「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録28
「泛水作業隊」(船舶工兵58連隊)の思い出 西広 寛次郎(夏見台・68歳)
私は、兵役を約一年延期して昭和十八年十二月一日、宮城県石巻の船舶工兵連隊に入隊して、その後、兵科幹部候補生を命ぜられ、翌十九年五月十日香川県豊浜の陸軍船舶幹部候補生隊に入隊した。
それから昭和十九年十二月十五日、幹部候補生隊を卒業と同時に同期(十一期)の見習士官九名と共に泛水(へんすい)作業隊に配属になったが、当時泛水作業隊は台湾の高雄に在り、我々は江田島の幸之浦に集結していた同隊の留守部隊に着任した。
幸之浦に集結していた留守部隊は召集兵が主で(約二〇〇名)部隊主力が駐留している高雄に向って出発準備中のところに、我々見習士官十名が配属になったわけである。
幸之浦に約二週間滞在して、それから高雄に駐留している部隊主力に合流するため門司に行き、昭和二十年一月一日出航の比島急派高速船団の輸送船九隻の内の一隻に乗船した。
乗船した船名は思い出せないが、船団の中で一番小さな船であったように記憶している。
この船団は台湾海峡に於て敵の魚雷攻撃を受けたが、私の記憶の中から思い出すままに当時の情況をここに再現してみたい。
我々の乗船した輸送船は我々の部隊のみが乗船し、私が輸送副官を命ぜられた。
輸送指揮官は留守部隊長の橋本大尉であり、外に将校は乗船していなかった。
昭和二十年一月一日門司を出航した船団は朝鮮海峡及び黄海を無事乗り切り、明朝高雄に着くべく台湾海峡を台湾西海岸に沿って南下していた時、丁度一月八日の夕刻頃から敵潜水艦の魚雷攻撃を受けた。
先ず輸送船団の中央部に位置していた「一〇、〇〇〇トンクラス」の船から火柱が上がり続いて他の船からも火柱の上がるのが見えた。
我々の乗船していた船は「三、〇〇〇トン」位の小さな船であったように記憶しており、我々の部隊を高雄で下ろしたあとは比島へ向かうため、船内には弾薬等を積載しておったように思う。従って魚雷が一発でも命中したらそれこそ轟沈(ごうちん)間違い無しの情況であった。又、魚雷攻撃を受けた当時は台湾海峡は波浪が高く海は荒れており、次第に日は暮れて暗夜となり魚雷が命中した場合、仮に無傷で海中に投出(なげだ)されたとしても、とても助かるような情況ではなかった。
我々の乗船した船は船団の中で最も小さな船であったためか、魚雷攻撃も受けず暫くは台湾に沿って南下を続けていたが、然しこのまま航行を続けていれば、やがては魚雷攻撃を受けることは確実であるので敵の魚雷攻撃から逃(のが)れるため、航行目標を台湾の西海岸に方向転換して陸地に向かって直進した。
そして砂浜海岸に本船のまま乗り上げてしまい、これで魚雷攻撃からは逃れられたわけであるが本船は海岸に擱座(かくざ)してしまった。
場所は台湾の西海岸であることは間違いないが台湾のどの辺かは不明であった。
一応夜明けまでそのまま過し夜が明けて見ると本船の擱座しているところは近くに砂浜が見え、本船から海中に下りても人間の腿(もも)ぐらいの水深であった。
あとで分ったことであるが台湾の西海岸は潮の干満の差が大きく、約三メートルもあり結局前夜満潮の時に擱座した事が判明した。
海岸の場所は台南(たいなん)の近辺であったように記憶している。
従って我々の部隊は人員の損害はなく夜が明けてから全員上陸し、陸路列車で高雄に無事到着し、無傷で部隊主力に合流する事が出来た次第である。
そのあと高雄に約十日間位滞在し、それから部隊全員列車で台湾を縦断北上して基隆(きいるん)に移動した。
我々十一期の見習士官十名は私が本部に、第一~第三中隊には各々三名宛配属になった。
基隆に着いてからは部隊全員基隆の小学校に駐留した。
何日か経ってから部隊本部のみ淡水(たんすい)線(基隆~淡水間の鉄道)の関渡(かんとう)(北投(ほくとう)温泉駅より一つ淡水寄りの駅)に移動することになり、部隊本部と共に私も関渡小学校に駐留した。
泛水作業隊とはどのような任務をもった部隊であるのか、配属の前に聞いたところでは「上陸用舟艇を発進させる作業をする部隊である」との記憶があるが、我々が配属になった時には母船は既に無く、普通の船舶工兵の部隊になっていたようである。
昭和二十年三月頃になって、我々の部隊に内地へ帰還する命令が出て結局我々見習士官十名は部隊と共に、昭和二十年一月中旬から三月末まで台湾の基隆及び関渡に駐留していたが、再び日本内地へ帰ることになった。
部隊長以下部隊本部全員と第三中隊の一部合計二五三名は、昭和二十年四月一日に又残り全員は一日前の三月三十一日にそれぞれ門司に向け基隆港を出航することになった。
当時は米軍の沖縄上陸作戦(四月一日)の直前であり無事に内地へ到着することは極めて困難な情況下であった。
部隊主力の乗船した輸送船(船名不明)は昭和二十年三月三十一日基隆港を出航し無事門司へ到着したが、小池部隊長以下部隊本部と第三中隊の一部合計二五三名が乗船した輸送船日光丸は一日あとの四月一日基隆港を出航し四月九日黄海に於て米国の潜水艦の雷撃を受けて撃沈された。
この日光丸の撃沈について当時を思い出すままにここに申し述べてみたい。
乗船者名簿その他については厚生省援護局に行き調査した。
(1)日光丸(五〇五七トン)東亜海運[株]所属
(2)乗船者数
・泛水作業隊(我々の部隊) 二五三名
・船舶教育兵団所属第十一期見習士官 三十名
・その他陸軍関係便乗者 十六名
以上陸軍関係者合計二九九名
・海軍関係者(防空隊員外) 四十七名
・一般船客 四七七名
・本船船客 一二四名
総計九四七名
(3)行方不明者
・泛水作業隊を含めた陸軍関係者 一三三名
・海軍関係者 三二名
・一般船客 四三〇名
・本船船員 七二名
合計六六七名
陸軍関係者二九九名及び内地引揚者四七七名を含め総員九四七名を乗せた日光丸は僚船聖川丸(海軍仮装巡洋艦)と共に四隻の護衛艦の護衛を受けて昭和二十年四月一日門司に向けて基隆港を出航した。船団の航路は先ず台湾海峡を横断した後は支那大陸に沿って北上し、それから黄海、朝鮮海峡を直進する航路であった。
又敵潜の攻撃を避けるため夜間の航行は取止めていた。上海(しゃんはい)沖を航行中、何回か敵機の哨戒に出会ったが敵機による攻撃は受けなかった。然し敵潜の追尾は当然予想されていたので、黄海を横断する時が魚雷攻撃を受ける最大の危険区域となっていた。四月一日出航以来四月八日までは無事に経過し、四月八日夜は青島(ちんとう)近辺の海上に仮泊した。愈々翌日は黄海を横断して仁川方面に向かうことになり、四月九日午前四時三十分仮泊地を出航した。当日は晴天、波は静であった。船団の航路は黄海の北部海域であり、四月九日と言っても水温は低く、もし魚雷の攻撃を受けて本船が沈没した場合の事を考慮して、私は上衣を「ズボン」の中に入れ、その上から「ベルト」で締め、その上に救命胴衣を着けていた。午前十時二十分頃私は非番であったので、幹候隊同期の第三中隊所属の原(幸夫)見習士官が警戒配備についていた機関銃座の所(船の機関部の真上の上部甲板)で約十分位、原見習士官と雑談をして、それから十時三十分頃「ブリッジ」に上がって行った。当時上空には友軍機が警戒しており、又潜水艦警報も発令されていなかった。突然右舷警戒員が「雷跡」と叫ぶ声を聞き、右舷前方を見ると雷跡の水泡が目に入った。私は直ちにその場に伏せると同時に両耳を手で押えた。私の居た「ブリッジ」は船の中央よりやや前方に位置しており、機関部は船のほぼ中央であったように思う。船も走っており魚雷も走ってくるわけで、船のどこに命中するのか分らない。もし自分の伏せている場所に魚雷が命中すればそれで万事窮(ばんじきゆう)すである。敵の魚雷は続けて数発発射してくると当時いわれており、暫く私は伏せたままでいた。
三回目の魚雷命中の衝撃音を聞いてから私は立上がった。幸い私の伏せていた近辺は無事であった。日光丸遭難報告書(厚生省援護局保管)によれば「第一発目は避けたが第二発目は後部に、第三発目及び第四発目は機関部に命中、急速に左舷に大傾斜し船尾より沈没せり。第二発目命中より約一分三十秒を経て全没(ぜんぼつ)せり」と記載されている。私が立上がると船は既に左舷へ傾斜を始めており、又「ブリッジ」から甲板におりるには三~四箇所の階段があり、私は無我夢中で傾斜した階段を伝わって甲板に下り立った。船は急速に傾いてきており、傾いた階段を良く無事で甲板におりられたと後(あと)で思う。
船は既に左に大傾斜しており右舷船腹を滑り台のようにして海面に滑り降りた。船から飛込む場合、出来るだけ傾いた側の反対側から飛込むように幹候隊で教育されたが、これは傾いた側からとびこむと船上に置かれてあった物が上からおちてきて怪我をする危険があるし、又船が沈没する時に巻き込まれたり或いは救命胴衣の紐が船のどこかに引掛かって船と共に海底まで沈んでしまうことがあり、これ等を避けるためである。右舷の船腹を滑り台のように滑り下り、船よりできるだけ遠くへ離れようと一生懸命泳いでから船の方を振返って見るとまだ近くに船があり、又懸命に泳いで暫くしてから再び振返って見ると既に船の姿は沈んで見えなくなっていた。結局魚雷が命中してから約一分三十秒の間の出来事であった。私は救命胴衣は始めから着けており又冬の下着を着用して上衣を「ズボン」の中に入れてその上から「ベルト」を締めていたので海水の温度は低かったが準備は充分であった。時間的にも昼間であり且天気も晴天で波も静かであり、又護衛艦も四隻いたので敵潜を追払ってから救助にきてくれるであろうと次第に落着きを取戻してきた。又帽子はあご紐を掛けていたので無事であったが、軍刀は船室に置いたままであった。数十箇の救命筏(いかだ)が本船沈没の場合を考慮して、甲板の上にそのまま置いてあり船が沈めば筏が浮くようになっていた。然し私の周辺には筏は―つも見当らず、偶々(たまたま)近くに本船備え付けの「カッター」が一隻転覆したまま浮いているのが目に入った。
筏は多分海流の関係で本船の左舷方面へ流れたものと思われる。私は転覆したままの「カッター」を目差して泳いで行き、そこに集ってきた人達と共に「カッター」内の水をかき出した。「カッター」は次第に浮いてきて私及び近辺にいた人達はその浮上した「カッター」に乗船した。天気は良く波も静であったので、私はやがて護衛艦が救助にきてくれることを確信して「やれやれ」これで助かったかと一息ついた。然し近辺にはその「カッター」以外は人が乗れる浮遊物は何も見当らず、従って本船の右舷側から飛込んだ人達が殆ど全部その「カッター」を目指して集ってきた。そして「カッター」は超満員となり、さらに乗りきれない人達が「カッター」の舷側についている綱に摑(つか)まったため「カッター」は人の重みでそのまま海中に没し転覆してしまった。又転覆した「カッター」を起こし水をかき出して乗る、人の重みで又転覆する。このような事を数回繰返していたが私はこれでは体力を消耗してしまうと思い、この「カッター」を諦めて他の浮遊物を探すため近辺を泳いで回った。戸板のような物に兵隊が一人乗っているのに出会ったが二人乗ると沈んでしまうからと断られた。それからどの位時間が経過したか明確ではないが、結局最初の「カッター」のところに戻ってきていた。「カッター」は転覆したまま、その船底に兵隊が五~六人跨(また)がっていた。私もその船底に上がろうとしたが、それまで自分で気が付かなかったが手足の感覚が大分薄(うす)れてきており中々上がれない。漸く何とか自力で転覆した「カッター」の船底に上がりこれに跨がることが出来たが、この時大きな声も出ない状態であることに気が付いた。もしも一人だけで救命胴衣をたよりに浮んでいて遠くに流されていたら、護衛艦が救助にきても大きな声を出すことも出来ずに救助されなかったかも知れない。偶々転覆した「カッター」に跨がっていたので沈没してから数時間後に護衛艦が救助にきた時、一緒に「カッター」に跨がっていた元気の良い兵隊が大声で救助を求めたため、割合早い時期に救助された。日光丸が撃沈されたのが昭和二十年四月九日午前十時三十分頃で護衛艦に救助されたのが同日午後二時か三時頃であったかと思う。とにかく救助されてからその船の船尾の船室に、着のみ着のまま収容された。護衛艦は仁川(じんせん)港に向かって航行し、途中敵潜水艦攻撃の爆雷の発射音を私たちが収容された船室の真上で聞いたが、いつの間にか疲労のため眠ってしまい、翌朝目が覚めたら仁川港に着いていた。それから門司に上陸したわけであるが、結局我々の所属していた泛水作業隊の乗船者二五三名の内、約一一〇名が行方不明となった。又我々の部隊主力が乗船した輸送船(日光丸より一日早く基隆港出航)は無事門司港に入港していた。
門司に上陸してから部隊は新潟に行き、新潟市沼垂(ぬったり)小学校に駐留して新潟港に於ける揚陸作業並びに沿岸警備の任務についた。
そして昭和二十年八月十五日終戦となり、私は九月中旬郷里の千葉県銚子市に復員した。
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