「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録31

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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軍政要員として従軍の体験記   平野 正男(本郷町・73歳)

 私が南方占領地スマトラの軍政要員として昭和十七年十月三十一日付で陸軍属に転官して神戸港を出航したのは同年十二月十八日で二十五才の時でした。昭南島(現シンガポール)を経由して勤務地バンカビリトン州に着いたのは十二月二十八日です。航行は貨客船安藝(き)丸二万四千屯、経済速力十七ノットの早い船でした。出航には港も日時も何度か変更して敵に察知されないよう警戒したので出航して暫らくは平穏な航海でしたが出航数日後のある日、突然「敵潜水鑑の襲撃の危険あり」との警報で、船内は一時騒然となったが船の最高速力二十四ノットで避難したので無事航行を続けることが出来て、全員ホッとした状態もあった。
 スマトラ島の面積は、日本内地の六、五倍もあるが、人口は僅か五百万人の未開の地で経済の殆んどは中国人が支配していた。
 私の任務は軍政を担当することだから、先づ民状(現地人の気持ち)を知る事が大事だと思い現地人と良く話すことに心掛けた、そして知った事は彼等が一番望んでいる事はスマトラに学校を開設して貰うことであった。オランダ政府にも学校の開設を強く要望したが、やると云い乍ら遂に実現しなかった。日本も同じで口先だけではないのかと云っていた。
 オランダ政府は役人として使う者だけジャワの学校へ送って勉強をさせていたようで、大勢の現地人に知識を与えることは植民地統治の上から好ましくないと考えていたのだと思う。日本人の自動車が部落を通ると道端で遊んでいた女子、子供は急いで家の中へ逃げてしまう様を見て日本軍が進駐した時に婦女子に暴行を働いたので日本人を警戒しているのではないかと思い聊(いささ)か反省させられた。
 私の担当する業務は海運、軍納米の買付集荷物資の配給でした。
 バンカビリトン州はバンカ島とビリトン島の二つの島からなる錫(すず)の島と云われるように全島至るところに錫が産出されていた。現地人は海岸の砂の中から錫を取って製煉所へ持って来ていた。錫は軍の兵器に使われる貴重な資材として内地に送られていた。
 米の配給も月僅かな厳しい量で終戦後の日本と同じ闇買いが横行する状況であった。その他の物資も総て配給制度で統制した。
 スマトラは日本軍が無血占領の形であったのでオランダ軍は現地人に対しては今は一時退くが又必ず戻ってくる、と云っていたようだ。その為かパレンバンの原油輸送管の破壊状態は丁度百米毎に切断されていたので、修理には非常に楽であったと聞いた。
 昭和十九年早々の頃東条総理が軍艦でスマトラのメダンにある第二十五軍、軍政監部へ来てスマトラ各州の長官を集めて会議がもたれた。私も長官の随行として会議に出たがその時の東條総理の訓示は「戦争は来年八月に終るそれ迄の間諸君は軍司令として頑張って貰いたい」と言うことであった。メダン迄の自動車の旅では夜間は虎が出て危険だから明るい中だけ走るようにと注意されていた。軍のトラックが夜、車が故障して修理しているところを襲われたという事故が度々あったと聞いた。私達も一日だけ仲々部落に着かないので、遂に夜になった事があったが、ピストルで威嚇(いかく)射撃をしながら二千キロの道を無事往復することが出来た。
 その後私は、昭和十九年四月一日付でランポン州へ転勤になった。ランポン州はスマトラの一番南の州でジャワに一番近い所にある。
 州の軍備は一つの中隊程度の駐留軍と兵備は野砲一門だけで全く、戦闘能力はないに等しいものであった。或る時海岸に「敵潜水鑑現われる」の情報にその野砲一門を馬に引かせて行った時には既に、偵察を終えて帰った後であった等の事があった。
 その頃、私はラジオの短波でアメリカの放送を聞いていたので戦況は詳しく知る事が出来た。放送の初めには必ず日本の童謡を送ってくる。「カラス何故鳴くの」「スズメの学校の先生は」等、先づ日本人の郷愁を誘った後で「日本軍が天皇陛下の御聖旨(ごせいし)に背いて戦争を始めてから今日で二千何百何十何日目になります。」と云っていたから支那事変当時からの事を云っているのだと思った。その後で「アメリカ軍は何月何日何処を爆撃するから無辜(むこ)の住民(つみのない住民)は避難して下さい」とはっきりした日本語で話していた。
 その数日後の日本の放送ではアメリカ軍の予告通りの被害のあった事を伝えていた。
 二十年五月十八日、私は労務の用件でジャワヘ出張することになった。当時スンダ海峡には敵の潜水鑑が出没して危険だと言われていたが、無事に渡航することが出来たが、船の中で原因不明の高熱が出て、ジャカルタのホテルに着いて熱を計ってみると、四十二度もあったので陸軍病院へ連絡して入院することになった。検査の結果、擬似(ぎじ)腸チフスと診断され早速食事療法に入った。重湯(おもゆ)から粥になり普通食に戻る迄、一月半余の日数がかかった。
 或る日、突然大勢の兵隊が入院して来た、勿論病人らしくもないので何うした事かと聞いてみたところ、ジャワの南の島で飛行機の整備をしていたが、整備する飛行機が無くなったので、此処へ集結して来たのだとの事であった。
 私の病状も殆んど治癒(ちゆ)状態に快復し、体力もついてきたので主治医に退院の許しを求めたところ、最後の検査をしてその結果で決めようと言うことであった。それから二日程過ぎた日、主治医から呼出しがあったのでさては退院の許しが出たのかと勇んで行ってみると、予想もしていなかった臨時召集が私に来ていると言うことで驚いた。日本も現地召集までしなければならないように戦況が悪くなったのかと思った。病後の私には役所へ帰ってペンは持てても銃剣で戦闘するだけの体力はないので、主治医に診断書を書いて貰って軍政監部の人事班長に送ったところ、それから数日して即日召集解除の命令が来たので、八月十日退院してバンドン、スラバヤの政庁へ行ってジャカルタヘ戻って来たのは八月十四日でした。
 その夜、軍政監部から「明八月十五日、天皇陛下の重大放送があるから皆んな必ず聞くように」との伝達と共に「現在外出中の者は全員直ちに宿舎へ戻るように」との指令があった。
 翌十五日、放送を聞いたジャワの軍政監部では、最後まで戦うのだと意気込んでいたがその頃には兵機も殆んどなく、戦闘能力は全く無かった。しかし、私達スマトラからの出張者は船の航行が停止しているので、何時任地へ帰れるのか全く予想もつかない不安の日を送っていた。
 三日目になってスマトラからの出張者は任地へ帰すことになり、私も漸く三ヶ月振りの八月十八日にランポンヘ帰って来た。宿舎の前の広場では、政庁の職員が木剣で訓練を受けていた、私の帰って来たのを見ていた友人が訓練が終って尋ねて来たので聞いてみると、軍隊が最後の一兵まで戦うのだと云って訓練していたのだとのことであった。
 当時、私達は現地人に対して戦争はダメになった。即ち五分五分の状態で戦争は終ったと説明していたので大きな混乱も無かったが、英軍の飛行機がデンタン(チラシ)を撤いて日本軍は全面的に降伏したのだと宣伝したり、又現地人の青年義勇軍が戦地から帰って来て真相が分ってからは、世情も段々悪くなり危険な状態になってきた。警務部長が現地人の警察官に留置場に入れられたり、日本人宿舎で働いている使用人は、全員自分の家へ帰るようにとの厳しい達しが出て、指示に從がわない女性は断髪する等と云われてみんな帰って行ったが、私の宿舎の使用人も勿論帰って行ったが、食事だけは三食共暗い中に持って来て、又暗くなってから持ち帰る等の苦労をし乍ら最後まで面倒を見てくれた。
 二十年十月頃になって世情も愈々悪くなるとともに、インドネシアの独立思想が高まってきた、電話の応答にもハローの更りにムルデカ(独立)と叫び終りには又、ムルデカーと気勢を挙げていた。そして遂に長官に対し、吾々は独立するのだから政庁をそのまま渡せと強い要求になってきた。しかし、一方シンガポールの英軍司令官マウットバッテンからは「スマトラの治安、権域財産等は総て日本軍の責任で管理せよ」との指令ができているので政庁をインドネシアに渡すことは出来ないので二重政府のような形で管理することにした。
 一方、中国人は日本は戦争に敗けたのだから吾々から強制買上げした衣類は全部返せ、と集団で押しかけて来る。又、夜になると宿舎の方へ単独で私の分だけでも返してくれと、次から次へと迫って来られて不気味な状態になってきたので、その処分について総務部長と長官に相談したが、返すことは出来ないと断わられた。私の直接上司の二人は、マラリヤで入院中なので私も当時二十八才の若さであったので、独断で判断することを決意して中国人の代表を呼んで「半分は無料で返すが、残りの半分は日本人もこれから生きていかなければならないのだから、私の自由な処分を認めてくれ」と云う条件で交渉の結果合意した。
 その頃には既に軍票は通用しなくなり、総ての物資は物々交換でなければ入手できないような状態になっていたので、半分の衣類は米、その他の調味料と共に日本人に物資交換用として分配した。勿論政庁の現地人職員に対しても無料で相当量支給してやった。
 二十年も暮の頃になると世情は更に悪くなる一方で、日本人の政庁への出勤も危険な状態になり、夜の外出は勿論、日中でも危険が伴うような状態になってきたので、日本人全部を部落に集結して軍隊をつけて安全を守った。しかし、長官初め幹部はマウットバッテンからの指令もあるので政庁所在地を離れる事が出来ないので、長官々邸に部長三人と夫々の部長付の八人が同居して兵隊の配備の下で安全を保ち乍ら生活した。私も産業部長付として残った。
 そうした状態が続いていた二十一年一月下旬の頃、突然。ハレンバンの港に二月一日、日本人全員集合せよとの命令がきた。日本へ帰れるのか又、何処か他の島へ送られるのか全く不安な気持で集合して英兵の検門を受けた。
 検門では出生地、出身学校、軍政要員になったのは軍の命令か自分の意思か等で、持物の検査では南方で求められたと思われるライター、時計、万年筆等が没収された。その他の持物も総て制限された。集結はガラン島(シンガポールの南の無人島)と決り、二月三日島に到着した。この島は端から端まで十二キロと云う小さな土地のやせた島であった。最初は持参した米で腹を満していたがそれも食べ尽してしまい水団(すいとん)で腹を満すことになったが、こうした生活が何時迄続くのか分らないので、水団も食べ延ばさなければならないのでその量も一人三切に節約した。その水団にも若干の大小があるのを不公平だと苦情を云う者が出る程、食糧は乏しくなって来た。次の部隊が入って来る為に港から中央までの道路を造る作業に出ると小さなパンが特配される。量は少ないがその特配を貰う為に仕役を希望するのだが、その割当が不公平だと言って喧嘩になる事もあった。食糧も水団ばかりでは充分な栄養も取れないので栄養失調になる者が出て来たので、栄養補給を英軍に頼んで配給して貰うことになったが、量的には英軍の一食分を三食に分けて食べなければならないので、満腹感を味うことは出来なかったが、栄養失調になる者は無くなった。英軍の補給食糧の主食は大型のビスケットが十枚、小さな缶に入った紅茶、チーズ、コンビーフ、塩等で空腹を満されるものではなかった。夜中に幕舎の中で誰かがビスケットを食べる音がすると、腹の虫が刺激(しげき)されてがまんができなくて明日の分一枚だけ食べようとする者が毎夜のように居た。
衣類は普段は猿又一枚で、あとは日本上陸用が一揃いリュックに入っている。雨が降るとそれを濡すまいとリュックを抱えて座り寝することも度々であった。
 既にこうした生活を二カ月余過した四月半ば頃、何処からの情報ともなく帰還船は米国からのチヤター船で、リバティー型だ等と具体的な話しが伝わってきた。何れにしても日本へ帰れる望みが出た事でお互いの顔色は明るくなって来た。遂にその日が四月二十五日と決り、八十余日の無人島での望みのない生活に終りを告げ、過去の苦労も忘れ、只日本への帰還の喜びだけが先走って故郷の話に花が咲いた。
 平穏な航海のうちに五月八日無事名古屋港に着き、検門と消毒を受け煙草一箱と僅かな帰還手当を貰って、夫々の故郷へ帰って行った。
 私は外務省へ復員報告の用務があるので東京へ帰り、二十一年五月十日、従軍の任務を終了した。


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