「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録35

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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私の従軍記   平 蜂路(習志野台・80歳)

  (1)はじめに
 私は、本来ならば、かの忌(いま)わしい戦争に巻き込まれる必要はなかったかもしれなかったのに、なぜか日支事変から太平洋戦争の戦線でさ迷う破目(はめ)になっていた。
 私は、北米のカナダ生まれである。中学生の頃は、口の悪い友人は「お前は、メイド・イン・カナダの日本人だ」と言って笑っていた。だが戸籍上はそうであったが、私が物心ついた頃、福岡の片田舎の悪たれ小僧で、祖母や近所の人達の話でうすうす自分が本当の父や母と一緒に生活していない事を感ずるようになった。
 小学校に入学する時、自分の本名が何であるかを知らされ、驚き泣き喚いた記憶がある。祖父は、西南戦争で官軍に狩り出されて田原坂の戦いに参加したと言う強者で、厳しい大工の棟梁(とうりよう)だった。祖母は読み書きはできなかったが、村のしきたりや古事、来歴、諺等、物知りで又何でも器用にできる人だったと聞いている。私が苦労知らずで中学を終える事ができたのも、この祖母の慈愛があったからだと今でも思っている。
 私が中学校を終えるのを待つようにして母が迎えに来た。私はそんな母に余り好感が持てなかったが、祖母は、私の耳元にソッと口を寄せて、「あんたのお母さんも私が育てたのだよ、悪い人じゃないよ」と言って目頭を押さえるのを見て、私は何とも言えなかった。
 私がカナダのバンクーバー港に上陸したのは、昭和六年六月だった。いわゆる帰米二世、いや帰加二世と言う奴で、在来の日系二世とは一味も二味も違った逸(はぐ)れ者が多かった。私もその中の一人だったかもしれなかったが、点々と職場を渡り歩いた結果、邦字新聞社と日本語学校を掛け持ちで担当する事になってようやく一人前の日系人として認められる時が来た。
 (2)召集
 昭和十五年三月も終りに近い頃だった。めったに手紙を書かない郷里の叔父から便りが来た。訝かしく思ったが、懐かしさが一杯で取り急ぎ封を切って見ると、思いがけなくも召集令状が来た事が書き述べてあった。三月十日の発令で、四月十日、久留米(くるめ)輜重第十八聯隊に入隊せよと言う、例の赤紙である。そして、お前も立派な日本人だ、無分別な事をするな、先祖に恥じる行動をしてはならぬぞ……、と書き加えてあった。
 私は翌日領事館に駆け込んで、叔父の手紙を見せて相談した。若い事務官は兵役法等を示しながら、海外在留届を提出していないからこんな事になると責める。併し今更兵役法云々言われても仕方がなく困惑している私を見兼ねたのか、奥の方にいた少し年輩の事務官が近寄って来て、そんな事を言っても始まらないだろう。海外在留証明書を書いてあげたらそれで済む事だ。応召するも応召しないも本人の覚悟次第だ」と助言してくれ、そして「あんたカナダ新聞の鈴木さんの所の人でしたネ」と言葉を添えて更に慎重に考慮したが良いと付け加えてくれた。
 その夜両親に自分の覚悟の程を述べた。父は黙って腕組みしていた。母は涙声になって「あんたは日本で育てて貰ったからな……」と言ったきり声が続かなかった。この時初めて国を出る時の祖母の声が思い出された。
 バンクーバーに別れを告げる頃は四月も終りに近い、スタンレー公園にある新渡戸稲造博士の記念碑の側の桜が咲き綻びる季節だった。見送りに来てくれた妹をはじめ、皆の顔が日頃と異った雰囲気を醸していた。船が静かにカーブをしてブロクトンポイントの灯台が見えてくると、ボーッと汽笛を鳴らして、ファーストナローに向ってスピードを出し始めた。

 ふるさとの小さな駅まできてくれた叔父は「良う思い切って帰って来たナ」と再会を喜んだ。そして従弟の光木がノモンハンで戦死した事等話しながら、こんなご時世だから無理して帰って来るなとは手紙に書けなかった事も話してくれた。その晩は私の帰国を祝って作ってくれた叔母の心尽くしの手料理に舌鼓を打ちながら、従弟妹等と共に楽しく昔の事等思い浮べながら過した。
 入隊の期日から一カ月程も遅れている私の取り扱いに、役場の関係者も困り、処置に困った様子だった。丁度その時中学時代の旧友に会ったので話をすると、彼は即座に「そんなら福岡の聯隊区司令部に酒井がいるから彼に話したら何とかしてくれるよ」と教えてくれたので、早速聯隊区司令部に酒井を訪ねた。酒井は私の訴えを聞いていたが、今更言っても仕方のない事だが、わざわざ帰ってくるまでも無かったが、お前がどうしても入隊を希望するなら、現状を訴える嘆願書を書いて出したら今日明日と言う訳にはいかないが近々のうちには召集があるから、その中に加えて貰えると思う……と教えてくれた。
 私もここまで来て引っ込む訳にはいかない。私の門出のために心をこめて祝福してくれたカナダの友人・知己のためにも頑張らなければと思い直して嘆願書の作成に挑戦した。私の嘆願書の内容は、その名前の域から遠くに離れていたかもしれなかったが、数日後再び酒井の前に出て差し出すと、お前も昔とちっとも変らず頑固だのーと言いながら奥に入っていったが、暫くすると再び顔を出して、いずれ沙汰があるだろうから家で待機しているように……と教えてくれた。
  (3)入隊
 いよいよ待望の入隊の秋が来た。昭和十五年七月十日、久留米輜重兵第十八聯隊に入隊することになった。その前日は、梅雨末期特有の土砂降り。この雨の中を村の人達は、出征する私の為に村の鎮守の森に集まって武運長久の祈願をしてくれ、午後には更に駅まで見送りに来てくれた。この田舎の人の温い心遣いは私の心の奥底に深く深く刻み込まれていった。
 入隊の朝は、前日の豪雨とは打って変った日本晴れ、私達の門出を祝福しているかのように輝やかしい夏の太陽がサンサンと降り注いでいた。衛門まで送ってくれた叔父は「体に気をつけろよ、お前の任務は皇国の為に働くことだ。一生懸命にやるんだぞ、無鉄砲な事はするな!」。この言葉は私の悪餓鬼時代の事を良く知っている叔父に一本釘を打ち込まれた思いがした。叔父と言っても七つ違いの兄貴だった。
 新入兵の宿舎は六本松のバラック小屋で、前日までの豪雨の湿気を今日の太陽の灼熱で、室内はムンムンと蒸し風呂のようだった。慣れないベッドで、入隊の興奮から眠れずうつらうつらしていると、首筋のあたりや袖口に何やらムズムズして痒くなってきた。隣の奴も何やらごそごそやっている。どこかで南京虫だと小声で囁いている。私は体中がゾーッとした。室内がにわかに騒々しくなった。不寝番が小声で、静かにしろ!静かにしろ!と言って回った。そんなこんなで眠れないうちに起床ラッパが鳴り、不寝番の「起床」の声が伝わってきた。室内は突然蜂の巣を突ついたように騒然となり、これに輪をかけるように「遅い遅い、何をやってる。急がんか!」と、竹刀を振り回しながらハッパをかける。一波乱起して、漸く朝礼のための舎前整列に漕ぎつけた。点呼の後、一同東方遙拝、軍人勅諭五カ条の唱和、こうして新兵訓練の第一頁が開かれた。この朝、私にとって重大な事件が勃発した。新入兵に訓示中の堤中隊長が、「平二等兵はいるか?」と言った。一瞬私は自分の耳を疑った。すると又「平二等兵前に出て来い!」と一段と大きな声が響いてきた。私は思わず「ハイー!」と返事をして、最前列まで駆け出して行った。私の態度を見ていた中隊は、髯面を軟らげて「ここだ、ここに上って来い」と檀上を指さした。私が躊躇していると、横に付いてきた堀班長が私の腰の辺りを突ついて促した。私はもう錯乱状態に陥っていた。中隊長が、私がカナダから応召してきた事を述べた上で、「お前等もこの平二等兵に劣らぬ日本男子だと思う。栄ある帝国軍人として滅死報公・皇国の御為良くその本分を尽くして貰いたい」。その時私は、眼はかすんでくるし、耳はガンガン鳴るし、膝はワナワナ震えて、何がなんだか放心状態になってしまっていた。この事で戦友から聞いた時、私はどうして中隊長が私の事を知っていたか不思議でならなかった。
 私は幸運にも、同じ輜重隊でも自動車隊に属していた関係で、多少運転経験のある私は、僻目かも知れないが中隊長の訓示の一件もあって、諸般に渡って優遇されていたような気がした。当時は既に、ガソリンの一滴血の一滴と言われ、運転の経験者は中隊の事務当番、将校集会所当番等に回される事が多かった。戦友の運転練習で悪戦苦闘している話を聞いていると、かわいそうでもあるし申し訳ないような気もした。
 しかし戦闘訓練になると優遇も糸瓜もなかった。灼熱の練兵場で、駆ける、伏せる、飛び出す、又伏せる、匍匐して前進の連続、ある時は高良台(こうらだい)まで駆け足、駆け足しながら軍歌を歌う。息が切れて声が小さくなると、助教の罵声が飛んでくる。この難行苦行が連日連夜、「何!糞!」と歯を食いしばってついて行く。こうすればこそ皇軍としての精鋭部隊となれるのだ。誰にも負けないゾの精神が湧いてくるし、戦友同志の親愛の絆が固く固く結ばれていくような気がした。
 入隊以来約三カ月、高良台周辺の水田の早稲も早くも黄金の頭を垂れ始めてきた。サア一期の検閲だ。広い練兵場の数ケ所に白線が引かれてコースができた。ノロノロとトラックが走ると言うより動いていると言った方が実感が湧く。赤い旗が上る、白い旗が上る。その都度初年兵の顔が歪んだり、綻びたりする。一方では助教のヨーシと激励の声が飛んだり、馬鹿モン何ボヤッとしとると怒声も飛んでくる。全く悲喜交々の修羅場である。
 全員汗と涙の検閲も無事終了し、外泊も許可されて里帰りができて、これで一息と思ったのが、ドッこいそう甘く問屋は卸さなかった。翌日からは又、又、駆け足、匍匐前進と高良台の猛訓練が続く。モタモタしていると「貴様等! 一期の検閲が終って一人前の面しやがって……、それでこの大事な聖戦が遂行できると思っとるのか!この馬鹿モン!」と、助教の怒声が飛んでくる。竹刀の唸りが響いてくる。隣の戦友が赤土に顔を突き込んで「俺はもう駄目だ!」と悲鳴をあげる。後の戦友が「負けるもんか、俺は頑張るぞ!」と駆け出す。私も「ヨッシャ、俺も負けるもんか!」と大声を張り上げて隣の戦友を引き起こす。彼も元気を取り戻したのか、「ヨシャー!」と起き上る。
 こうした猛訓練も、秋風が深くなるにつれて減ってきて、自動車の運転訓練の方に重点が変ってきた。運転訓練は場内から場外に移って、ある時は善導寺(ぜんどうじ)、田主丸(たのしゆまる)、吉井を過ぎ、時には我が母校の町甘木(あまぎ)まで伸びる事もあり、又南は城島(じょうじま)・大川・柳川(やながわ)そして又羽犬塚(はいんづか)、八女(やめ)の方へと走る。慣れない手つきで肩に力を入れてハンドルを握る初心者、昔とった何とかで悠々と鼻唄混じりでハンドルをさばく者、私はこの風景を楽しく眺めながら毎日を過ごす事ができた。
  (4)前線へ
 待ちに待った出征の秋が来た。
 昭和十五年十月三十日だった。中支派遣の命令が下達された。七月十日入隊の同年兵一同歓喜に湧いた。それぞれ各人各様の事情を胸に秘めて家を出、郷里を離れてきたであろうこの若人が、約四カ月にわたる猛訓練に継ぐ猛訓練に耐え抜いて、中支派遣軍の一員として選ばれて、今度は同じ思いの滅死報国の場に出征できる事は、これぞ異体同心と言うべきであろう。
 十一月九日、門司港出港。各地で各様の見送り風景を醸し出しながら、ここまでくるとさすがの興奮も冷めてきて、なぜか人々の口数が少なくなった。皆の気持ちが解らないでもなかった。
 船はしらぬ間に岸壁を離れ、有名な荒海玄海灘も静かだった。船底に積まれた馬の臭いが船室まで伝わってくる。時々新鮮な空気を求めて船上に出る。東支那海も静かだった。私達は揚子江を遡上する船に乗り替える為に呉淞で一度上陸した。支那大陸に一歩足を踏み入れた途端に、あの上海事変の立役者大山勇夫大尉を思い出した。彼は我が朝倉中学の先輩で、この先輩が練習艦隊でバンクーバー港に寄港された際は、艦内の見学や記念写真も撮ったりして旧交を温めた事を、上海事変突発当時のカナダ新聞紙上に写真入りで掲載し、在留邦人に好評を博した事が頭に浮んできた。
 前線に向って揚子江を遡って行く船の中は、戦線に行く悲愴感はどの顔にも見られなかった。大河の流れは、時には渦を巻いて、ある時は淀み、滔々と船の前進を阻み、両岸の眺めは早減水期に入ったのか岸の稜線だけが見えるだけである。ただし河幅が広くなると、大陸の広漠たる景色が見えていた。
 十一月十九日、武昌上陸。私達が配属された部隊は第十一軍野戦自動車廠で、廠本部は対岸の漢口にあったが私達は武昌支廠に入る事になった。
 私達は武昌滞在の三日間で、大部分が最前線の移動修理班に配置先が決定した。そして宜昌周辺の各修理班に向って出発して行った。私と吉次二等兵の二人は、粤漢(えつかん)線沿線の羊楼洞(ようろどう)と言う駅からトラックで約三十分位の山中の小部落の茶工場の一部を占拠している大藤隊であった。ここは咸(かん)寧と岳陽(がくよう)の約中間であって、湖北省と湖南省の境界線の要衝と言う事であった。隊長大藤好翰大尉の話によると、西方にはかの赤壁の賦の漢詩で有名な名勝の地赤壁も近い所と言う事であった。
 私達が着いた夜、新入兵の歓迎会と言って、ささやかな酒宴が開かれた。本部前の広場に大きなドラム缶を半切りにした手造りのストーブに薪を燃やした、照明と暖房と兼用のものを中心に、長机が四、五台並べられている。その上に湯呑みやつまみ物がのせてあった。今で言うバイキング方式、その頃では風変りな宴会に見えた。隊長はストーブの薪がパチパチ弾(はじ)ける火の粉をよけながら「古い者は何回も聞いたと思うが、戦地は戦争をする所だ。だが我々は戦闘部隊ではない。敵が襲って来なければ攻める必要はない。我々の目的は、自動車が完全に走るように、輸送部隊がその輸送の任務を十分果たせるようにすれば良いのである」。古参兵達は、又隊長の十八番が始まったぞと拍手する。隊長も上気嫌で笑っている。まるで村の青年団の集会みたいである。
 この隊には関東出身者が多かった様に記憶している。大藤隊長は東京、白石上等兵は江東区、諏訪一等兵・小沢一等兵は小田原、服部一等兵は船橋か千葉の出身と思った。私はこの羊楼洞で最初の銃声を聞いた。又最初の非常呼集にも出会った。しかし隊長の言う戦闘部隊でないと言う事が銃を掴んで飛び出す事は全然なかった。古参兵の話によると、この周辺は熊六と言って熊本六師団が守ってくれて、我が大藤隊は衛兵の勤務も不要だった。
 昭和十六年十二月、私達はこの寒村羊楼洞で太平洋戦争を迎えた。軍の作戦も拡大の一途を辿り、私達の部隊も今の基地から更に南下して洞庭湖(どうていこ)畔の岳陽に移動する事になった。私は部隊の移動に初めて参加して、野戦の作業がいかに臨機応変で適切に行われているかをまざまざ見せつけられた。岳陽までは約百キロメートル位の行程だが、陸路輸送の困難さを図って鉄道輸送となり補給燃料のドラム缶から工作車等、炊事用具まで一式を約二日間で撤収して貨車積みする手際の良さには全く感心する事ばかりで、時には呆然と見とれてコラーッと一喝されて跳び上ったりした。
 岳陽に着いて駅前に宿舎と修理工場を設営し終るまで幾許もの日数を経ずして終った。久し振りの外出許可に喜び勇んで、かの有名な岳陽楼(がくようろう)見物に走った。楼上から湖周辺の美しい眺望に見入っていると、東南の方に機影のようなものが段々大きくなってくる。市街地の方で空襲警報が鳴り出した。山崎先輩が「オイ、駅の方を狙っているぞ、帰ろう!」と叫ぶと共に楼から駆け降りて行った。すると、ダダダダッと機銃掃射音、パーッと白い煙が上ったと思ったら黒い煙に変って中天に舞い上った。下から「オーイ!降りて来んか、帰るんだ!」と山崎上等兵の呼び声が響いてきた。私も階段を駆け降りて後を追った。一目散で隊に戻ってみると、残留組の古参兵が銃を担いだままの姿で、「畜生! やりやがったナ!」とくやしがっていた。何だか自分の責任のような気がして申し訳なかった。
 その翌日は、早朝から野積みしてあるドラム缶の掩蔽(えんぺい)作業でてんてこまいだった。一段落して、一同ヤレヤレと一息しているところに、日直下士官の朝田伍長が顔を出して「平一等兵、隊長が呼んでいるから急いで隊長室に行け!」と伝えた。一寸来いに良い事なしと古人は言っているが一体何だろうと私はいささか不安だった。
隊長室を覗くと「これから出掛ける。ついて来い。お前は通訳だ」私は何が何だか状況判断に苦しんだ。大股で歩く隊長、小走りでついていく私……。と、隊長は、米人宣教師が住んでいると評判の教会に入っていった。
 実は、私達がドラム缶掩蔽の為に切った竹はこの教会の所有で、日本兵が多勢で竹藪に侵入してきたところを教会の使用人が見つけて牧師に注進した。この事を牧師が日本憲兵隊に通告した。そこで憲兵隊は隊長に事実確認の連絡があり、隊長はまず一通りの挨拶をする為にこの教会に出向いて来たのであった。私は隊長の言葉を自分の知っている単語を並べて一生懸命だったが、かの牧師さん、ただ「アイ ノー、アイ ノー」そして時々「ネバー マイン、ネバー マイン」の一点張り。そして応接室に案内した。改めて紹介しようと思ったら、牧師は軽く会釈しながら立ち上って隊長の前に進み、手を差し伸して「ウエルカム サー、グラード ミー チュー!」と言った。隊長も手を出して「サンキュー ベリマッチ」とニコッとした。
 召し使いの支那娘が温いコーヒーと美味しいケーキを持って来たのを食べた。久し振りに本物に接して、私の脳裏からはなかなか抜け切れない戦場の思い出の―つである。教会から出ると、隊長は振り返りながら「平、お前もなかなかやるのー、ドラム缶転がしには忽体ない位だ……。俺も助かったぞ」とお誉めの言葉を頂いた。本件は隊長の迅速な処置で大事には到らなかったようで、その後は音沙汰がなかった。
 しかし、敵機の来襲は頻度を増し、特に駅周辺の施設が狙われる事から、隊は岳陽楼裏の荒地を利用する事となって、一定の間隔に掘った掩蔽壕に拡散し、兵舎は岳陽楼横に一般民家と見まちがえる宿舎ができた。
この頃私は、向後主計軍曹の下で炊事班長を命ぜられ、毎朝貨物廠と民間の市場通いが日課となっていた。そして大空襲を食ったのもその頃のある日、安藤一等兵の車で貨物廠の門前まで来ると空襲警報のサイレンが唸り出した。衛兵が門扉を閉して入場させてくれない。とっさに高射隊横の畑を思い出した。「安藤!  高射砲隊横の空地に行こう」と言うと、安藤一等兵も心得たもの、「ハイッ解りました」とばかりに車を反転させて、小高い丘の方にエンジンを全開して走り出す。「そこは危い! もっと先に待避しろ、急げ!」と見張りの高射砲隊員が大声をあげる。この近くは良く通る道、少し先に格好の待避できるのも承知の上である。土手の横に車を止め、飛び出す。畑の中に走り込む。すると頭上でザザザーッと音がしてくる。「来たぞ! 安藤伏せろ!」と手前の凹地に飛び込んだ。ズズズーンとハラワタをえぐるような音響と共に地響きがしたと思ったら、背中にドカーンと何かが落ちてきた。ウーンと唸っていると、班長殿大丈夫ですかと寄ってくる。泥まみれの顔の中にギョロッとした目だけが光って見える。今までの恐怖感は一瞬に吹き飛んで、プーと吹き出しそうになった途端、又ザザザーッときた。二人はとっさに今先に落ちた爆弾の穴に重なり合うようにして飛び込んだ。又ズズズーンと爆発音、漸く土埃の静まった頃起き上ってみると、今まで立っていた所にポッカリ大きな穴があいているのを見てゾーッとした。
その日の夕食のテーブルは、味噌汁に猫跨ぎが一切れと沢庵、勿論梅干のサービスはした。
  (5)粤漢線進攻
 粤漢線進攻作戦の前進基地の爆撃が激しくなると共に、我が南下進攻部隊の動きも急を告げてきた。それに従うようにして我が移動修理班も遅れじと戦闘部隊の後を追う。湖南省の省都長沙(ちやんさ)を過ぎ、衡陽(ほんやん)に迫る頃は戦闘部隊を目前にする事もあり、路傍に生々しい死体を見、また傷病者の唸り声を耳にする悲惨な情景を横目で見る事も再三であった。
 衡陽で車輌を残留部隊に譲って、徒歩部隊となった。道路情況不明と、山岳地帯に進入していく関係のようであった。進路は西南に向って、祁東(ちーとん)・祁陽(ちーやん)・東安(とんあん)と過ぎて進む。道路は寸断され、山は深くなっていく。車輌を捨てた意味が初めて理解できた。全県から南下するに従って、山の形が変ってきて、頂度南画の墨絵にあるトンガリ山となってきた。私は、なるほどあれは絵空事ではなかったのか……と、足のマメの痛さも忘れてこの奇勝に見惚れて桂林(こいりん)の町に着いた。この桂林では鋭気を養うための休養が許されると思ったが、沙汰なしで前進。
 私達の隊の最終目的地は、南支西江(せいこう)北岸にある梧州(うーちよう)の町外れの民家に荷を下して初めて解った。この梧州は、西江で繋げば東に広東・香港、そして西に南寧(なんにん)の略(ほぼ)中間にある要衝の地であった。
 私達の梧州での作戦は、自動車燃料の獲得であった。燃料と言っても、ガソリンの極度の不足で、代用燃料のアルコールの収集であった。その西江流域は、甘薯や砂糖黍からアルコールを醸成している。これを接収して水路で梧州に集積、あるいは基地へ輸送する段取りとなっていた。
 昭和十九年二月。私は命によって、高橋上等兵・古賀一等兵と共に燃料宰領のため水上輸送隊の船で、西江上流の前線基地(燃料収集班)まで行った。帰路は輸送船隊の都合で二月二十九日朝八時の出発となった。
 私達一行三名は早目に輸送隊のいる江岸の船泊り場に行った。早春の南国の朝の美しい太陽が、西江の水面にキラキラと輝いていた。私達は思わずワーッ綺麗な太陽だと叫んで、今日も元気でいこうぜと東方を遙拝し、間もなく輸送船隊の人達も揃ってエンジンその他の点検を始めた。やがて
焼玉エンジンの軽いポンポンポンと言う音が響き出した。今回の輸送船隊は三隻の小編成だった。
 私達は先頭の船に乗り込んだ。「今朝は寒いからこのカンテキを使って下さい」と言って炭火がアカアカと燃えているカンテキを貸してくれた。
 船は好天に恵まれ、西江の静かな流れに乗ってポンポンポンポンとエンジンの音を響かせながら下っていく。この時期は、減水期のためか、両岸の稜線が見えるだけで、行けども行けども何の変哲もない景色の連続だった。冗談話の好きな高橋上等兵も、そろそろ話の種の尽きる午後だった。見張りの当番になっていた古賀一等兵が突然大声で「空襲だ!  前方に米軍機発見!」と叫ぶ。オイオイ、驚ろかすなよ! と、ヒョッと前方を見ると正(まさ)しく敵機、途端ピカッ、ピカッと光ったと思ったら、ダダダダ……。私は伏せ! と叫びながら船艙に飛び込んだ。「すごい奴だ、こん畜生!」と言いながら頭を持ち上げると、周りに人影がない。「オーイ、高橋、古賀」と呼んだが返事がない。一瞬不吉な予感が脳裏を横切った。するとエンジン室の方から「ヨーシ、船を右岸に達着」と怒声が聞こえた。船体がグイッと傾いて岸の方に向う。私は何回となく水面に向って彼の二人の名を呼んだが応答はなかった。
 船隊長が異状の有無を尋ねてきた。「当方二名不明」と報告すると、「しまった。乗船の際、絶対川に飛び込んではいけないと注意すべきだった」と言って唇を噛んだ。「いや、この事については私共も日頃注意し合って理解していた筈です。ただ実際の場に直面した時の判断が……」。私の後の句は続かなかった。
 藤県(とんしえん)に着いて負傷者を病院に送り、隊の本部に電話をしたが通じない。兵站の人の奨めで電報を打った。
 その夜は兵站のベッドに潜り込んだが、戦友二人の事が脳裏を右往左往して悶々と時を過していると、本部との電話が繋がったと連絡があった。
電話口に駆けつけると、本部の前原伍長だった。私は急に声が詰って鼻汁を啜り上げていると、向うから「オーイ平、泣くなよ。お前が泣いたら俺も泣きたくなるよ。奴等も良い奴だったけど運がなかったんだ。大体の状況は電報で解った。隊長もお前が困っているだろうと心配しているぞ、変な気を起すなよ。元気で帰って来いよ」、私は電話が繋がったら一通り報告するつもりだったが、前原伍長の声でスッカリ平静さを失ってしまっていた。
 帰隊後も暫らくは腑抜けの状態になっていたが、それからどれ位の時間が経過したか、判然とした記憶にないが、南方・北方共に相当程度の戦況の変化があったものと想像される作戦命令が発令された。それは、第十一軍野戦自動車廠は北支北京に集結すべし、と言う途轍(とてつ)もないものでした。私達隊員の大部分の者が、私を始めとしてこの移動は西江を下って広東から船で北支に向うものと期待していたが、当と何とかは向うから外れるとはこの事で、前来た細道をエッコラエッコラ徒歩で北上すると聞くと、淡い夢を見ながら胸を膨らませていた連中はガックリ、と書いたら銃後を守って内地で御苦労されていた皆様には申し訳ない事だが、「俺がお国を守らねば誰が……」と豪語しながら国を出て来た勇士も、スッカリ支那の水に慣れてしまって大陸化されたのでは……と思う程だった。
 反転北上する道は険しく、テクる兵士の足は重く、桂林を過ぎ、全県まで来た時は、本来の自動車修理班ではなく、鉄道警備隊の支援隊となっていた。全県近くの駅の横にある分哨で終戦を迎えたが、正式な天皇の詔勅を拝したのは本部から届いた録音で聞いて初めて愕然としたのは、八月も末の頃であった。
 これから抑留生活となり、復員と更に数多くの体験を味わったが、はるかに制限紙面をオーバーするので割愛させて頂く事にする。




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