「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録27

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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大東亜戦争中支作戦に従軍して 成島惣蔵(西船・69歳)

 昭和十九年二月十五日(二十二才)。一銭五厘の赤紙一枚の召集令状を手渡された。私は現役除隊して一月十五日に結婚式をあげた妻が居り、一般に新婚生活の日々は楽しいものであるが、そんなあまい夢もわずか四週間で破れてしまった。今思うと、青春の喜びを硝煙と泥にまみれて過ごした、過去の自分が大変寂しく感ずる。二月十八日、東部第六三部隊に集結して直ちに編成され、第九野戦補充隊要員として中支に渡る。江西省端昌(ずいしょう)に於いて、満州から南下して来た現役兵と混成され、第十一軍桧二三二九部隊独立歩兵六十一大隊要員として、転属を命ぜられ、重機関銃中隊稲田隊(大尉)に編入され、五月から始まった湘桂作戦に、MG中隊第二分隊長として衡陽(こうよう)攻略に参加。此の日から死闘が始まったのである。中支は五、六月の季節は雨季に入って、戦野と水田がことごとく泥濘と化し、戦闘行動は困難を極める。此れからの文章は字数の制限と投稿規定又、四十四年の歳月が過ぎて居りますので、記憶も薄れてしまい、資料も不自由な為、間違った記載もあると思いますが、要点だけ記載致しますので何卒ご容赦下さい。
 六月二十四日。部隊は一路衡陽を目指して進撃するが、師団首脳陣は戦局進展が意の如くならずと見ると、各部隊を叱咤激励し攻撃前進を督促するのである。軍刀を振りかざして、重い軍壮に着剣して突激前進する将兵は、全くたまったものではない。打ち続く激戦と行軍、おまけに暑いので日射病にかかる兵隊達が続出し、顔は土色で目ばかりギラギラ光っている。此んな我が子の姿を親が見たならば、断腸の思いであろう。泊水(べきすい)、長沙(ちようさ)、陽山(ようざん)と順調に兵を進めた部隊は、衡陽周辺陣地について甘く見ていたようで、首脳陣は二、三日で占領出来る、と大きな見込みちがいをしていたようである。目の前にある敵陣地に向って攻撃するがそれも徒手空拳で、敵の陣地にとびかかるこの無謀な攻撃が成功する筈がない。従って戦果の割に将兵の戦死、負傷者が多い。今の今まで助け合った戦友が目の前で戦死する。生き残りの兵は涙もかれて実に悲惨だ。明日ない我が命と考えてしまうのが、いつわらざる兵隊の戦場での気持であろう。
 八月四日岳屛(がくしょう)陣地攻撃で二カ所の突破口を作る為突撃した。第二中隊長朝田大尉は戦死する。トーチカ目標に第一中隊の森田小隊が突激突入したが、敵の猛射に出合い、小隊全員全滅してしまった。此れを援護していた歩兵砲紺野中尉も敵弾にあたり戦死する。MG中隊から一般中隊に配属されて、小銃隊の援護射撃の指揮を取っていた中島小尉も、敵機の機銃掃射に頭部貫通銃創をうけその場に倒れ、壮烈な戦死をする。私はMG中隊の中島小尉の指揮下の第一分隊長とし参戦していたのであるが、今日も命びろいした。
 八月五日、六十一大隊長沢田大佐は第五中隊の本間中隊長に、一四トーチカに向い突入占領すべしとの命令を下した。本間中隊長は先ず決死隊をつのって、敵に奇襲攻撃を敢行すべく志願者をつのったが、兵隊は我も我もと競って来る。中隊長は数多い志願者から十名の決死隊員を絞るのは大変だったようだ。先ず妻子のある者、長男である者を除いて、ようやく十名の決死隊員が決定した。決死隊員は加藤軍曹を長として、下士官五名、兵五名である。決死隊員の奇襲攻撃によって一応一四トーチカの内部を掃討鎮圧したが、加藤決死隊長は、狙撃により右足間接骨折貫通銃創を受け、その場に倒れる。他の兵隊達もほとんどの者が負傷する。一般中隊の片山兵長は前方の敵陣地に向け一斉射撃を行っていたが、軽機が突然二重装塡(そうてん)を起こしてしまったので、故障排除のため一旦銃を引き下ろして、排除作業をしていた処、側方より「バンッ」と一発狙撃弾が来た。片山兵長は右眉の上から浅く両眼の間を通り、奥歯二本をフッとばして左頸動脈を切断して、重傷をして倒れた。ただちに応急処置をしたが一時間後に不幸にも息を引き取った。陽気が悪い中支では皮膚病とマラリヤにかかる将兵は非常に多く、しかも炎暑であったので、体力のない若い兵隊が数多く倒れて行く。
 その後、六十一大隊は兵陵(へいりょう)へと続く軍公路をひたすらに衡陽へと南下、照りつける太陽で暑い日の強行軍中小休止となったのである。ちょうど部隊が小休止した場所の中山系から流れ出る谷川の水を、兵隊達は発見したのである。のどがかわいていたので、我先にと水を汲みにいった。他の部隊の兵隊が汲みにいった時は皆、無事帰って来たのであるが、第四中隊では各分隊員の水筒を苦力に持たせて、地雷に気を配り乍ら出かけ、僅かに流れ出て来る水を代る代る水筒にうけていた処、松山上等兵が「オーイ三木、水をくんで呉れ」と水筒を手渡し、すぐ満水にして返し「有難う」と喜んで受け取り、水筒の水をうまそうに飲みながら五、六歩ばかり歩いたとたん、「ガーン」と物凄い大音響と共に、松山上等兵がフッ飛んでしまった。近くにいた山田兵長は松山上等兵が地雷で爆死したものと思い、山田兵長がとんで来て、中隊に協力を求める。急を知った横山曹長が応援に駆けつけて、山田兵長と今の状況について一言、二言話していた矢先、又もや大音響と共に地雷が炸裂し、収容していた山田兵長、柏兵長と負傷者の松本上等兵の三人が一挙にフッ飛んでしまった。片手、片足、鉢の肉が爆風で吹き飛び、みるからにあはれな姿であった。不幸にも受傷者がもう一つの地雷の上に伏せていたとは誰も気づかなかったのである。谷間の水を求めて敵と戦かはずして、不幸にして青春の喜びも知らずして、若い命が寂しく異国で倒れて行く。こういう出来事、悲劇によって死んで行く情景は、従軍した人以外は誰も知らない。只胸につきささるものがある、これが戦争だ。
 こうして、衡陽攻戦最高潮に達し、第二中隊と第五中隊が敵の正面から突撃を敢行する事になった。私の分隊を含めて機関銃小隊はこれを側面から掩護攻撃で敵に猛射を浴びる。機を逸せず、決然と立上がって突撃に移った第二中隊と第五中隊の突撃のため、敵は圧倒されて或いは戦死、或いは敗走したのであるが、此の一角を占領するのにあまりにも犠牲者が多く、第二中隊に於いては中隊長以下四名の将校の戦死により、将校がいなくなり、高橋曹長が中隊長代理をして生き残りの兵士を指揮する事になり、占領周辺の警備相当にあたる事になるのだが、高橋曹長は住民にきびしく、又、中国軍退役の佐官級三名を部隊に連行して、強く情報を得るため監禁していたが、その内一名が逃亡してしまった。これが後日、戦犯容疑で帰還途中、中国軍の指令で武昌(ぶしょう)に於いて理不尽にも処刑されてしまった。ほんとうに戦争は凄惨地獄で二度と繰返してはならない。
 八月七日、四十二日間に渡る苛烈な攻防戦に遂に衡陽は陥落したが、それはかつてない凄惨な戦闘であった。日本軍の損害は余りにも甚大のようであった。其の後の発表によると、日本軍の戦死者約一万人、中国軍一万七千人であるとの事。
 八月十二日、暑い日差しの中であった。至る所に敵兵の死体がころがっている。真夏の太陽の下なので悪臭を放ち、目を覆う有様である。私は奇跡的にも辛うじて命がたすかった。
 戦闘で負傷した将兵はぞくぞく衡陽野戦病院に送られて行く。但し、応急手当を受けるが医療品が欠乏しているので、暑さの為傷口が化膿して、ウミが出てウジ虫がわいている。こんな状態だから助かる命も助からずして、尊い若い兵隊が数多く死んで行く。同じ病室に居る患者は、戦友が一人死ぬことによって明日は自分の番かと、死を待っているような病院の実態だ。こうした戦友が何千何万人と死んで行くのだ。生きている将兵が軍神の花ならば、戦闘で負傷して医療品がない為、哀れにも息絶えて死んで行く将兵はいったい何なのか、想えば実に可哀想である。終戦四十四年過ぎた現在此んな悲劇を体験した方も数少なくなっている。戦争の悲劇の陰には幾多の尊い犠牲がある事を見逃してはならない。
 八月十五日、終戦の詔勅が下り、戦争は完全にその終止符を打った。此の日をして日本の歴史の歯車が、大きく音を立てて崩れ落ちた日である。歓喜と号泣が世界を包んだ日でもあった。私達は軍命に依り、帰還の道についたのであるが、軍服はボロボロにちぎれて、すり切れた軍靴を引きずりながら、やせ衰えた身体にて炎暑の中を行軍とあって、弱兵の落伍者が相当多数出た。内地帰還を夢みながら病魔に犯され、又栄養失調等で帰還を目前にて次々と不帰の客となってゆく。こんな悲惨な状態が当分続いたのである。
 昭和二十一年六月。待望の乗船指示が出た。これで中国とも別れ、何年ぶりかに懐かしい故郷に帰還することが出来ると思うと、涙で胸がいっぱいになってくる。航海を続ける内、船内で衰弱の為内地を目の前にして他界した者、各部隊には多くの数が出たようである。亡きがらを毛布に巻いてしばり、甲板から関係隊員に見送られ、丁重に水葬される。ようやく鹿児島湾内に入った。又上陸を目前にして今日も三人他界してしまった。これが部隊最後の尊い犠牲であった。
 あれから四十四年、あのいまわしい記憶も、目覚しい復興の波の中に消え去ろうとしています。しかし、そんな豊かな平和の中に於いてこそ、永遠の平和を守る為、私達戦争体験者は如何に戦争が凄惨で、地獄であり悲劇であると言う事を、戦争を知らない若い世代に心を鬼にして強くうったえます。絶対に再度、戦争を繰返してはならない、又恒久の平和こそ我々生存者の責務で、今日の平和をしみじみとかみしめたい。


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