「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録29
私の青春と大陸戦争体験 野田 留吉(三山・61歳)
昭和のひとけた生まれは幼年時代から軍国主義教育であった。満州事変から二・二六事件支那事変と次第に戦争はエスカレートして行った。
遂に十六年十二月八日、五国を相手に第二次世界大戦。六年生の冬の朝であった。部落の青年は今日も明日もと、一日に二、三名位出征して行く元気な勇姿を見送った日々が続く。私も時が呉れば軍隊にと心に燃いた時代でもある。それから二年後の春、満蒙開拓青少年義勇軍の募集に志願して、満州は日本の第二の祖国と、鳥のさえずりの様に国中が満州い満州いと燃いた時代でもあった。満州は又話題の世界でもある。募集者は満州経験も知らぬ者が口先で進める者が多かった様に思う。現実に内地での話とは別世界の広野であったが、冬は酷冬零下四、五十度になる。設備は当時の生家よりも悪かった。十四、五才の私はそれでも歩哨勤務は二十四時間寒気を身に受け任務は怠りはしなかった。私の体験記として一部を書いて見ました。
満蒙開拓青少年義勇軍へ、時の流れと国策とも知らず満州移民の一員として真剣に考えて担任先生は、広野は燃える若者を待って居ると題した説明を、身をかたむけて将来の生活独立への第一歩は自分で拓かなければと、十五才の春決意した。父は私の一年生の時死去で、母兄共相談せず、仏壇の引出しより印鑑を取り出して願書に捺印して担任先生に提出した。後で先生が自宅訪問されて始めて知った母と兄は声をつまらせ、何か先生と話合って居りました。説得の様でした。私の決意には変りがなかった。当校より三名募集に応募したが、いざとなったら私一人となり、郡部全体の身体検査に先生と行った時はやはり心細かった。でも決意を新たに心に決め出発日を心待つ。同級生は送別会を、母は日の丸を買い求めて村の神社に行き祈願印をして来た。十八年三月十八日駅ホームで歓呼の声と旗の波に送られて青森県庁前に青森中隊として二七五名集合。十九日午前、青森駅より待望の内原訓練所を目指して出発したのです。
入所翌日より朝夕の行事に礼拝があり、天晴(あつぱ)れあな面白、あな手伸(たの)し、あな明(さや)けおけを腹の底から力一杯叫んだ。そして日本体操(やまとばたらき)は一(ひ)、二(ふ)、三(み)、四(よ)、五(い)、六(む)、七(な)、八(や)、九(こ)、十(こ)、一〇〇(もも)、一〇〇〇(ち)、一〇〇〇〇(よろじ)、一語ずつ区切った古神道理論体操である。次に綱領(一)我等義勇軍ハ天祖ノ宏謨ヲ奉ジ心ヲ一ニシテ追進シ身ヲ満州建国ノ聖業ニ捧ゲ神明ニ誓ツテ天皇陛下ノ大御心ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス(一)我等義勇軍ハ身ヲ以テ一徳一心民族協和ノ理想ヲ実践シ道義世界建設ノ礎石タランコトヲ期ス是れが開拓精神に燃いた私達隊員一心の叫びでもあった。作業は松の抜根軍事教練歩哨不寝番と片手に鍬を片手に銃を取って練磨厳しい日課と規律を身に付ける二カ月の訓練であった。日輪兵舎と別れる渡満日も決った。現中国東北地方黒龍江省北安(ぺあん)県尾山(びざん)訓練所に向け五月下旬日輪兵舎を後に各地を見物出港の新潟開拓会館で長旅の疲れを取り新潟港から婦人会や女学生の見送りを受け、日本海を一路白山丸で現北朝鮮羅津港を目指して航海待望の大陸に第一歩を踏んだ。
満蒙開拓青少年義勇軍手牒の心得には
一、古ノ武士二負ルナ
一、生命ヲ尊ビ死ヲ怖ルナ
一、仲良クセヨ
一、常ニ工夫セヨ
一、他民族ヲ敬セヨ
一、家ヘノ便リヲ缺かすな
一、他人ニ親切ニセヨ
一、楽ハ人ニ譲り苦ハ己ニ引受ケヨ
一、規律ヲ重ンジ命令二服セ
一、歩哨ハ任務ヲ厳重ニ守レ
一、武器ハ大切ニシ手入レヲ怠ルナ
一、農具モ武器ト心得ヨ
一、部屋ハヨク整理セヨ
一、燈火ハ外二洩ラスナ
一、火ノ用心ヲセヨ
一、水ヲ粗末ニスルナ
一、獨リ外出スルナ
一、口ヲ堅ク結べ
一、雑談ヲ止メヨ
一、愚痴ヲ言フナ
一、元気一杯デ働ケ
一、丈夫ノ時ハ身体ヲ鍛練セヨ
一、病気ノ時ハ医者ノ言フコトヲ守レ
一、生水ヲ飲ムナ
一、毎週夜具類ヲ干セ
以上の心得は満州生活と団体生活の私達に良い教訓でありました。初年の大陸は真夏の太陽の下で水筒だけでは物足りず遂に生水を呑む。翌日より強烈な下痢「アミバ赤痢」となった。又冬には発診チフスと病とのたたかいでもあった。それが二年三年と暮して居ると生水もなんら平気で呑む。苦楽の平和な訓練生活が続いた。処が隊員から現地出征が十数名と多く成り、又挺身隊として、奉天に一〇〇名が行き外に特技見習として数十名が各地に派遣されており、訓練所内残留者は一〇〇名にもみたなかった。それでも一二〇町歩の畑に軍事教練に頑張り続けました。
八月九日午后、三機の戦闘機が飛来北安方面に姿が消えた。私達六名は煉瓦班として作業場で頑張って居りましたら、訓練所より騎馬伝令が来て、九日午前三時ソ連と戦争になった。黒河方面は侵入交戦中ただちに所に引揚げる様に、と話してすぐ小興安嶺で炭焼をして居る隊員の方に、真赤な夕ぐれの広野を走り去った。早速道具の整理整頓をして寝具を背に所内に戻った処、皆な騒然として各自の荷物の整理に取組んで居り、おい十一日に出動する様だ。独立守備隊より命令があったらしいとの事、私達も急いで整理に取組んだ。十一日午前八時全員武装も終り訓練所を跡に、三十年式兵銃を肩に約二十キロの武装で目的地龍鎖独立守備隊に五時間の強行軍で到着した。炊事班は食事の準備に、警備班は早速警備に付いた。夕方までに三回ソ連機の来襲と共に機銃弾があった。全員無事である。夕方から風雨が強くなって来た。突然班長に集合が掛かり満十八才の者は是れから龍鎖着の貨物列車で孫呉の第一戦に出発する、残った者で警備に付くとの事、風雨の夜三十数名を第一戦に送った。残った者は若年の十七才未満、淋しさも無く警備には萬全を期す、連日ソ連軍の機銃弾を浴びながら………。
八月十五日全員広場に集合の命令と共に皆、ラジオ放送に耳をかたむけた。さっぱり聞き取れぬ。後で中隊長より敗戦となった事を耳にした。ソ連軍の内陸進行と共に私達は一応小興安嶺に移動が決り、龍鎖を出発。飛行場内を行軍中にソ連軍機の銃弾を浴びせられたけど、馬一頭以外は皆無事であった。再度行軍に移った。出発して三時間風雨と戦い目的地へと進んだ。処が川の氾らんで行く手をさえぎられ、満人部落で休憩すること約一時間。伝令が入り今夜〇時龍鎖出発列車が北安行最后になるから退後せよとの事。又降り止まぬ風雨との戦い、三時間の強行軍が続く。誰もが頭から足まで濡れねずみ同様、定刻までに十分位あった。点呼后列車に乗車列車は速く発車早朝の北安に到着した。北安街は黒河孫呉方面からの避難民で一杯である。私達に警備と派廻の命令が出た。数日してソ連軍の北安街侵入前夜武装解除が深夜執行された。もう丸裸である。昼過ぎた頃より中国人に依る暴動の火柱が上がった。次から次へと日本人が掠奪されて行く。阿修羅となって終った。夕方私達の附近まで来た。皆で数少ない棒刀に銀紙を巻き刀に見せかけ、二、三回追い返した後でソ連軍が自動小銃を持って、数百名の襲撃を受けるはめになった。戦争の終末は生地獄であった。逃げるのがやっとである。暴動の去った後は何もなかった様な静けさ、着の身着たままになって終った。翌朝ソ連軍の捕虜と成った。一列に道路に並んで萬才だ。服装検査が始った。自殺用として各自五発の銃弾を持っており、次から次と出て来る。中国人は手をたたいて喜んでおった姿は今尚浮んで来る。検査が終ったら萬才姿で連行だ。前後左右のソ連兵は自動小銃引金に指を差したままだ。点在するソ連軍部隊を通り抜ける前は、必らず揮一本裸にされ検査だ。三度四度と続く。手を下げると拳銃がところかまわずぼかんと来る。一日中振り廻されて、夕方北安飛行場格納庫に収容され、捕虜生活に入った。コンクリートにごろ寝する事数週間、食糧はカンパン二、三十個で毎日が空腹であった。ソ国ブラゴウェシチュンスク収容所に移動された時は、寒気も一段と身に狭って来た。十七才の私達は十日餘りで釈放され、再度黒河街に戻り、一喜一憂不安ながらハルビンを経由一気に新京迄で南下出来た。新京駅ホームは掠奪が多く、一般開拓団婦女子の列車が到着すると、猫が小鳥をねらふ様にも見えた。南京袋に身を包んだ避難民を、此れでもかと言わんばかりに、私達は数週間新京で生活後、ソ連軍の好意に依り更に南下して西安炭砿に移った。食糧事情が良いからと進められ、義勇隊員と一般民と数百名であった。南満州も日毎に季節風が身にしみる。群馬埼玉混成中隊と生活を共にする。坑内作業員と坑外員と別れ、私は安全灯掛かりとして引揚げまで勤務して来た。職場に行く途中で毎日投石や泥を投げ付けられ、日本に早く帰れと叫ばれ、身を守るのが必死であった。職場に於いて退抗して来る坑員は、窓口でバンドからケースを外して私達に投げ付けて行くのが毎日であった。主任の季さんには本当に世話になって来ました。或日職場から帰ったら、此れから西安街駅にソ連軍の使役にと言われ、各砿から数百名動員され、徹夜でアンペラの山から大豆の袋詰貨車積休憩も交替も無く夜明けまでソ連軍の自動小銃の前で働いた。それから数日でソ連軍の姿は消え、八路軍が現われた。中国人は最高の喜びであった。一カ月餘りで八路軍と中央軍が交戦、私達は腕組をして観戦した。八路軍は深夜撤退行動したのか翌日から中央軍の姿が見られた。今度は中央軍の使役が始まった。列車の武装鉄板張り、トーチカ造りと毎日が重労働であった。けれど食糧は十分腹杯食べる事が多かった。誰も愚痴も言わずに働いた。西安でも数多く婦女子と隊員に死亡者が出始めて来た。時には二人一組にしてムシロに巻込んで埋葬する事も多かった。或日早朝大変な事に成った。埋葬の死体が十四体掘り出され、衣類を全部取られ丸裸で投げ出されて居るではないか。暴動掠奪襲撃そして又、死後に此の悲劇同胞の姿を見て、本当に敗戦国民の悲惨をなおさら痛感した。孫呉で國道を走って来るソ連戦車軍に深夜戦車肉迫攻撃で戦死をした同志は今も広野で草花を見、あの地で望郷を叫んでおる事でしょう。引揚げ途中、独身の私達に胡盧島に於いて一カ月餘りの使役が与えられ、引揚船から弾薬降ろしと日本えの食糧高梁積であった。引揚船の来る間に野積の弾薬を貨車積をして、錦西に行って旧陸軍建屋に運搬備尽する作業。この時程身に体験した苦しさが今も忘れる事が出来ない。弾薬一箱の重量こそ知らぬけれど、細身の体にのしかかる肩の皮がちぎれ、血は流れそれでも繰返しの毎日である。若さと精神力でやりとげたと思ふ、中央軍の監視は厳しかったね。此の体験が今日まで身を守って来た様である。
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