「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録32
青年時代から応召復員まで 蛭田 春蔵(大穴南・75歳)
はじめに
私は、この原稿を依頼された時に、青春時代の苦悩(くのう)と戦慄(せんりつ)が甦(よみがえ)りました。
私達戦友は、第一次世界大戦に誕生し、不景気の嵐に吹き捲られ青春時代に成人し、戦渦の巷に巻き込まれ、戦争さなかに出征し、米国の原子爆弾始め物量と電撃作戦でやむを得ず降伏したのです。実に残念でなりません。
時は昭和二十年八月十五日、平和の礎記念すべき日です。考えてみれば現代の世相で学生達が火炎瓶投下、又はハイジャック、乗っ取り事件など、こんな狂った世の中で良いのでしょうか。一説では、戦争に負けたから平和で住み良い日本になったと喜んでいる人もいます。人間的に今の若い人は身の破滅です。人に迷惑など掛けることは平気で、若い人達の交通事故が頻繁に続出し、又暴走族・年毎に上昇する物価高・医療の七十才以上八百円は結構ですが、不景気のどん底と戦苦に巻き込まれ、終戦と共に立ち直り、勤労生活二十数年にして退職した我々の年輩は、社会保険は取り上げられ、勤務中は健康で多少の病気はしても入院する程のこともなく、退職し、多少の預金と退職金で土地付き住宅をやっとのことで求めた人が大部分と思います。その人達が入院でもしたら大変な事です。医療費用は高く、国民保険はほんの一部安いだけです。退職二、三年の内に永年の疲れが出て病気する人が多いようです。この人達の医療に対し在務中の健康保険を継続できるよう実践に乗り出してくれる社会造りが必要ではありませんか。戦友諸君に訴えます。
私は、昭和十四年四月水戸聯隊に入隊。胃が悪く入隊できず即日帰郷になり、国を挙げての戦に対し世間の人々に恥じて日中帰れず、付き添いの兄と夜遅く家に帰ったが、軍人として入隊できず帰される時の気持ちは、本人以外の人々にはその心境はわからないと思います。
世間の人々から非国民と陰口をいわれ、一週間位は外出もせず室内に閉じ籠り我が身を嘆き悲しんでいると、母がどこから聞いてきたか胃に良く効く礦泉、小名浜(おなはま)に神白(かじろ)礦泉旅館があると教えて下さるので早速行ってみますと、一年前に胃が悪くて数日泊りで遊びに行った礦泉でした。その時親切な気持ちの良い女中さんがおり、私の下着の洗濯をお願いし、彼女の気持ちを探る為に定止帯を下着と一緒に出し、素知らぬ顔でこっそり洗濯所に行き覗き込んでいると「何号室のお客さん、下着どころか定止帯まで洗わせるなんて」と三人の女中さんが話しながら怒ってみたものの仕方なく洗っている。年上の女中さんが私を見て目で笑っている。女中さんに合図しているのだが本人は一向に気が付かず、私の悪口をさかんに話しながら洗ってくれた。その親切な女中さんを思い出し、聞いて見たら、やめて実家に一度戻り、半年位田舎におり、今は平(たいら)市のある食堂で働いていると聞き、早速女中さんに頼み、電話で彼女を呼び出しに成功。午後三時頃、懐かしい彼女が顔を見せてくれました。私は十三年の暮、お仲人さんの世話で見合をし、お嫁さんと相性が悪く断り、母は怒り、お前は自分でお嫁さんを探して貰いなさいと言われたのを思い出し、軍人になれない自分を顧みて一度恥をかいた私、親の許さぬ恋をして歌の文句ではないけれど「手鍋下げてもいとやせぬ」と言う句の通り実行する。彼女の身の上を聞いてみると、母親は十才の時お産の経過が悪くてなくなり、父は一年後に後妻を貰いましたが、母と折り合いが悪く母は連れ子をかわいがり彼女と弟に辛く当たるので家を出ました。父は十九才の時心臓病で死亡。今迄の出来事を考えると、筆や口では言いあらわせないと話してくれました。私は彼女に同情し、彼女も私の真実さに絆されて結婚を誓ってくれた。幸せな家庭を作り銃後の守りを尽くすのも忠義の一つと思い、早速彼女を連れて磯原の叔母に頼み、日立の洋服店(召集まで働いていた店)で又働くことになり、彼女は下宿屋で働くこととなりました。台所付き八畳の部屋を借り世帯を持ったが、不景気続きで裕福な生活はできなかった。一生懸命に働いたので、十五年の暮、日立市天王町に洋服店を開業。仕事も順調に進みました。洋服地も点数申告となり、付属品も豊富に配給されるようになりました。
昭和十六年三月六日に女子が誕生。紀元二千六百一年に因み、紀久美と名付けた。そのいわれは紀元の紀と皇后陛下のお誕生日三月六日地久節の日に当たるのでその久を頂き、美を付け紀久美と致しました。蝶よ花よと育てる内に、戦争も段々拡大し、間もなく陸軍歩兵第一乙種が海軍陸戦隊に編制の通知が参りました。昭和十八年一月二十四日長男が誕生。命名は栄紀と名付け、目に入れても痛くない程かわいがり育てる内に風雲急となって参りました。銃後の守り徴用工員令状が参り、日立逢瀬工場の訓練工として勤務するようになりました。寮は成沢寮で五班の班長を務め、毎朝の日課点呼・掃除・食事が終るともう七時です。馴れないゲートルを何回か巻き直しやっとできた頃もう七時半、出発号令で慌てて走り出ました。隊を組み、軍歌を歌いながら進み、正門に差しかかると「歌止め、歩調とれ、頭右(かしら右)」の号令で正門を通る。「頭直れ」の号令で数分後に作業所に到着する。作業服に着替え、工具箱からハンマーを取り出し準備する。やがて九時、作業始めのベルと共に作業開始。馴れないハンマーでたがねを打つ。狙いが狂って左人差指や親指を打った時の痛さは言葉に出せません。歯を食いしばり我慢するが、涙がぽろぽろ出る始末です。又手の平にやすり豆ができ、堅くなるまでは毎日が本当に辛かったものです。銃後も段々と物資の配給がへり、食事も切り詰められ、労働と空腹に耐えかねて女房に食べ物をかくれて持参するように近所から通勤している人にも伝言をする次第です。数日後、妻は長男を背に負ぶい、長女の手を引き、食べ物を右手に下げ、バスを下車し、寮まで三十分位かかる道を歩き、私に疲れを見せまいと笑顔で面会する姿に精神的苦労はかくせない。顔はやつれ、青春時代の面影は薄れ、妻に申し訳ないと思いました。その後幾度か妻子に食べ物を持参させ、苦労をかけた事がしばしばありました。一日の作業が終り、四時半に隊を組み、出門の時は入門と同じです。工場を出て地下足袋の音も軽く、軍歌も一声高く冴え渡り足並が揃う。夕食が一時間半後に食べられると思うからです。人間はある程度の食べ物があれば辛抱はできます。寮に着き風呂に入り一日の疲れと汗を流し、夕食が終ると点呼も済み、九時消燈で寝床に入り、子供や妻の苦労を思い出し、又馴れない仕事が目に浮び、中々眠れずお色話が出る頃、昼間の疲れが一度に襲い、ぐっすり寝込んで朝の起床ベルが鳴ると目がさめる。同じ繰り返しで苦労を重ね、三ヶ月の教育期間も終り、自宅から通勤できるようになったのも束の間、一週間目に運が悪いと申しますのか、甚だ陛下に対し奉り不忠者と思いますが、戦争に負けて時世が変ったから申し述べても良いと思います。赤紙召集令状参りし時の心境いかばかり、二人の子供を両膝に乗せ、妻の手を握り泣くこともなく、ただこれからの妻子の生活を考えます時、私達親子の不運を嘆き悲しみ、無邪気な子供を見て涙が止めどもなく流れ、妻は泣き伏すばかりです。
本島君と言う支那事変で大腿部貫通で除隊して日立市内から工場に通勤している同級生がお祝いの言葉を述べに参りまして、私は涙を見せまいと笑顔を作って挨拶に出ました。長女が生まれて一年位の時に、私の家は店舗と六畳二間四畳半の部屋があり、上野松坂屋裁縫部出身の中野さんと言うお針の先生に六畳の部屋を貸していました。本島君が私の所に遊びに来ている内に先生と恋仲となり、結婚をしたいと言うのでお仲人を引き受け、式をあげたのは私の応召する半年前の出来事です。友人の話を書きますと長くなりますので今後に書く事に致します。出征後の事は良く面倒見てくれると力づけ励ましてくれた友人でした。洋服の修理一つできない妻と幼子二人を残しいかに軍の庭に立つ身とて、何をなすべきか我が心が迷います。昭和十四年応召の時は我が身だけであったので、さほど気にも止めずにむしろ自分が出征し立派な手柄を立て帰郷する事のみの考えでした。しかし今度は妻子三人残してお国の為出征する訳で、本当に明日からの家族達はどうして生活していくかと思いますと実に心配でなりません。日立製作所購買部より、お米の配給だけは出征家族に渡すと連絡がありましたが、他の物資は不足で、当時として洋服地の横流しはすべき事ではなかったが背に腹はかえられませんので目だたないよう販売、生活に当てる事にし、ひとまず私は実家に戻り、出征するようになりました。家族を連れて磯原(いそはら)町木皿半蔵(きさらはんぞう)の本家に戻り、村人達の送別会に招かれ、出征の挨拶を述べ、ご馳走になり、翌日昭和十八年八月十五日、忘れる事のできない入団当日が参りました。出征幟を数本打ち立て、国民服に赤欅を掛け、姿勇ましく、軍歌の嵐、日の丸の旗の波、湧き立つ万才万才の声に送られ、磯原駅広場に到着。十数人の出征代表者の挨拶があり万才を三唱してホームに入った時は、駅周辺は旗の波、軍歌も一声高く冴え渡りました。汽車は平(たいら)方面から滑り込み、車中の人となった時は「歓呼の嵐」が一段と高まり、汽車は静かに発車、同時に「暁に祈る」の軍歌と変り、血筋と言うものは恐ろしいものです。
あああの顔で あの声で 手柄頼むと
妻や子が ちぎれる程に 振った旗
その瞬間、一姫二太郎が紅葉のような手に握りし日の丸の旗を無意識に振っているではありませんか。お父さん手柄を立てて、無事凱旋するよう励ましているかと我が胸中深く納め、落ちる涙を瞼で止め、万才万才の声に送られて列車は出発。各駅毎に出征兵を乗せ、万才と旗の波が沿線に限りなく続き、その時の出征兵は茨城県下全面的で大出動兵でした。車中変りなく列車は東京駅へ、到着ホームは出征兵の波で身動きもできません。忘れる事ができないのは、真夏の太陽が照る午後二時、階段中程に閉じ込められて数十分、暑さで汗は滝の如くに流れ気が遠くなりそう。やっとの事で動き出し、気分が少しづつ良くなり、横須賀線に乗り替えた時は漸く治りました。宿に着いたのは夕方です。同じ顔見知りの戦友数人で酒を飲み交し、明日はどこの隊に入隊するか等語りながら八時頃夕食を終り、いつの間にかお色気話が始まり、皆思い出のロマンチックな話がはずみ、夜の更けるのも忘れ話し合い、私は前編の話を語り、思い出話が終る頃夜の都に出ました。横須賀(よこすか)は燈火管制で色街のネオンは異様な輝きで色香が漂う。再び帰る当てのない戦況、この世の娑婆が男子最後の夜です。色街に繰り出すのも無理ないでしょう。上官はいつでも外泊できます。新兵は半年位は外泊がないと思う。人間生ある者は誰も色気を好む。私も明日から生か死か生きて帰れる当てのないこの世の地獄を一夜でも人生の快楽感を味わいたいと数人と共に色街に繰り出しました。色香艶やかにして鼻を突き興奮す。汐風に吹かれほろ酔い歩き、酔いが覚めて妻子を思い出し、途中飲食店で冷酒を呑んで宿に戻る。一日の疲労と酒酔いでぐっすり眠りました。翌朝早く起き、九時入隊、食事を済ませ八時半頃海兵団の門を潜り身体検査を終り主計兵の官名を頂く、早速兵舎に駆け足、集れの号令が掛かり休めの号令が掛かる。衣納袋を各々頂き作業服と国民服を着替え、国民服は小包にして現住所に送りました。古年兵から海兵団内の話と甲板掃除や釣り床の釣り方を教えてもらった。炊事当番は二人一組で一日交代でやるようになり、最初に何と言う兵だったか記憶がないが、烹炊所から食事を持ってきて戦友の食事を先に盛り始めたら班長が怒り出して、上官の食事を後回しとは何事かと怒り狂い精神棒で甲板をどんどん打ち、その兵に「直立不動の姿勢足開き、歯を食い縛れ」の号令を掛けるや否や、左右の拳を握り往復びんたが頬を打つと顔は見る内に腫れ上り、二目と見られなくなります。食事の時間は短く、ご飯に味噌汁をかけ流し込んだ記憶がある。夕食が終り十五分間休憩。「煙草盆出せ」の号令に、休憩所は新兵でごった返す。拡声機で「釣床降し」の号令が鳴り渡り、釣床競争が始まる。釣床は重くて思うようにできず、すぐに又「釣床納め」の号令が掛かる。結び方は四ケ所を結ぶ。バランス良く結べない。大変な苦労です。まごまごしていると精神棒で尻を強く打たれる。ぐずぐずに結ぶと両手で頭上高く差し上げ、足を開き、三十位たたされ、手が疲れて自然にちじみ、頭で支えるようになると後から尻を撲られ本当に辛いものです。「釣床降ろし五分」「釣床納め八分」が正規の定めです。誰も同じような事をされたと思いますが、特に甲板掃除、掃布を用意し、五十メートル位の甲板を四つ這いになり腰高く駆け出す。手足に力が入り、手がだるくなり大腿部が痛くなります。途中で立ったり、遅い時は精神棒で尻を撲られ、消燈前に一時間半位反省と説教が毎晩あり精神棒の嵐がびゅんびゅんと異様な唸りを立て飛んでくる。両手を上げ足を開き体を半ば前に倒す姿勢なので前に二三歩飛び出す兵もいる。数回撲られると尻が腫れ上り「反省終り」の号令が掛かると、軍隊ではお手洗を厠と言うが、厠に行っても痛くてしゃがむ事もできなくなる。この世の地獄です。やっとのことで海兵団生活を終り、館山海軍砲術学校に転勤を命ぜられる。始めて着る海軍制服、衿は濃紺、雄々しく粋なセーラー服の水兵さんができ上った。横団練兵所に「集合、整列」番号が掛かり声高く九十七名が番号を終ると出発号令と共に衣納袋を肩にかつぎ、足並み揃え逸見桟橋(へんみさんばし)に到着。乗船間もなく船は軍港を離れ、横須賀と館山の中間に差しかかった頃、一天にわかにかきくもり、雷雨激しく波高まり船は木の葉の如く揺れ動き、みるみる内に船酔いせる兵が続出し始めた。私もその一人です。乗船前に上官が船酔いする兵はご飯を沢山食べれば船酔いはしないと言うので多く食べたが効きめなく、本格に上げ始め、何にも吐き出す物がなく、空吐きは誠に辛いものです。船底で苦しんでいるうちに船は館山桟橋(たてやまさんばし)に到着。上陸して十分程過ぎたら元気になりました。船酔いは本当に不思議な病気です。四列縦隊を組んで歩調高く、靴の音も勇ましく進むと突然「頭右」の号令が掛かる。士官に対しての敬礼だった。「直れ」の号令が掛かり並足となる。幾度か同じ敬礼を繰り返し、途中峠の茶屋で昼食、おにぎりを食べ、一時間休憩を取り、「集合」の号令が掛かる。隊を組み出発の号令が掛かり、足に豆ができて踏み出す時の痛さ辛さ、歯を食い縛りやっとの事で館山砲術学校に到着した。兵舎に集合、班が決まり、私は五班の十番目です。烹炊作業の班が決まり私は二班で、当番・非番とあり、当番は翌朝二時起床烹炊作業にかかる。五時半迄に配食を終り、釜から配食器にうつす時、ご飯が杓子から右手親指と人差指の付け根のところに転がり落ちてお灸をすえられたように熱い。思わずあちちと口走ります。段々配食も慣れ思うようにできるようになります。煮物、味付けはなかなか難しい。毎日食事点検当番は主計室に持参してドアーをノック、「入れ」の合図があり、入って官姓名を名乗る。料理に対する質問もあり、調理学には無学なので説明できず、最初は不慣れの為に苦労しました。非番は野菜切りや、米とぎで日中追い廻され其方此方で精神棒の音が鳴り響きました。暇なので作業をしていないと怒鳴り喚き尻を精神棒で撲られます。一時たりとて油断が出来ません。私は作業が終る頃、箒を一番先に取り掃除を始め、作業終りの合図があるまで働いている様に努力しました。一度も失敗はない。其れなのに休憩の時に九州人で煙草がなければ分けてやるよと云うので何の気にも止めずに私と病死したS君が煙草を分けて貰い班長に預けていたお金を出して頂く様、私とS君がお願いした処、班長は顔色を変え、お前達のお金であっても班長のお金だ。班長の許可なく、煙草を買うとは何事かと怒り般若面で総員集合を掛け、私とS君は三歩前に出て足を開き両手を上げ、身体を前に半ば曲げの号令が係り、私の左脇に立ち直径三糎位の細い樫の棒で、尻を二十五回撲られた。歯を食い縛り我慢をして班長を睨みつけた。S君は私より二十八回多く撲られ、気絶して前に倒れてしまった。助手のO主長とY主長が馬穴で、水を三回全身に浴びせかけ、気が付くと、0主長とY主長はこんな事で気を失うとはと、怒り、不動の姿勢を取らせ左右の拳を握り、往復びんた五回づつ煩を打った。顔は見る見る内に腫れ上り見る影もなかった。「総員分れ」の号令が掛かり細い棒で打たれたので尻は腫れ上り、しゃがんだり、立ち上がるのに一週間位痛かった。夕食後釣床が終ると甲板整列が掛る。日中酷くただれ歩くのに痛くて思う様に歩けない。整列に加わり反省と説教が始まる。N兵曹は肺結核で軍医に診察を受けると入院又は結核療養所送りとなる為に進級の道を断ち切られる事を恐れ診察を拒んでいた。たまたま喀血すると無茶苦茶に気が苛立ち、若手のI班長がけしかけられ野獣の如くほえ喚き、叩き蹴るの行為は人間業ではない。我々戦友を毒虫の如くに残虐窮(ざんぎゃくきわ)まり無き事を平気でやった顔面が憎い。最後にもう一度或る、雨が降る最中に伝令訓練の思い出を述べましょう。飯田より伝令が始まり、五番目のAになった時に伝令を間違え総員で、Aの顔を一人で、往復びんた五回打つ事になった。私は十番目ですので私の前に来た時は顔が腫れ上り可哀想に四十五回目と思ったのが悪かった。叩き方を加減したかも知れない。何しろ合羽の袖が長く思う様に叩けなかったのは事実かも知れないが、私の叩き方はお嬢さんの叩き方だと怒り、叩き方はこう言う風に叩くのだと私を一歩前に出し、其れにしても煙草事件で私が班長を睨みつけたのを遺恨に思い、飽きたらずか、一度大蛇に追れた蛙の如く、何の逃げ口上の術もなく、どうせ撲られるのは覚悟、気の済むまで撲れと腹を据えて歯を食い縛りし時、一発鉄拳ががんと頬を打つ。十回で終り物足りなげに突き倒し、脇腹を三度も蹴られ、息苦しくなった。我慢するより仕方なく、昔から軍隊は運隊と申し、運の良い庶務の戦友は何時も甲板整列の終った頃帰って来る。本当に運が良い、こんな教育で、戦争が勝てるかと疑問に思う。私の考えでは平和な時世の教育なら良いでしょうが煙草を譲り受けたり叩き方が悪い位で、怒り喚(わめ)き、撲り、蹴るなど、戦争酣(たけなわ)の時却って反逆感を育てる。こんな教育では戦争に勝てない。米兵は朝の敬礼一回だけ、ガムを口に頬ばりつつ作業している。この位余裕がなければ、戦争に勝てないのです。私はN兵曹が病死したと聞いた時、自暴自棄で軍医に診察して貰うことなく、血を吐き喚いて死んだと思う。教育された戦友達の霊魂の崇りと、我々戦友の憎しみです。私も生、有る限り、I班長を憎み続けます。住所が分れば、お礼参りに行きたいです。話は余談に入り誠に済みません。本文に戻ります。三ヶ月の教育も修了し、各隊配属となり、私は四回目千葉県香取航空隊に転勤命ぜられ、十五名入隊、班長に良く尽し気に入られ、何事もなく軍務に励んだ。主計一等兵の階級を頂き、お祝酒一合配給になり、三ヶ月以上飲まなかったので、酒に酔い体の調子が悪く、朝の点呼に出なかった。釣床置場にもぐり込む時、音がしたかも知れません。甲板士官が通って見つかり班長に引渡され、班長は叩かない替わりに一週間早起、烹炊作業する事になりました。戦友が二、三日は起してくれたが可哀想がり誰も起してくれません。精力を付ければ、四、五日は平気と思い、生卵を湯でて一日十個位、上官に見つからない様に要領良く食べ、精力を付けたら、眠いどころか目が覚め早起き一週間の作業も無事に終ることができた。教育上手と下手は、教養人と野蛮人の差が有ります。教育程度が違う今度の罰直は痛くはないが、身に応え、此の様な教育なら誠意を持って上官に尽したいと云う気持です。間も無くフィリッピン行きの部隊が編成され、主長二人、上主二人入れ替えする事になり、体の弱い兵は前に出ろの号令が掛る。私は最初申し出た通り堅パンは胃に応え、入れ替えに参加し横団に戻り一週間目厚木航空隊三〇二空に入隊しました。間も無く上等兵に進級し甲板下士官助手兼新兵教育助手を命ぜられ、甲板下士官兼教官の三枝兵曹、鈴木兵曹教官、小野兵曹教官と私と事務係伊藤上主五人で、一期生から五期生までの教育に専念しました。同じ大正三年生れ、三枝兵曹と気持が合い、階級の差は大分違いますが、優しく大胆な人柄で、酒好きな良い兵曹でした。N班長やI班長の様に、蚊に刺された位で、些細な事を天下の一大事の如く、掻乱し狂人に等しい有り様は、実に大日本帝国海軍軍人として、恥ずべき人間と思います。私の本文は戦友諸君には良く分ると思いますが、一般の読者の方々は分り兼ねると思います。特に私達戦友の新兵教育な残酷窮まり無き仕打ちを楽しみつつ平気で行なわれたのです。もう一度皆様に分り易く後世の為に伝える事に致しましょう。頬撲る時何故、歯を嚙み締めるかと申しますと、歯を嚙み締めないと、歯と歯の隙間に撲られる度、頬が歯に食い込み、亀裂し血が流れ出る。忽ち顔中が腫れ上り、口中痛く耐へ忍び撲り終るまで我慢するより仕方がないのです。食べ物、飲み物二日位は痛くて食べるのに苦しみます。お尻にしても其の通り撲られる度、内出血し、蚯蚓腫(みみずば)れに腫れ上り、厠(かわら)に行きしゃがむのに痛み、便するにも仲々出ない、泣きたい位、痛いです。一番先頭のI君は身長一米九〇糎位有り、体重九五瓩位ある。此の体で烹炊作業をする。本人は一生懸命作業しているが、班長の目には動作が鈍く、怠け者に見え一日何回か頬や尻を撲られる。一米六〇糎位の小柄な班長を両手で地上に叩き付けたい位だったでしょう。或る日何が原因かしらないが、朝から機嫌が悪く怒鳴り散らし、I君を三回も水槽に叩き込み、三回目に着替なく、寒中震えながら作業していた。水槽の深さは地上四十糎、地下四十糎位、水面に溢れる程に水が溜っている。水槽に後向きの姿勢に立たせ胸を強く押す。簡単に水槽の中に倒れ、水を飲みあっぷあっぷし、ずぶ濡れになる。立ち上り水槽から脱出する有様はどぶねずみに等しくなる。本人は嘸(さぞ)つらかったでしょう。私、始め戦友も軍規を守り無駄な抵抗はしなかった。此の様な残酷非道の仕打ちをされても戦争に勝利すれば何の遺恨も残らないでしょう。叩かれ撲られた悔しさと、戦争に負けた悲しさで昻奮し、腹立ち教官の残虐さを憎む次第です。
私は、新兵時代牛馬の如く、打ち叩かれ教育された。然し私は新兵に惨(むご)たらしく仕打する愚か者のする様な事はしなかった。殆ど大学出身で三十二才から四十才前後の応召兵です。新兵時代習得した烹炊作業を解り易く説明し、先頭に立ち指導に当り、新兵も精神棒の嵐も少ないので、狼狽する事も無く、毎日緊張感の中にも朗らかに作業が進みます。現役の主長が三人居るので、週に二、三度の甲板整列があります。精神棒のお見舞は一回位です。教育が終了する頃、遠足が有り、班長と助手二人で四十数人を引率し、鎌倉八幡神社に武運長久、祈願に出掛け、一日中楽しく、鳥居前で記念写真を撮り、新兵達は昼食休憩に各々の妻子の写真を見せ合って喜び語り合う様子は実に嬉しい事でした。明日の軍務に精出す励みとなりましょう。四時半隊に戻り一部が夕食の作業に係り、非番は身の廻り品洗濯整頓又は夢に見る故郷の父母や妻子に便りを書く、顔は綻び面会の便り等を書いた事でしょう。数日後、作業に失敗が有り、何の咎めもなく夕方薄暗くなる頃、主長の命令で整列が掛り、私は新兵総員集合を掛け、烹炊所前の広場に整列させました。反省と説教が有り、私も普段怒るのは好きではないので教育した兵に「失敗が有り残念です。色々と作業の段取りが悪く、動作が鈍い「休め、作業かかれ」の時の態度が軍人として恥ずべき行為である。毎日少しづつの油断が、大きな失敗となる」と懇々と諭した。説教が終り新兵一人づつ前に出し、足開き両手上に上げ身体半ば前に倒しの号令が掛る。精神棒でお尻を三回主長が殴り始めた。三人目の主長は私に棒を渡し、私の横を通り抜ける際に私の振り上げた精神棒が主長の眉毛の所に当った。痛いと叫び私を怒る事も出来ず我慢していた様です。私の気持は少しの失敗で、主長の官名を笠にして、権勢を振うから罰が当ったのだと思い、心中で喜び、教え子可愛さから、音を出しても痛くない打ち方をし、暗くなったのを幸いに適当に打ち解散の号令を掛けて兵舎に戻りました。たまに釣床降しの練習も教育の為に必要で二、三回練習を繰り返し、其の夜は甲板整列を止め、翌日の作業を頑張る様消燈後釣床に休ませた。十一時頃になると夢を見て寝言を云う者、歯を咬む者、又釣床から落ちる者有り、中々眠れません。私も三日に一回の割合で上陸する様になり、下宿は三枝兵曹と同じ、三枝兵曹は一日おきの上陸、三日に一度は下宿で兵曹と酒飲み交し、夜遅く迄楽しく賑やかに踊り騒ぎました。二カ月に一回位妻子を面会に呼び、羊かん、缶詰、厚い卵焼きなどを造りました。松根掘り作業が毎日有り、主計兵以外の上陸する兵は概ね食べ物に釣られて松根掘作業に参加したのです。隊内の食事は充分に食べられず、外出弁当より遙に大きな握り飯を二つ頂けます。ガソリン不足になり、飛行機が飛べないので、松根から油を絞りガソリンを造る様です。各隊で盛んに松根掘りを始めたのです。外出弁当を持出すトラックで、一緒に下宿まで班長に依頼された品物又私の配給羊かん、缶詰、卵焼などを持ち出し妻子に食べさせた事も有ります。三カ月間に二、三回位面会し、三枝兵曹いわく「蛭田、何回面会すれば良いのだ」と冗談に言われた。死ぬ時は親子一緒に死にたいと語り数日後面会、鎌倉八幡宮に参り、親子四人連れでお参りの帰り電車の中で空襲に合い、冗談から駒が出たとは此の事かと流石に驚いた。電車も止り稍(やや)暫く過ぎて空襲解除となった。電車が動き出し下宿へ戻り、三枝兵曹と倉庫係兼班長の小野兵曹、いわき市四ツ倉出身新妻上等兵、私達家族と下宿の家族で、夜の更けるのも忘れ舌鼓を打ちながら美味しいご馳走を食べ、妻子は特に喜びました。妻の話によれば銃後は食糧配給も減り、さつまいもやいもづる又黒ずんだうどん粉、五分搗き薄茶色の米が月に少量配給あるだけとの事、日立市近辺の農家は、日立市民を竹の子生活にしてやるといって、着物類と米、野菜、食べ物一切とを闇値(やみね)で取引し、お金の他に着物一枚、只で渡さないと食べ物を分けてくれないとの事でした。忽ち農民は豪華な生活が始まり、益々闇値は高く食糧危機と化し、軍隊も銃後も勝つまでと口に唱えながら、非国民が蔓延している様です。私達親子は下宿に泊り、朝早く私は隊に戻り、軍務に励む。ガソリンは日増しに不足する。本隊の命令で各隊の非番兵は夕食前に飛行機の格納作業に参加する事になり、私も非番兵を引率駆け足で飛行場に着き格納作業に加わりました。一機を滑走路から五十人位で押すのだが、滑走路と格納庫の間は芝地なので思う様にいきません。特に雨の降る時はタイヤが滅り込み動かないので一機で三十分位掛かる。二、三十機格納庫に納めるので、人員五、六百人位の兵が集ります。わっしょわっしょの掛声で賑やかに格納が終ります。終戦まで格納を続けました。伝統の大和魂、此処に有りと叫んで見ても物量と新兵器には勝てない。例えばガソリン何リッターで動くのに、四、五十人の力で動かすのでは、負けている証拠ではないでしょうか。銃後では竹槍訓練、子供の遊び如き振舞では勝ち目がないと思います。戦争も本土決戦となり、私の隊は東京方面防衛隊でした。横浜爆撃の時は主計大佐級が、鉄兜をかぶり食糧隠匿防空壕内の事務所に我先に駆込む有様です。上官は普段威張り散らしているがいざとなれば度胸がない。口先ばかりの弱い人間です。私達兵は何事も上官の命令に依って行動するのであるから空襲のサイレンが鳴っても防空壕待避が出ない。上官は防空壕の中に逃げ込んでいるので命令が出せないのです。本当に頼りない将校です。私達、兵は誰もが命が惜しいから防空壕に駆込むが、既に満員で入れないので兵舎の影に身を隠した。敵爆撃機は航空母艦から富士山目標に飛び立ち厚木上空を通り抜け、五機編隊が横浜上空に差し掛かるや爆弾投下、続いて五百機が次々と投下したので忽ち黒煙黙々と立ち昇り、上空は赤黒く染まり、地上は火の地獄と化して焼け野原となり、山下公園では遊んでいた母親が子供を抱きかかえ俯せになり、我が子を疵うようにして死んで子供だけがひとり泣き叫んでいたとの事です。本隊では自給自足で養豚百匹、養鶏千羽、乗馬二頭、荷馬一頭居りました。搭乗将校の栄養食品を、飛行場までの運搬に使用する為の馬がいった。飛行場が射撃された時、厩と豚舎の中間で、飼料をどの程度与えているか調べている最中、厩の裏山の松林の中程に電波探知器が分からない様に備え付け有りましたが、敵機は探知器と私を目標に機銃掃射をし始めた。私は死んでなるものかと心に誓い、溺れる者は藁をもつかむと言う諺がありますが、咄嗟の機転で素早く厩の藁束を冠り軒下に身を伏せました。機銃弾は厩の屋根を通り抜け、馬の前へ左足脇に直径四十糎位の穴を開けました。畜生とは言え流石に驚いた様子もなく、実に北海道の馬は、勇気あるのに驚きました。何事も運を天に任し、私も慌てなかったので藁束で命が助かりました。銃弾がばりばりひゅうと飛んで来たが、無我夢中で体をさすり、身の安全を知って洩らす溜息、本当に人事で有りません。或る日昼休みを利用して、新兵の体力造りに、海軍相撲が始まり、庶務人事部の更科兵曹と私が取組となった。私は割合に頭が堅いので兵曹の胸下、水落と言う急所に頭を強く当てた。兵曹は引っ繰り返り、数分間位真青になって死んでしまうのかと吃驚(びっくり)しました。私が上陸した際に、酒保で酒を飲み過ぎ、隊門を通る時三枝兵曹に肩掛けして頂き通り抜けた。直ぐ後から来た更科兵曹に見られたのです。苦笑いしながら私を睨み付けていた。其の後何事もなく軍務に励んでいる内に、人事部の主計中尉が転勤し入れ替りに大尉が来た。三枝兵曹の知らせで、五月の進級主長に私の名前が載っていると教えてくれました。私としては新兵教育助手にも拘わらず、横柄な態度に呆れ果てている始末で、本当に悪かったと後悔しましたが後の祭りです。三枝兵曹も私の態度が悪かったのと、主計中尉が変ったので進級は無理かと思うと話しながらも、何とか進級させてくれる様努力して見ると慰めてくれましたが、やはり駄目でした。更科兵曹を怨む訳ではないが、庶務の現役浅利上主が、上陸区域外の東京迄で外出した事がわかり、進級問題でもめていた矢先、私は三枝兵曹の最高のお気に入りなのです。前に述べた様に三枝兵曹は酒好きで、大胆なお人良しの方なので、人事部の兵曹達と余り気が合わず、特に更科兵曹とは気が合わなかった様です。其の上、私が横柄な態度だったのと相撲の遺恨も有ってか、人事部の面目に掛けてもと進級取り消し、浅利上主の方を進級させた。区域外で憲兵に見つかった場合は脱走兵となり、罪が重くなる様です。酒飲みの席で乱暴したでもないのに誠に残念の余り和歌を一句作り事務室の黒板に書き、五月の進級だったのでその月に因み私の一生の思い出に軍人たる精神に欠け、恥じを悟り我が身の不運を歌に詠じました。
五月晴れ 花一輪と 咲く人の
心も知らず 花は散りける
三枝軍曹が句を読み、何とか進級させてくれる様に努力したが、酒に酔い兵曹に肩掛して隊門を通りし故に、軍紀を乱し教育助手たる任務を忘れ、軍人に有るまじき行為は許し難く「進級を取り消す」と語り、慰めてくれました。
過ぎた事に気も止めず、軍務に精を出し張切って教育に専念したが、今迄と違い頑張りが無くなり、階級が物を云う軍隊ですが私は階級より命が欲しい。其れから戦争も負け戦さ、若手の少尉が毎日爆撃機に乗り出動しますが、何人か爆死、白木の箱に納って故郷に帰る。何百万の将兵が日本の礎の為に死んでいった。そうこうする内に忘れる事の出来ない八月十五日正午、天皇陛下の臨時放送があるから全員威儀を正して聞く様にと、拡声器で放送が有りました。降伏の放送だと声を潜めて話し合っている兵もいた。私はソ連が日本の弱目に付け込んで、千島列島、樺太まで兵を繰り出して来たので、宣戦布告の放送かも知れないと話している内に、正午の放送となり「汝等は朕と共に、堪え難きを堪え忍び、子孫繁栄の為に降伏する」との放送で居並ぶ将兵は皆咽び泣きました。三〇二空の隊長は、中将で戦地で負傷し名誉ある片足不自由な人です。若手の将校が、勝てば官軍、負ければ賊軍と唱い、北は北海道、南は九州まで「戦争を続行する」のびら紙を飛行機で撒いたのです。降伏と戦争続行の二派に分れ、隊長は気が狂い号令台の上で喚いて居り、私達主計兵は毎日トラックで神奈川県下の農業倉庫から米俵を隊に運び備えました。四、五日目に高松宮殿下だったか記憶がないが、宮殿下の命令に依り降伏したのです。隣部隊の自動車班に谷田部兵長と云う同年兵がいて、二ヶ月前に酒保で知り合い本隊に品物運搬の度毎に私の処に廻る様になって何かに付けて食べ物をくれた。烹炊員長萩野上等兵曹が、志願兵、現役兵の帰郷手続で多忙だ。君達応召兵は自由な行動をとって良いと申しますので、当日私は非番兵を使い各分隊の帰郷兵、数日分の米、缶詰類を烹炊所表通り脇の広場で、配給作業して居りましたが、丁度其の時返品の銃機を満載して自動車が来た。運搬作業が終り次第帰郷する、私に帰るなら乗せて行くと云ってくれた。原町田出身の栗原上主が一緒に作業していたので相談、早速話が纏り、東北方面出身兵数名帰郷に加わる事に決った。自動車が来る迄に、事務室から私の衣納袋を作業兵に運ばせ準備しました。配給の際、搭乗将校が飛行機内で使用する精密な時計、飛行服、長靴など持参し、米や缶詰と取り替えてほしいと頼まれました。私達階級では自由に出来ないと断ると何とか取り替て貰いたいとお世辞を使い、僕達は上官に死ぬ事ばかり指導され、君達兵に対しても残酷な行為をしてきて申し訳ないと後悔していた。そんな泣き落し文句では、私達兵の気持は治まらない。早く帰り妻子の顔が見たくなり、自動車の来るのが待ちどうしかった。間も無く自動車が来ました。各々衣納袋と配給を多少頂き、萩野兵曹と別れの挨拶して帰りたいと思い探して見たが見当らず、やむをえず十人位の兵を引率して帰郷の途につきました。原町田で栗原上主が降り、上野駅前で三人降り、、翌朝六時頃懐しの故郷に帰りました。朝食を炊く様に頼み、荷物をトラックから降し始めたら妻がお米がないと申しますのでお米なら持参したとばかり、各自の配給より出し合い、数人の兵と無事帰れた喜びと別れの宴を催し正午に各々家路に付いた。当時の上官否、昔も今も官庁監理職は、役得で物品賄賂何でも自由になる。最近のロッキード、コーチャン事件にも、児玉、小佐野、田中角栄如き官僚が役得で我が物顔に振舞うて居るでは有りませんか。私も実を云うと飛行服一着欲しかったが下級兵ではどうにもならない。早く妻子の所に帰りたく、まごまごして居ると男と云う男の子種を取り、沖縄防衛基地造りに奴隷の如く使うと云うデマが飛び、品物交換どころか、一時も早く帰りたい気持でした。あまり私の愚さも考へず軍隊生活の真実を思い出し、あまり長く上官の醜い行為を書き綴り幾重にもお詫び申し上げます。
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