「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録36

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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応召二回外地九年 松崎省策(坪井町・89歳)

  その一 中支篇
 昭和十二年八月私が召集されたのは、佐倉の歩兵第五十七連隊で編成された特設第百五十七連隊で福井大佐を部隊長とした所謂郷土部隊に主計少尉として第二大隊付きであった。
約九百名の糧食被服や給与の責任者で部下は下士官一兵十名足らずであった。主計と云えば直接兵を指揮するのでなく、後方で算盤をはじいていれば済むと思ったら大間違ひ、大隊長と行動を共にするので幾度か死線をさまよった。
 二千二百余の部隊を乗せた軍用列車は佐倉を夜出発し直行した宇品に一泊して乗船、関門海峡を出て故山を後にすると名にしおう玄海灘でゆられゆられて着いたのは揚子江の入口の上海の飯田桟橋(旧名九江埠頭(きゆうこうふとう))であった。そこは野戦病院長の飯田少佐の戦死した処で、白木の墓標に花や供物がそなへられてあった。上陸第一歩塀の外へ出ると鼻をつくなまぐさい風が吹き三四米のクリークの中には紺の制服をつけた若い支那兵の死体が折り重なって浮かんでいた。正に乃木將軍の有名な詩の一句「十里風腥新戦場」そのもので身のひきしまる思いに打たれた。
 部隊は上海に集結して戦線の膠着していた大場鎮の攻略についた。夜襲をおそれた敵は毎夜チェコ製の機関銃の一斉射撃で防いでいた。二カ月余もかかってやっと陥落はしたものの、敵としては散々手古摺らせての予定の退却であった。それから附近の都市の警備と掃蕩戦のくり返しで、文字通り席のあたたまる暇もない歩け歩けの一年であった。私達経理室の任務と云えば三日に一度師團の野戦倉庫から糧食を輸卒の駄馬の車で受領しては各隊に分配するだけで至極平凡であったが、手榴彈にまつわる二つのエピソードを紹介したい。
 「しちよう輸卒が兵隊ならば………」と歌われたようにしちょう輸卒はさげすまれていたが、三十センチほどの棒の先きに彈薬をこめてあった支那軍の手榴彈を金槌の代わりにしようとして小隊長に見つかり大目玉をくった一人の輸卒があった。もう―つの話は、ある冬の夕方、部落について庭で焚き火をして十七、八名で暖をとっていた。その時私が焚木の中に煙を出している手榴彈を見つけて「手榴彈だ、そら逃げろ!」とどなって家の裏へ廻った時、一大爆音で彈の破片がバラバラと家の戸を打ったのであった。私の発見が三、四秒遅れていたら十八名は跡形もなく死んでいたので.あった。この模様をハガキに書いて送ったが、読んだ家内は背筋が寒くなったそうであった。
 中支の戦線は南京(なんきん)が陥ち次は漢口(かんこう)攻略とあって一年余も馴染んだ上海を後にして船で揚子江を上へ上へと進んだ。ところが途中の九江(きゆうこう)から左に折れて幡陽(ばんよう)湖に入った。その夜友軍の第一大隊は星子(せいし)へと敵前上陸を敢行して大隊長代理の戦死と云ふ悲劇を味わった。星子から盧山(ろざん)の攻撃となった。支那の詩に唄われた天下の名勝地は敵にとっては山岳を利してこの上もない防御陣地であった。東京部隊の兵が狙撃されてバタバタとたおれるのを目のあたりに見て悪気がした。その時近くにいた通信兵が私に電話を盗聴させてくれた。その内容は一線の隊長から旅団参謀へ対して第二大隊を盧山へ注ぎ込めとのことであった。押問答がくり返へされたが参謀は承知せず遂に第二大隊は命拾ひをした格好になった。將棋の駒の歩の通り、歩兵はどこへやられるのか吹けば飛ぶような存在とつくづく思い知らされた。
 手痛い損害を与へて敵は盧山を捨てて南昌に向かふ永修(えいしゆう)へとしりぞいた。わが方は三、四カ月永修に駐留して永修河の渡河戦を待った。
 その永修でのことであった。私はある朝近くの寺の中に積んであった糧抹を見に行った。異状なしとあって衛兵にあとを頼んで門を出ようとした瞬間、敵の砲彈が寺の門の屋根に当った。「あっ主計殿がやられた」と叫ぶ衛兵の声をはっきり耳にしたが、頭から泥や砂はかぶせられたがカスリ傷一つうけなかったが肝を冷やした一刻であった。
ここで永修渡河戦の大失敗を書いて、指揮官の判断の誤りがどんな結果になるかを後世にとどめたい。
 師団長の伊東中將は砲兵科の出身とあって砲の力を過信したとしか考えられない。かつては日露戦争で旅順の要塞が不落とあって、東京湾の入口にあった重砲を旅順へ運んで役に立ったことは有名であるが、永修は一つの町でしかなく、なるほど敵は河岸にトーチカをきづいて砲口をこちらに向けてはいるが、永修と旅順とは月とスッポンの違いがある。その永修えなんと三百余門の大小様々な大砲を集めたのであった。恐らく中支にあった大砲の全部を集めたとしか思へない。五月の降りしきる雨の中、兵も馬も全身を泥まみれにして、砲を曳いて永修へ永修へと集結させられたのであった。併し砲撃開始の×日は敵側にスパイされて、なんと×日の二日前に永修の対岸の丘の上には赤青黄と着飾ったクーニャンの姿をチラホラと見せて置き次の日住民は勿論兵全部は退却して仕舞った。それとは知らぬ日本軍は×日の午后三時半三百余門は一斉に砲門を開いて、それこそ文字通り百雷が一時に落ちるの有様であった。その前に一二キロ離れた処に敵は砲を置いて集結している日本軍に「いたちの最後っ屁」ならぬ砲撃を加へてわが方は時ならぬ死傷者を出す始末であった。五時砲撃終了で、水がかれた五十米ばかりの河を工兵のあやつる舟艇で渡河したが、猫の子一匹居らぬ無人の町への上陸であった。三百余門で何万発かは知らぬがとにかく一人の敵も殺傷せぬ「骨折り損のくたびれ儲け」でしかなかった。この永修渡河戦を戦史はどう綴ってあるかは知らないが実際は以上の通りであった。
 昭和十五年の三月、第百五十七連隊は帰還し軍旗を返上して解体したのであるがその解散式に起こったアクシデントを書きのこしたい。
 それは桜の散りそめた四月のうららかな日和だった。営庭の西側に祭壇を設け、連隊長以下三千余名の將兵が参列した。まず成田山の貫主の読経が始まった時、突然一陣の風が吹いて正面に掲げた大マンダラが中頃から下がパタリと切れ落ちたのであった。素早く傍導師の坊さんが上の部分を降ろしたので、一部の將校しか知らず読経はそのまま続けられて一応式は終了した。この突然の事件をなんと解釈したらいいか神ならぬ身の知る由もない。しかし仏教徒として私は中支で散華した五百名近い英霊の怨念だとしか考えられない。とにかく中壮年で妻子持ちの兵隊が多かったことを附記したい。
  その二 南方篇
 二度目の召集は昭和十六年八月で、渋谷と近い三宿にある野砲隊で今度は主計中尉として南方派遣軍の貨物廠付きであり、それこそ軍服を着た会社員で文字通りの非戦斗員であった。そして行く先はジャワ島のスラバヤと知りながら、あの十二月八日の宣戦布告に吃驚(びつくり)仰天したのはどうも戦争呆けらしかった。スラバヤの地図のコピーをとったりマレー語を通訳の軍属から習っていると、突然私は命令を受けて大竹の衣糧廠から毛布三万枚を受領せよとのことで暮れの二十日に家を出て広島に向かった。何輌のトラックが要るかと考へながら行くとなんと私の判一つで事足りたので亜然とした。そして広島で旅館暮らしで徒然をかこつ始末であった。ジャワ島の東部のクラガンの海岸への敵前上陸も敵機に見舞われただけで、至極おだやかなもので、スラバヤヘの進軍でオランダ兵を追いこす有様で、文字通りのスラバヤ入城は無血であり、カリマス埠頭のオランダの倉庫へべたべたと㋕の紙を貼って接収してしまった。
 スラバヤ支廠は、主計と將校薬剤師の將校も含めて十七、八名で私は庶務係であった。中支と違って物資は豊富だったが、ジャカルタを東京とすればスラバヤは大阪で商業都市とは云へ東京の一つ区位で、映画館は二つ、劇場も一つと云った処であった。任務と云えば東部ジャワ島の各部隊への糧抹や医薬品の補給で軍服姿の総合商社員と云った処で、至極ノンビリとしたものであった。唯赤道に近い熱帯地方だけに暑さには閉口した。一日五、六回のマンデー(水浴び)をするので五枚のワイシャツが必要であり、その汗も一度はテニスで流す必要があった。
 「ジャワ島天国、ラバウル地獄」と云われたように戦地とは思えぬ平穏さで、月に一回の敵機の来襲も爆弾―つ落とすでなく、唯サイレンが鳴り燈火を管制するだけであった。オランダ人の邸を接収して宿舎とし、当番の代りにジョンゴス(下男)とバブウ(女中)の二名を置いていたので不自由はなかった。
 しかし昔の諺に「楽あれば苦あり」で八月十五日を境に私達の運命は逆転したのであった。毎日朝八時自動車で出勤し、五時退庁、テニスで一汗流して、あと一杯と云ふ物資不足の内地とはくらべものにならない贅沢で云はば殿様だったのが急転直下乞食同様になったのであった。日本軍はギブアップしてしまったが、困るのはインドネシアの原住民、彼等は日本軍に協力していた兵補(兵隊の補助員)を核としてオランダに対して独立革命の兵を起こしたのであった。彼等は日本軍の武器や車輌を借りてオランダに宣戦布告したのであった。
 ある朝スラバヤ一のホテルの前で原住民の青年が集まってガヤガヤしている処を私は車で通り会せたら、一人の青年がホテルの屋上にはためいていた三色のオランダ国旗の青の部分を引きちぎって赤と白と二色のインドネシア国旗として、その旗を屋上で振ると青年達は一斉に「ムルテガ(独立)」と大声でどなるのであった。
 そして十月一日私達は將校と当番の二十名たらずで貨物列車にのせられてスラバヤを後にして流浪の旅をしいられたのであった。日本がオランダ側につかないように抑留されたのであった。命の別状はないが日本兵なんかにかまってはいられないと、僅かな食糧をくれるだけで今日は倉庫、明日は工場と転々とさせられた。正に餓死寸前でしかなかった。この流浪が約一年もつづいて最期にシンガボールの南のレンバンガランの二島に集結して帰還船を待つことになった。その時英軍の軍医が病院を開いて日本兵の治療をしてくれたが、私達貨物廠に手きびしい態度であったが、その軍医の言葉は今も忘れられない。「八月十五日迄は日本兵を一人でも多く殺したが、それ以後は日本兵を一人でも死なせられない。絶対に死なせないために、糧食を充分やらなければならないのだ」この人道的な言葉には頭がさがり私が一生忘れられない一言である。
 昭和二十一年七月、私は南方から最後の引揚船で大竹に上陸なつかしの内地の土を踏んだのであった。
 ジャワ島で英米撃滅独立鼓吹の宣伝劇「兵補の母」を書いて七つかの各劇団へ昭和十九年の天長節を期して一週間上演して貰ったのがせめてもの思い出である。昭和に生きた男として大なり小なりあの大東亜戦争の被害者であって見ればこま切れ人生位は文句の云えたものではない。軍歌の文句ではないが不思議に命永らえて私は平成元年六月米寿を迎えさせて頂き習志野の片隅で南方中支と散華した英霊のご冥福を祈りつ、平穏な日々を送っている。


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