「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録30

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

ページID:P150289

沃丁(ヨ―チン) 原田 邦三郎(田喜野井・66歳)

 旧軍隊隠語で衛生兵のことを「ヨーチン」と云う。兵隊のあいだでは、一にヨーチン、二にラッパと云って、衛生兵は楽な勤務の代表みたいに云われた。だからなった訳ではないが、昭和二十年六月、満洲はハイラル陸軍病院に衛生兵教育のため派遣された。
 教育半ばにソ聯が参戦、空襲で燃えるハイラル市内の原隊に復帰、即日、部隊と共にハイラルの陣地に入り、侵攻して来るソ聯軍に抵抗、日本の降伏を知らされずに戦った十五日以降には特に死傷者が続出し、新米の衛生兵も目のまわる忙しさに追い回された。
 八月十八日、陣地の上でソ聯兵のバラライカ(短機関銃の愛称)の列に睨まれながら武装解除を受け、将校、下士官、兵にわけて並ばされたときは、いよいよ今生とのお別れかとひそかに覚悟した。時に満二十一才。
 殺されもせずに元の部隊兵舎に収容されたときは、九死に一生を得た思いであったが、私達衛生兵はこれからが大変であった。収容所内に包帯所を開設、陣地から患者を収容、軍医が行なう治療の介助、ガーゼや包帯の洗濯(補充がないので使い捨てどころではない)、患者の看護、その上、毎晩の不寝番で、全く眠る暇もなかった。特に初年兵とて何でも押付けられたからたまらない。
 特に忘れられない出来事は、負傷者が壊疽を起し、緊急に腕を一本切断する破目になったが、満足な外科道具が皆無の上、麻酔もなく、やむを得ずベッドに縛りつけて、軍医がジャックナイフ一丁で手術を行ったことである。患者は勿論、途中で気絶してしまったが、手術は成功し、その年十一月、私達の部隊がソ聯に移送される前に、患者は全員私達の手を離れてハイラルから送り返された。
 話は戻るが、終戦は夏の真盛り。陣地から収容した患者の手当てをしたときは、傷は化膿し、その上、蛆が湧いている有様で、介助した私達衛生兵は、二、三日体に腐臭が泌み付いて抜けなかったものである。
 ところが、一部の患者だけは不思議にも傷が化膿せず、蛆も湧いていない。軍医が首を捻って「お前は誰の治療を受けたか?」と、尋ねると皆「原田衛生兵であります」と異口同音に私の名前を挙げたものである。軍医は私に尋ねた。「どんな治療をしたのか?」「患部にヨーチンを塗布包帯しただけであります」「それでは他の衛生兵と同じではないか。お前が使ったヨーチンを見せなさい。」
 軍医は、私が取出したヨーチンを見た途端、腕を組んで唸り声をあげた。「このヨーチンをどこから貰ったか?」「はい、獣医室であります」
 そうだったのである。ソ聯参戦の日、原隊に戻った私は、早速、医務室で包帯嚢(衛生兵の七つ道具入れ)を受領したが、肝腎のヨーチンは古年兵達が持って行ってしまったので、全くない。ヨーチンを持っていない衛生兵では、実戦で役に立たない。困り果てた私は、獣医室ならヨーチンがあるかも知れないと見当をつけて行ってみた。そもそも私が原隊に戻ったとき、部隊は陣地に上るため、殆ど準備を済ませて営庭に集まり始めていた頃で、獣医室には既に誰もいない。止むを得ず、薬品戸棚から「ヨードチンキ」とラベルのある葛色の瓶を一本失敬してきたのである。
 一般に、人間様に使うのは、希ヨードチンキで、ヨード分が五%位だったと記憶しているが、馬のは十%のヨードチンキであった。
 落語になりそうな、文字どおりの「怪我の功名」だったのである。


<「従軍の記録3」へ戻る>

<「船橋市 平和デジタルアーカイブ」トップへ戻る>

このページについてのご意見・お問い合わせ

総務法制課

〒273-8501千葉県船橋市湊町2-10-25

受付時間:午前9時から午後5時まで 休業日:土曜日・日曜日・祝休日・12月29日から1月3日