「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録34

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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衛生部員の従軍記  福田 一(前原東・79歳)

  一、現役から支那事変まで(二十五才)
 昭和十年一月二十日、在学延期で二十五才、近衛歩兵第四連隊に初年兵として入隊。(第七中隊第四班軽機関銃班)
 歩兵訓練を一カ月、二月から第二衛戌病院へ看護兵として転属。まず各兵科と異なり体力的には楽だと思ったが、どうしてどうして医学の一部、衛生学、担架教練から按摩術まで学ばされ、衛生に関することはこの上もなく厳格であり、教育期間が過ぎると二年兵は除隊、初年兵が入隊するまでは一切のことは全部服務しなければならず、勤務先が手術室、明けても暮れても毎日のように助手をしなければならず、手術時間二時間以上もかかる時は心身共に疲労が重なり、睡眠時間も延してくれず、翌日は所定の勤務に服務しなければならないし、夜間の手術がある時は一番閉口した、手術後の器械類の整備をしなければならず、一番楽しみの外出許可も二週に一回出来ればよい方で、重病患者が出ると不寝番に立たねばならず……。
 丁度、二・二六事件が起り、戒厳令が発せられ、とうとう昭和十一年七月二十日の満期除隊まで外出が出来ず、暗黒の世情だった。
 満期日に一年半ぶりに羽織袴に着替えた際、和田看護官(少尉)に呼ばれ、「君は実によく班内の統制をしてくれた………」という言葉を貰い、また召集がある。「元気でいてくれ」と言はれた言葉が、脳裏から今も離れない。
 なるほど翌年七月になると北支方面の動員がはじまり、私の職場、池袋駅でも毎日のように赤紙(召集令状)が誰れ彼れとなく来るようになり、予備役に編入したばかり、八月末に補充兵召集令状が、私にも来た。陸軍衛戌病院が陸軍病院と改名され、「東京第一陸軍病院九月六日入隊すべし」現役兵は僅少なため明けても暮れても手術の助手ばかり、十月下旬から日本赤十字の從軍看護婦と新しく陸軍看護婦の採用があり、お蔭で手術室は廃業になったが、今度は戦傷兵五千名、隣接の戸山学校、校内にバラック建てで収容することになり、各地陸軍病院では大手術が出来ない患者を東京に移送ばかりでなく、第一線から戦傷兵がどんどん移送されて来るようになり、上海からの病院船朝日丸で東京港に着き、病院列車(一等客車改造)で小倉、広島等からも臨時列車で東京駅に到着する。冬期に入り、病院玄関でとても病室区分など時間の浪費ばかり、其処で提案したのが、患者数により国府津、又は沼津駅まで迎えに行き、病室の収容能力を出発前に確認、二乃至(ないし)五名で乗込み、まず第一声に「皆様ご苦労様でした。只今から皆様の入る病室区分をし、病室名の札を胸に付けますからご協力下さい………」この作業が大船から品川駅近くまでで終るとホッとしたものだった。
 東京駅到着と同時に、駅では地下小荷物運搬通路を通り、東京市営バスを借上げ、病室の区分別に担架のままバスの窓から乗せることに担架を改良、お蔭で戦傷兵を寒気にさらさず収容できたが一向に召集解除どころか、手術室勤務から、酒保の拡張により酒保勤務となり、起床と同時に酒保へ行き、販売準備、仕入の注文、納品の立合いと忙しいこと、当時煙草も制限され、この煙草と日用品、特に患者の使用するタオル、綿製品、塵紙等
は統制を受け、東京市内の問屋側を低頭しながら衛生伍長が歩くのですら時には憲兵のご威光を借り乍らと言うところだが、師団経理部から各隊に配給になっていた塵紙も配給されず。
 よし、貨物取扱駅へ交渉し、品名により到着車両を教わり、問屋へ出向くと必ず「統制」という言葉、どこそこの駅にお宅引取りの紙が入っているが、「どこへ行きますか………」とジンわり交渉したところ、どの位お入りですか。取敢(あ)えずトラック一台分お預りしたいと言ったところ速時入荷したのには自分乍ら驚き、その後継続して入荷するので当時の主計大尉に感謝された。
 十五年八月、召集解除の際には病院長軍医中将名和閣下から感謝状を受け、一番予備役中楽しかった時代でもあった。(二十八才)
  二、大東亜戦争(二十九才)
 それから一年、結婚生活も一女が出き円満な生活を送っていた矢先。第五特設鉄道隊が、陸軍(参謀本部)鉄道省の間で計画され、(国家総動員による)陸軍は鉄道二個連隊ではどうにもならず、人員と資材を鉄道省からと計画され、シベリヤ方面の從軍者募集をしているとの上司からの話があり、どうせ早かれ遅かれ我々の年代は召集があるのだ、よし志願してやれということで妻に内緒で申込み、一週間位だったか、東部第八十六部隊(鉄道隊)十月十二日下志津厰舎、これが第五特設鉄道隊第十一鉄道運輸隊だった。
 この部隊名は珍しい名前であり、しかも第一、第二、第三、がなくて第四、第五だけがあり、それ以上もないというのである。
 この第四、第五とは同時に動員され、一部約二、八八〇名、二つ合せて五、六〇〇余名大部隊が編成されたのが昭和十六年九月編成下令があった。
 編成は
 乙一 司令部 軍属隊比企閣下(九十二歳)平成二年一月死亡
 乙二 運輸隊 (運輸・線路・建物の補修)
 乙三 工務隊 (土木・建築の大工事)
 乙四 橋梁隊 (土木・建築の小工事)
 乙五 工作隊 (車両の検修・補修)
 この乙二運輸隊には隊長陸軍大佐森肇の指揮下に入り、私は支那事変の衛生部員であったため、保健係という職名、本部要員であり乍ら常に第一線派遣だった。
 十月二十八日大阪港出帆、(大阪商船八重丸)これで故郷日本ともお別れだ。若松港に停泊したのは船団を組んでいたように思えた。
 玄海灘に入った途端荒波にもまれ、ジグザグ航行何時魚雷が来るか判らない。二、三日航行していると水平線の彼岸にマストが見え、日本の駆遂艦が肉眼で見え、我等一同安心した。(船酔いも一時おさまった)
 十一月初旬サンジャク岬から海防港に着岸、全員上陸前に確かアンペラ八百枚位と思ったが、右も左も判らない処で「二人で仕入れてこい」の命令には途方に暮れたが、相手が華僑広東出身が多い、筆談で契約し、舟まで持参して下されたのには自分乍ら驚いた。
 全員下船、飲料水が悪い、環境も勿論悪い劇場跡を馬小屋に我々隊員が収容されたのには閉口した。アンペラを敷き、班別にされ、ゴロ寝の生活、水が悪いため、アメーバ赤痢患者の発生、兵站病院があったのが幸、一名の犠牲者も出さなかったのが良かった。
 それから一週間位すると大源丸の貨物船で一路南下、西貢港上陸、約十日間位、グレマンソー倉庫に宿泊後、海上トラックと称する瀬戸内海航行の石炭船に乗船、昼間のみ航行、夜間は岸辺に停泊、狭い狭い船で四日間、来る日も来る日もパン食とザボン、飲料水は一日一人水筒一杯が貴重品、勿論暑くても川水で汗を拭く程度で、プノンペン上陸した途端、兵站給与の白米と梅干、味噌汁を支給された時は、我に帰えり感無量であった。
 プノンペンには丁度十二月八日の開戦前から約四十日資材が輸送出来ず残留部隊として四十五名残った。私は司令部連絡員の仕事と兵站医務室の手伝いを毎日繰返し、本隊はマライ半島のハジヤイに進駐、シンガポール作戦準備、我々資材監視は原住民と言葉を会わす日々であったが、仏国警察官が見えると何時の間にか姿を隠す。現地人に聞いたところスパイ容疑でら致されるとのこと、米英国の日本に対する経済封鎖をしたため、我々が徴集されたのだと言うことが段々と判って来た。
 いよいよ、プノンペンを後に乙二部隊の資材、これが何んと一列車編成、国境を越え、タイ国に入り、バンコク駅に入るとタイ国人が「チヤイヨ」「チヤイヨ」と口にしながらバナナ、ザボン等を車内に入れてくれるので、実に美味かった。(注、チャイヨチャイヨは万歳万歳の意)
いよいよバンコクからマライ半島に入ると、行けども行けども熱帯林とゴム林ばかりなので驚いた。(イギリスの政策で米は作らせない)
 私の医務室はアロースターに開設したが、十日位でまた転進、勝ってるときは実に転進、また転進、タンジョンマリ駐在の折だったか、丁度シンガポール陥落の報に接し、華僑の会長とも言うか、数人の仲間を連れお祝いに来て下されたのには嬉しかった。(赤紅で塗った子豚を持参)
ここで、私はデング熱にかかり南方特有の伝染病、発疹ができ食欲が無くなる。佐々木医師は心配するな、日時が来れば愈ると言われるとおりだった。
  三、ビルマ転進(昭和十七年五月)
 ラングン港上陸、いよいよビルマ鉄道任務、最初ピュンタザ、一四〇、四キロマンダレー本線、南部ビルマの雨期に入り毎日雨ばかり、外出して帰えるとまず靴の手入をしておかないと「カビ」だらけ、約二カ月駐在、鉄道連隊から引継ぎを受けると前進、ビルマ北部マンダレーラングーンから六一六、八キロ、小京都と言われるだけに王城あり、白いパコダの遠望は仏教国であればこそ、イラワジ河のアバ橋梁が落ちてる関係で独立工兵のお世話になり、船舶で小さな発動機船で渡河し、ミッチナ線の起点ユワタンに到着、原野の中に鉄道を敷設した感がした。
 ミッチナ線サカイシ起点五六四、八キロの区間を医師一名衛生下士官一名、保健係一名、雇員一名計四名でこの長い区間を担当したのだから驚くべし、隊員の診察をはじめ、現地人從業員家族まで診察しなければならず、その他防疫、車両の消毒(天然痘発生予防)等、現地人、カルカッタ大学出身のサニタリーインスペクターに教えられるところが多々あった。
 マライ半島と異なりスコール等殆んど皆無の状態、猛暑というか、午前中は比較的過ごせるが、午後はお茶を飲み飲みシャワーにかからなければいられない状態であった。
  四、第一回の爆撃
 十七年十月十二日、日本時間十時頃十二機編隊のB29が来襲。この平和であった機関区の給水搭と駅構内に爆弾投下され、乙三工務隊員が夕刻イラワジ河を渡河する予定で機材の整理中、駐留貨車の反対側に避難した者が即死十五名、現地人三十余名即死、この中にビルマ人医師が含まれていたのにはショックだった。人柄の良い、ウ・モンエー医師で住民からも信望があっただけにマイナスだった。
 この教訓をふまえ、余りにも空襲にたいする観念が無かった。それ以後構内に防空壕を造り、空襲に対する防備をすることになった。
馬来半島のようにスコールなしの晴天続き、元気だった隊員も日増しに医務室へ来る者が増加してくるという状態で、栄養器疾患が増え、医務室入室者も増加したが、幸い、鉄道病院の内科医長佐々木二郎(帰還後死亡)細菌学者がいたので薬投与と、「俺の言うことを守らぬ者は野戦病院送り」としたので、アメーバー赤痢になった者で輸送業務担当の斎藤英治駅長は医務室にいて電話で列車編成を指示し、内地帰還後も八十四才で元気で生活している。
 この爆撃で戦友木村清は足蹠裂傷でオキシフルをかけ、滅菌ガーゼに圧迫包帯を施し、野戦病院へ送ったが始期消毒が良かったため、昭南(シンガポール)兵站病院から復帰したのが半年後「俺だけ先に帰れない」と言っていたが、復員後三年胃潰瘍で死亡、元気の良い男だった。
 人種差別をせず診察したため、患者が増えたが、東京出身の憲兵軍曹と懇意になり、どんどん薬を集めて貰ったのには嬉しかったが野戦のため何処となく別れ別れになった。
 日本語の有難う・・・と言う言葉がビルマ語中に「チーズテンバレー」と言葉があっても使用せず、段々日を重ねてゆく中に仏教から来る習慣だったことがビルマ人の宗教熱で判った。寺院内に入る場合、必ず脱靴して境内に入るものだから僧侶、住民から喜ばれ、爆撃後の現地人の徴用には児玉隊長と若干の衛生材料を持参自転車で八キロから十キロの郡長宅へ要請に行き、五百名を目途に時間を約束、彼等に賃金の外に軍政監部からの宣撫品としてロンジーを一枚宛持たせるので非常に喜ばれた。
軍命令により必ず一個列車を朝までに復旧、通せというのだが、復旧資料を集めるだけでも大変なものだった。必ず衛生材料を持参、復旧作業に從事した。
 十八年二月ミツチナ線、ミツチナ駅到着と同時に無線通信隊の爆撃を受け、夕刻ナバまで来ると、前方の橋梁が銃撃を受け、此処で三週間ストップ。前戦へも、後方にも連絡不能。まずカータまで緩急車一両連結。一カ月分の食糧を貨物厰と交渉確保。昼間はジャングル待避、インパール作戦の前提。霧が上ると偵察機が必ず毎日お見舞に来る。山合いの駅で、不健康地帯アローワンスが戦前出ていたころ、駅隊員、機関支区隊、電気支区隊(通信)合計三十余名の駐在だったので心細かった。警備隊は何時の間にか撤退し、何んの警備隊か司令官はどうなっているのか、判らなくなった。
  五、撤退開始
 昭和十八年暮、ミツチナ線を鉄道連隊に引継ぎ、ユワタンを引上げ、マンダレー本部に集結、段々と戦況は思わしくない時に、陸軍軍楽隊の慰問があり、現地人にもこの音楽を聞かせたところ、愛国行進曲のメロデーをビルマ語になおし、ビルマ弦楽器で演奏。何処の村落へ行っても老若男女共歌うようになり、洋楽器に接したので大喜びだった。
 また、人種は異っても人情に変りなく、何かと協力して下されるので助かり、危険地帯には必ず注意して下された。
 十九年十一月、マンダレーを出発、しかも夜間行軍、丁度ミンゲ橋梁附近を渡河中、敵機が一機、照明弾一発投下と同時に伝たんがバラバラと投下。「乙二の皆さん、ご苦労様でした。マライ、スマトラで又、お会いしましょう………」には我々転進先も判らないのに彼等にはどうして判るのか。線路は寸断されているので、マンダレー、ラングーン間を八時間で運転したのもどこへやら、機材をトローリーに積んで徒歩行軍、十二月二日トングー着。南部ビルマ鉄道を担当。その間内地からも補充部隊三百二十六名が加わったが、次々と入院患者が増加し、健康な隊員も日々減少してゆくのには心細かった。
 トングー駐在中、現地人の親を一本の注射で生命を取止めた時は我乍ら嬉しい思いだ。その際、郡長から名前は忘れたが、戦争が終ったら、トングーに家族共来てくれと言われた時は、帰国後でなければわからないと一応理解して貰った。如何にイギリス統治時代は人種差別がひどかったことが物語っている。
 二十年四月六日、ビルマ人とも別れをおしみつつ、トングーを出発、七日にラングーン着。焦土と化した市街に変っていたが、二十五日朝司令部ヘ会報受領に行くと、も抜けのから。帰隊後、隊長に報告。本日、夕暮と共に全員出発の命令が出た。唯々一台残ったYS型のビルマ機関車に四十両近い貨車を索引するのだから大変だ。ラングーンからマルタバン線に入り、ウオーまで来たところ機銃掃射を受け機関車はボイラーをやられ、命からがら田んぼの凹地に伏せて助かり一名の怪我人もなかったのか幸だったが、戦友萩原氏の戦闘帽が落ちていたので彼はやられたな、と思いきや列車まで来たのに安心した。
 これから先、レールはあっても蒸気機関車は無い。貨車手押でそれこそレールのあるところまでと言う心細い状況。マルタバンまで徒歩行軍、夜行動物のようで、昼間は絶対に行軍出来ず、唯々陸地続きのため食糧には困らなかったのが幸だった。
 この行軍中、私は靴傷になり本隊と離れること二日遅れて本隊に到着すると、怒鳴られたので、この衛生材料をどうしてくれんだと、反対に発言した。………戦友寺沢氏(現八十余才)私と同行、実に恩人だ。現在も何彼となく、年一回の総会は何時も私は司会議事進行を担当している。
 この撤退中、シツタン河畔、マルタバンにて二十年五月八日朝、吉越清治輸送機関車担当鉄道官が、機銃掃射による戦死。人間の運命は何処にあるのかと、つくづく考えさせられた。
 また、タンビザヤ(ビルマ国境)附近にて相沢重明(元参議院議員)が、これも夜行軍中牛車から落ち、足部捻挫で徒歩出来ず、彼の装具は全部分担して戦友が所持、泰緬国境は貨車輸送だから良かったが、この梯団で衛生部員は私一人。しかも百五十名の隊員、泰国内に入ると鉄橋が破かいされている情報が入ったので、野戦病院に入院するよう本人に言ったが、聞き入れなかった彼も説得させ病院送りにした。
 その後はマラリヤ、アメーバーの患者とジャングル地帯を歩いた刺傷(虫さされ)患者が若干発生したが、いよいよ馬来半島に入る手前の渡河点(地名忘却)で市川小尉の装具を預り、患者と共に木造船を両岸にロープで渡し、工兵が網を引き渡河するので、私共の舟は対岸に渡り、後続の船がロープ切断、流されてしまったという情報が入り、途方に暮れていたところ、兵站司令から後続部隊が来るから給与も出来ない。どんどん前進してくれとのことで、マライ半島イポーまで行き、ビルマ、泰国と異なり爆撃の跡も少ない市街は実に活気に満ちていたから、安堵と共に衰弱した隊員も元気を取戻した。
 舟もろとも流された市川少尉一行も翌夕刻には本隊と合流した、少尉の顔を見たときには喜びの涙が止めどもなく流れた。
  六、クアラランプール到着
 いよいよ、シンガポール作戦時駐留したクアラランプール駅に到着すると、駅構内でインド人の信号主任が、私を見付け、無事でいたので非常に喜んでくれた。我々がマライ半島から列車で此処に付いた際、子供が餓に追込まれていた一人で、内服薬を投え、食糧事情も悪く、持参した米を少々与えたのだが印象に残っていたのだろう、翌日彼の宿舎へ呼ばれインデアン料理で歓待してくれたが、氏名も忘れてしまった。人種変れど困ったときの人助けだ。
 丁度、クアラランプールに到着すると我々隊員は着のみ着のまま、ラングーン出発の際支給された軍靴、軍服共一カ月の夜行軍で乞食同様の服装だったから、駐留していた日本人軍属が、広大な宿舎に入り乍ら同宿させない、止むを得ず構内空地に天幕生活が始まり、数日すると高台のイギリス人住宅街に移動。マライ中部鉄道隊の運営に従い、スマトラ行きの編成があり、日本からビルマ奥地と共に生活した戦友共別れ別れになり、シンガボールの検疫手続等でこの戦友とも、イギリス軍宿舎北兵舎で約二週間位だったが、船舶が無くて行けない状態であった。
 スマトラ行戦友を送り出し、私は本部クアラランプールに戻ると、担当区域が縮小され、分任出納役をやれと言う命令。早速銀行への手続を済ませたところ、翌日、今度は給与班を担当しろ。まるで幾等戦地と言えども人権無視もひどいもので、給与をやるからには他部隊と異なり「良し体力の衰えた隊員の栄養補給をしてやれ、一日四千カロリーの金を出して貰いたい」と経理主任に言ったところ、「よし」の命令を受け、貨物厰へ交渉に行ったところ、支那事変当時第一陸軍病院の戦友が、班長で居たものだから特別扱いの支給を受け、印度人にはフランス料理、中国人には中国料理と日本料理を教え、新鮮な魚は当時建築隊に依頼、冷蔵庫らしき物を作製して貰い毎日ポートセッテンハムの海岸までの列車を利用。朝出発した列車は夕刻帰着。新鮮な刺身を出し、日本酒、現地ビール等を付けたのだから隊員の喜び方は今も思い出すこともある。
 他部隊からこの給与には風の如く伝わり、公用外出と称し、我隊員の知り人を尋ね、毎昼食は我々炊事班員は残りものを食べる日が多かったが、隊員の体力回復が非常に嬉しかった。
 これと並行して、将校の給与もやれと言われたが、人権無視されたことは幾等野戦と言っても脳裏から離れず、一切お断りした。昼で三品、夕食は五品、それにデザート付と来るから羨望になるのも無理もないことで、如何に給与担当者の熱意があるかが自慢の種だ。
 当時の炊事担当者は私と広島からの森田久男と二人、他にインド人一名、中国人一名のコックと若力三名の計八名で買出しから貨物厰からの受領、献立の立会、帳簿整理等実に多忙な仕事だったが、隊員に喜ばれたのがせめてもの慰めった。
  七、終戦
 この給与も約二カ月だったが、全員本部集結となり、これは噂どおりになるという前提だろうと予感した。
 二十年八月十五日、全員宿舎前に整列の命令が出た。
 何のためか、一同聞き耳を立てて緊張したところ、本日天皇陛下が降伏の詔勅を各部隊へ隊長から伝達があり、こんなに我々は敵機に襲われ多くの戦友を失い残念で残念で、涙も出ない状況であり、「今後の行動については待機して貰いたい」の命令があった。
隊員中にも現地女性に誘惑され、何処となく隊から脱走した者あり、無念の余り自殺した者も出た。
 いよいよ撤退、今後どの位食糧を確保したら良いやら、取敢えず米百キロ俵、百五十を貨物厰から受け集結した。
 それから一カ月半東南アジア軍がポートセッテハムに上陸我々も武装解除となり、軍刀、拳銃等は全部供出、すっかり丸腰となった途端、人種は問わず、米の集結している個所を襲撃されたが、それでも百俵位は残ったように記憶している。
 錫洗錬場(山中)に移動。トラック一台で夜全部運べと言ってもマラリア患者、デング熱の羅病者が多くなり命令系統も守れなくなり、とうとう全部の米輸送は出来ず夜が明けてしまった。
 二十年十一月、シンガボールから十二カイリ離れたリオ諸島レンバン島に収容、第一次大戦後、ドイツの捕虜三万名餓死した噂を聞き、我々もそうかな………と心細さを感じたが、故郷を離れ幾星霜、毎日小高い山上に昇り、船舶の来るのを待ちこがれた隊員も居た。
 島へ来てから食糧難になり、私はクアラランプール出発の際、華僑の老婆から貰った種を、早速焼畑農場を作り、播いたところ一カ月で胡瓜の大きいのが出来、ビタミン補給を隊員共々出来た。
 恐らく老婆は中国大陸から渡り、マライのゴム林開墾に從事苦労したのだろう。名前も知らず、親切心は何人とも言えぬ人類愛で支那語で言う謝謝だ。
 まず、米は僅少、副食とて全然皆無のありさま、食塩も満足になし、製塩を提案したところ六名の隊員と海岸へ携帯天幕を張り、山から原木を切倒し、一度海へ流し、満潮時に岸へ上げ、それを釜の入口まで運び、海水は石油缶二個天秤で、腰の深さまで入り肩に上げ、釜に入れ、どんどん加熱するとドロドロになったものを麻袋の上へ流し天日にさらす。純白の食塩ができ一昼夜炎き続けて飯盒四杯から五杯がせいぜい、少々加熱が少ないとガタ落に低下してしまい重労働も加わり隊員には気の毒で困まった。
 二十一年一月頃か、占領軍の携帯口糧の支給があり一日分を二日で食べろと言うのも無理な話だが、段々と輸送が良くなったが、口糧その他米の配給も良くなり追々健康が取戻せた。
 演芸班も出来、浅草オペラ座に居た高屋朗氏が座長で巡回興行の観戦も連合軍から許可され、一時の淋しさを粉らすことが出来た。
時は流れ、島生活も半年にならんという矢先、四月下旬、第一回関東丸が到着。各隊の連絡員と患者を優先乗船。一日遅れでリバテイ型輸送船が到着。何しろ大きな船舶だけにレンパン、ガラン島に居た者が程んど乗船出来たが、二日間出港せず、乗船人員に対し薬品、衛生材料が足りないとの由、携帯用の包帯ほうが各自持参していたことが判明。
 いよいよ、レンバン島ともお別れ、一路故郷へ向う舟足は速かった。十二ノットの速力で北上し、玄海灘から日本の島々が遠望出来た時は感無量だった。
 二十一年五月八日、名古屋港に着岸、早速地方別へ帰える外食券の配布。何時も貧乏くじを引いているようなもので、ここでも一枚の食券が足らぬとか文句を言うものが続出。稲生秀三鉄道官と二人で処置しなければならず、留守宅へ電報も打てず、顔も剃る暇間もなく時間一杯、帰郷列車に間に合ったような始末だった。

  追記
 ビルマ人の挨拶なども書きたかったが、字数が足りないのでご諒承願いたい。また、当時発行の「週報」を送って下さった私の上司も他界された。


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