておいて、直ぐ蒟蒻屋へ父親を頼み家の大型リヤカーを引いて行ったら、成程四斗樽にみっちりと詰まって三本有ったので二度吃驚(びっくり)したが、中隊では一樽で良いと隊長が言ったので丁度良い、こんな物でもお礼のしるしに車借りた家、葛餅屋、鰻を呉れた家、兎を呉れた家々にたっぷり配って御礼をした。残りは少し有ったのを野菜の礼にやった。そして一樽をリヤカーに積んで中隊へ戻った。それでも中隊は余って大隊本部へ届けたとの事だった。そんなこんなと呑気な事も有ってからはだんだん空襲は一層激しくなり、其の都度戦闘はした。大型は墜落はされなかったが小型機は何回か高射砲弾命中させ、炎焼し乍ら落下する姿を二度三度見受けましたが、尚更に弾薬は少なくなり砲隊へは発砲中止の命令は度々で有った。高度六千、七千上空を飛んでるのは発砲しても無理無駄だった様で有った。通信勤務中に其の様な感じを悟らされもした。敵機が自由に上空を飛んでるのを情報だけを受け、発唱はしても、少し気の抜けた様な気分が覚えられた。そして幾日か過ごした十五日の昼頃と思いましたが、全員集合の号令に依って整列させられて、恐れ多くも陛下の終戦の言葉をラジオにて聞かされ、涙を呑んで降伏と言う事がはっきり分り、戦争は終りを告げられたのでした。もう其の時は兵隊は意気消沈でした。私は病院より復帰したので、保護兵になってたので中隊の解散命令を待たず、其の前に一番早く八月十五日終戦命令で、二十日の午後には復員命令を隊長から言い渡されたのでした。早速自宅へ帰る事にはなりましたが、其の時に通信の内務班まで隊長が来て呉れて「鞠子、お前にはいろいろ世話になったな。取敢えず身体に付けてた物は全部持って行って良いのだから、取りまとめて持って行きな。」と言いに来てくれた。いろいろ荷造りの様に梱包してみたが重くて持ち切れない。困ったなと思ってた處へ炊事の兵隊が来て「鞠子、いろいろと心配して貰って有難う。何も無いが、此れなら家へ持って行っても幾ら有っても良いのだから御礼の気持だよ。」と白米一斗以上持って来て呉れたので、尚更に困ったが、此れは小松川橋の袂へ行き近所の誰かが商売の帰途を見掛けて頼もうと思って行ったら、丁度幸いに近所の者で牛車で運送をやってる者が通り掛ったので引き止めて、兵舎まで来て貰って荷物一切と体も共に車の上に乗せられて自宅へ無事帰ったのでした。
 自分個人の思い出に許り走り、肝心なのを一っ忘れていてもっと早く先に書くべきだったのを落して末筆になりましたが、入隊した部隊名の事ですが、此れは第一九〇一部隊と行って東京を中心とした周囲の防空隊は全部此の部隊に属してたと思います。尚中隊の陣地名は此れを長左エ門と言いましたが、陣地の用地は此の人の所有だったのではないでしょうか。それで此の様な陣地名を名乗ったと思いますが、手紙の受入れ番号は忘れたが私書箱何号でした。一個中隊とは百六十人位の兵隊でした。
  あとがき
 これまで私の弐年間の体験を思い浮かべ乍ら記述して来ましたが、全部苦なしに又、難儀にも直面せず好都合と思った事が重なり合い、幸福そのものの様に過ごして来ましたので、私の様な兵隊は恐らく外には居ないだろう、と自分自身思い込んでたので書く気になった様な次第で、読んで下さらば「成程なー」呑気な兵隊が呑気に戦時中でも此の様な事が出来たんだな、と思うのではないかと察せられて馬鹿馬鹿しいと見て下さい。又病院で体を治し、金沢の方まで官費旅行して兼六園見物出来たし、此處へわざわざ行くには大変な事でしょう。只天下御免の素浪人がまだ頭に残ってますが、此れを書いたからこそ思い出せた様なものです。総てが其の通りなのです。
 然し入院生活十カ月で萬年兵となり、復員の時まで星一つの二等兵。此れは情けなかったです。普通平時の満期兵でしたら、恥ずかしくて昼間は服着たまま家へは帰れなかっただろうと思いました。其の点終戦の復員兵で助かりました。




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