「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録26

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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戦争と私の青春  中村 庄太郎(二和東・67歳)

 昭和十六年十二月八日、家のラヂオが「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり。」と大本営発表を放送した。
 そして日本軍はハワイ真珠湾を奇襲し、マレー沖開戦で戦果をあげ、ビスマルク諸島、インドネシア、ビルマと次々に戦捷を拡大し、東南アジアの殆んどの地域を日本軍の手中に収め、当時の政府の掲げる大東亜共栄圏確立の夢は実現するかに見えた。
 然し、昭和十七年四月十八日、米軍機による初の日本々土空襲があった。私はその時国鉄品川駅に勤めていたが、芝浦方面からどす黒い双発の軽爆撃機が数機、超低空で静かに侵入して来るのを見た。その時付近に高射砲の弾丸が数発炸裂し、打上げ花火のような黒煙が現れ、続いて炸裂音が聞こえたが、弾丸は一発も命中せず、敵機は悠々と品川駅上空を高輪方面に飛び去ってしまった。当時日本は、明治以来、日清日露の戦争に勝ち、昭和になっての支那事変も破竹の勢で戦捷を拡大し、敵機の本土爆撃など一度も受けたことがなかったので、私達は空襲の恐ろしさなど知らず、皆外に出て終始敵機に見入っていた。敵機の搭乗員はこんな私達を見て、命知らずの無鉄砲さにさぞ呆れていたと思う。兎に角、敵機襲来事件で、日本軍部の威信は大きく傷つけられたことと思う。そして、昭和十七年六月にはミッドウエー海戦に敗れ、八月からのソロモン海戦でガダルカナルの戦闘の厳しさから日本軍の戦勝の幻想は急速に崩壊し、兵力、物資ともに窮迫の蔭が忍びよってきた。
 丁度この年私は二十才になった。当時日本の男子は二十才になると、国の行なう徴兵検査を受けて、三箇年の兵役に服するという国民皆兵の法令があった。従って私も軍部の行なう徴兵検査を受け、幸か不幸か甲種合格となり、昭和十七年十二月十五日、親戚や知人や町内の人々の歓呼の声に送られて、氏神様社前で忠誠を誓い、ブラスバンドを交えた行列は、日の丸の旗を振り振り、
  天に代りて不義を打つ………とか、
  勝って来るぞと勇ましく………など、と延々国鉄(今のJR)桜木町駅まで行進し、駅前広場で爆竹を鳴らしたり、私の万才を三唱して送ってくれた。私はこれが死地に赴く道であると知りながら、義務として至極当然と意識し勇んで入営した。
 当時私達は小さい頃から、学校でも、社会でも天皇陛下は天照大神の御子孫で神佛よりも尊く、日本は建国の初めより万世一系の天皇が統治し、一尺の土地も、一人の民も皆天子様のもので、臣民は天皇陛下を親とも慕いてお仕え申すものと教え込まれて来た。従って戦争の目的が侵略の為の殺し合いであっても、軍国主義の権力の命令には疑念も覚えず、只管忠君愛国の精神で滅私奉公することが至上の道徳と信じていた。然し中には厳しい軍隊生活を恐れたり、生命の危険を避けるため、徴兵検査の前に毎日少しづつ醤油を飲んで健康を害し、徴兵検査で不合格となって兵役を逃れた者もいたようだ。
 軍隊に入隊すると、当分の間は、起床喇叭で朝起きると、消灯喇叭で夜寝るまで、点呼、掃除、食事、教練、環境整理に、皆んな競争意識をむき出しに励むよう強制され、古年兵は初年兵に何時も睨みを効かして、「声が小さい」とか「元気がない」などと、同じ事を何回も何回もやり直させ、態度が悪いと横っ面をぶん殴った。学課訓練で昼夜暗誦を強いられた軍人勅諭には「上官の命は直ちに朕が命と心得よ」と上官の命令には絶対服従を諭されているので言訳は一切出来なかった。
 そんな或る日事件が発生した。それは、私達初年兵の同僚が、食器洗場で髭を剃っていると、よその中隊の古年兵が「こんな所で髭を剃っている奴があるか」といきなりぶん殴った。殴られた初年兵は驚いて便所に逃げ込み、ここでこっそり髭を剃り続けた。すると今度はほかの兵隊が便所に入ろうとその戸を開けたので、初年兵は慌てて戸を閉め直し、剃刀を軍衣のポケットにしまっていると再び戸を開けようとされたので、吃驚して急いで戸を押さえようとした時、軍衣のポケットに入れた剃刀に手首が触れ、右手首の内側を深く切って大騒ぎになった。暫くして不時点呼があり、教官が初年兵を集めて「軍人になれたことを至上の名誉と思わず、兵役を逃れようと指を切ったり、手首を切ったりする不心得な兵隊がいるが不忠この上ない。今後このような大逸れた考えを起こさないことを誓ってもらいたい」と訓示された。
 内地部隊で約一週間初年兵教育を受けた後、明治神宮外苑球場で家族との面会があった。
 当時私達が面会場に行くと、既に大勢の家族達が待ち焦がれていた。入営してまだ一週間しか経っていないのに、当日父母と顔が合うと目頭が熱くなり、これが今生の別れかと涙で目の前が霞んでしまった。幼い頃から忠君愛国とか滅私奉公の精神を強く叩き込まれてきた筈なのに、と一生懸命に涙をかくし、父母が心を寵めて作って来てくれたご馳走を囲んで名残りを惜しんだ。
 翌日、初年兵は全員教官に引率されて都内を行軍し、宮城前に行き、軍靴の足音も高く砂利道を踏みしめながら二重橋の袂に進み、宮城を遙拝して天皇陛下に忠節を誓った。更に行軍を続け、宮城の内堀を通り、桜田門、三宅坂、靖国通りを経て、殉国の英霊を祀る靖国神社に参拝し、これが内地との別れと名残りを惜しんだ。
 翌日、私達初年兵は一週間の恩義を謝し部隊を後にした。徒歩で外苑通りから青山墓地を通り、魚藍坂、伊皿子坂通って、品川駅に行軍した。途中で大きな屋敷の庭内を借り夕食をとった。庭内には真白い工プロンに、愛国婦人会と書いた襷を掛けた婦人達が、お茶を注いでくれたり、水筒に水を入れてくれたり、かいがいしく親切にもてなしてくれた。この時一人の愛国婦人会の人が私に駆け寄って「兵隊さん釦がとれそうです。おつけしましょう。」と言ってエプロンのポケットから針と糸を出して、私の軍衣の第二釦を手際よくつけ直し、私の胸もとに顔をつけて歯で糸を切った。私は目の前に迫る女性の髪の香りにうっとりしていると、「はい終わりました。お国のためご苦労様です。」と言ってじっと見つめられた瞳が、私の心の奥深く焼きついて何時までも忘れられなかった。行軍中は道端で行き交う人達が皆んな私達に「ご苦労さまです。」と手を振ったり、お辞儀をしたりするので、私達は感激しながら胸を張って行軍した。品川駅で軍用列車に乗ると、ホームでの見送りを禁止され、車両の窓は鎧戸を降してあって何となく淋しさに閉ざされた。各車両には満洲部隊から私達を受領に来た下士官が一名づつ乗車して、鋭い目付で私達を監視していた。やがて発車ベルが鳴り軍用列車はホームを滑り出した。前に座った戦友が「平塚でお母さんが提灯を振ってくれるから見るのだ。」と云った。戦友は軍曹にわけを話して平塚で鎧戸を開けさせて貰い、真暗な外を夢中で眺めていたが、やがて提灯が見えたらしく手を振り出した。軍曹はすぐそれをやめさせた。戦友は手を振るのをやめて、涙でじっと揺れる提灯を見つめていた。翌日列車は下関駅に到着した。私達は満洲派遣のため下関港から関釜連絡船に乗った。当時日本はソウル(当時の京城)を首都とする韓国と、ピョンヤン(当時の平壌)を首都とする北朝鮮人民共和国からなる朝鮮半島の全域を、日露戦争で勝利を収めた時から日本の領土としていた。
 冬季の強い季節風が高波を呼ぶ玄界灘を、船は大きく揺れながら釜山港に向った。連絡船は一般人と一緒で売店にはキャラメルとか砂糖豆などが並び、電気蓄音機からタンゴ「夢去りぬ」のメロディーが流れていた。乗船する時、ソ連の潜水艦に狙われるから兵隊は甲板に出てはいけないと命令された。夕刻連絡船は釜山港に到着した。上陸すると寒いというよりは痛いような寒さに皆んな驚いた。釜山では駅近くの公会堂に詰め込まれ、コンクリートの床に折敷(おりしけ)の姿勢で折詰弁当を食べて一泊した。寒さで一睡もできなかった。翌朝四時起床、朝食を食べ、兵器の手入れをして服装を整えると瞬間に出発である。釜山駅発午前五時の行先不明の軍用列車に乗車した。二重窓で蒸気暖房のある暖かい列車は朝鮮半島を北へ北へと走った。列車が鮮満国境にさしかかった頃、誰かが「脱線だ」と叫んだ。皆驚いて車窓から外を見ると、八両編成の客車列車が昿野を走る線路の土手下に転落し、台車を上にして転覆した残骸を野晒しにしていた。私達は窓を開けて珍しそうに見入っていると軍曹が「ぼんやり見ていると馬賊や匪賊に襲撃されるぞ。窓を閉めろ。」と怒鳴った。薄気味悪くなって慌てて窓を閉めた。釜山駅を出発して四日目の夜、列車は満洲国の首都哈爾濱(ハルビン)に到着した。駅には私達の派遣部隊から班付きの上等兵が迎えに来ていた。車内で防寒帽と防寒大手袋が貸与された。
 防寒被服を身につけて外に出るともの凄い寒さだ。舗装された道路はこちこちに凍り、軍靴は底に金の鋲が打ってあるのでよく滑った。なかには行進中転んで、大元師陛下より賜った菊の御紋章の付いている銃を投げ出して疵付けてしまった兵隊もいた。防寒帽の耳垂布を降して行進していると、口や鼻から吐く息が口の周囲の耳垂布にかかり真白く霜のように凍り付き、一生懸命行進しているので、額から流れた汗が額の表面に薄いつららになって垂れ下り、睫も吐く息で凍り、鼻毛も凍って鼻の中がごそごそした。全身にも汗をかき、やがて部隊に到着した。私は機関銃中隊に配属になった。満洲での初年兵生活は猛烈に厳しかった。重機関銃は歩兵の花形である。中隊にある九二式重機関銃は口径が七、七粍、発射速度は一分間に四百二十発、その重量は五十五kgだった。また中隊にはこの重機関銃とその弾薬を運搬する百頭近い馬がいた。従って私達の初年兵生活も通常の軍隊生活の外に、重機関銃の手入れと、馬に朝、昼、夕三回水を飲ませて飼付をやり、夕刻には手入れをしなければならなかった。
初年兵の動作は何時も古年兵がじっと読んでいた。動作の敏捷な兵隊は可愛がられた。動作の鈍い兵隊は苛められた。横着な兵隊はよく殴られた。軍隊という所は総べて実行報告をしなければならない。褒められた時も、叱られた時も、その事を上官に報告する。毎日の行動についても、例えば飯上げに行く時は、内務班の出入口に立って、「中村飯上げに行って参ります。」と大きい声で報告して行く。便所に行く時も「中村厠へ行って参ります。」と。帰って来た時も「中村厠へ行って参りました。」と報告する。古年兵はその声が小さいと「聞えない」とか「もう一回」などと何回でも言い直させた。
 班内の掃除の時も、箒、バケツ、雑巾の奪い合いである。道具がないと身の置き所に苦しむ。どんな仕事も手をぬくと体罰が返ってくる。そんな中で、たばこの好きな初年兵は、たばこが吸いたくて便所に入って喫っていた。吐く煙を手の平で煽って消しては一生懸命喫っていた。
 教官は初年兵係の教育助手(古年兵)に、初年兵を病気にかけないように、飯はよく噛んで食べさせるように、凍傷にかけないように、やたら殴って怪我をさせないように、と注意をしていたが、古年兵達はそんなことをしていたら、ぶん殴られてもびくともしない、腹のすわった、度胸のある強い兵隊にはならない。と私達初年兵を毎日のように、敬礼が悪いとか、服装が悪いとか、掃除が悪いとか、兵器の手入れが悪いとか整頓が悪いなどと誰かしら殴られていた。その殴り方も足を半歩開いて、歯を喰いしばってと準備させておいて思いきり頬をぶん殴った。目から火が出てよろけると確りしろ、とまたぶん殴る。確り受け止めるとこの野郎なめやがってとまたぶん殴られた。顔の色が変わったり、顔形が変形した兵隊もいたが、わけを聞かれると転んだなどとごまかしていた。消灯喇叭が鳴り初年兵が寝具に入ると、古年兵が班内を見回り、床にゴミが落ちていたり、銃架にホコリがついていると云って、「初年兵全員起床」と号令し、連帯責任ということで端から殴られる。或る班がするとほかの班も負けずにあちこちの班で気合いが掛ってビンタの音が響きわたる。時には初年兵を二列横隊に並ばせ、前列を回れ右させて向い合わせ、対抗ビンタといって初年兵同士で殴り合わせる。戦友同士なので加減して殴ると確り殴れ、と強く殴り合うまで殴らせられる。こんなことが毎日のように繰り返されるので消灯喇叭のメロディーが「シンペイサンカワイソダネー、ネテマタナクノカヨ。」と聞こえてくる。満洲に行って二箇月位過ぎた或る日、週番上等兵に引率されて食缶返納に行った。アルミ製の分厚い食缶を食器洗場で綺麗に洗い、左右の手に下げて炊事班に行くと、よその中隊の初年兵が、食缶の底に飯粒が付いている、と炊事班の古年兵に怒鳴られていた。その初年兵は不動の姿勢で「はい」「はい」と膕(ひかがみ)を伸していたが、古年兵は散々文句を言ったあげく、その食缶を初年兵の頭に被せ、炊事で使うシャベルの様な大きいめしべらで食缶の上から殴った。初年兵は外が見えないので殴られる度に、あっちにふらふら、こっちにふらふら、とさまよっていた。私が「食缶返納に参りました。」と食缶を出すと「よし。」と言われたので早々に退散した。
 或る小雪のちらつく朝だった。食事が終ると初年兵は全員教官に呼び出され、駆足で営庭を一周した。終ると教官が私達に、「貴様達の中に俺と相撲をとって勝つ自信のある者は出て来い。」と言った。みんな駆足を終えたばかりなので、まだ息が苦しかったので黙っていると、暫くして教官は、「貴様達は度胸がない、攻撃精神が何もない。ロ助(ロシア兵)が攻めて来たら逃げるような奴等ばかしだ。俺は貴様達の教官として勇敢な強い兵隊に教育したつもりだった。そんな腰抜けの兵隊ばかしだとは思わなかった。貴様達を強い立派な兵隊に育てなければ天皇陛下に申し訳けがない。これから徹底的に鍛えてやるから倒れるまで俺の後について来い。」と泣き声で叫び、我々初年兵を卒いて再び駆足で営庭を一周し、営門を出ると駆足のまま練兵場に向った。何粁駆けたかわからないがみんな歯を喰いしばって一生懸命駆けた。やがて練兵場の片隅にある満人の貧民墓地に連れて行かれた。ここは演習で来たことのある場所で、土饅頭が雨風に晒されて崩れ、棺桶も朽ち壊れて中の死骸が見えるものもあり、夜間演習で棺桶の中に落ち込んだり、夜間窪地に陣取ったつもりが、明方になって見ると棺桶の中にいたということがあったところだ。初年兵はみんな息も耐え耐えだったが駆足は続行された。練兵場の外れの小高い丘の上に来た。少し遅れた兵隊はいたが全員頑張った。そこには縦横十米、深さ五米位の穴が掘ってあり、その中に沢山の泥人形が放り込んであった。
 一瞬近所に人形工場でもあるのかと思った。よく見るとそれは人間の死体で、老若男女が折重なって累積していた。そういえば穴のそばに行った時、烏が四、五羽飛び立ったが、酷寒のため死体が冷凍状態で悪臭に気付かなかったようだ。途端に異臭が漂って来た。教官は御機嫌で、皆んなで軍歌を唄いながら帰営した。
 重機関銃の分隊は分隊長以下九名で、下士官の分隊長と、一番から四番までが銃手で五番から八番までが弾薬手だった。行軍の時は機関銃も弾薬も馬の背に積んで運搬したが、演習の時は組立てた重機関銃を一番から四番までの銃手が、肩でかついだり、手で担ったりして運搬した。戦闘訓練のときは二人搬送と分解搬送があり、二人搬送では重量五十五瓩(キログラム)の重機関銃を前と後の二人だけで担って搬送しその殆どが駆足だった。分解搬送は銃身と脚と前棍(こん)、後棍(こん)に分解し、銃手四人で分担して搬送する方法で、二人搬送では無理な山とか狭い道などを行く時に使用するのだが、初年兵教育では演習で練兵場などを散々這い回され、皆んなくたくたに疲れている時に「分解搬送早駆前へ!」の号令がかかる。銃身が一番重いので交替しながら搬送するのだが、銃身を担いだ兵隊も意地があるから、口から泡を吹きながら倒れそうになるまで頑張る。あまり早く交替すると古年兵に「気合いがたらん。」と怒鳴られる。搬送は何時もよその分隊と競争である。「目標営庭」との号令で皆んな目の色を変えて営庭に急ぐ。遅れると怒鳴られて再び営庭を駆足させられる。演習の締めくくりは何時も分解搬送早駆け前へ!、であった。
 一期の検閲間際に馬事提要という冊子を配布された。ページをめくると、馬は日光を好み草を喰い運動を必要とする動物なり。とあった。はじめは馬なんて馬力の馬しか見たこともないのに嫌だなあ、と怖かった。中隊には九十八頭もの馬がいた。厩に行くと中央の通路の両側に、尻を向けてずらっと並んでいた。尾に片布が縛ってある馬は蹴癖、鬣に片布が縛ってある馬は咬癖の印だった。はじめての馬でも「オーラ、オーラ」と声をかけながら静かに近寄って頸筋を手の平でそっと叩いてやるとおとなしい。水を飲ませに連れて行ったり、飼付けをやったり、馬の身体を刷毛でこすったり、蹄をきれいに洗って蹄油を塗ってやったり、雑布で歯を磨いてやったり、肛門を雑布で拭いてやったり、乗馬して馬運動をさせたりする頃には、馬に気持が通じるようになって、その仕草や瞳がたまらなく可愛くなった。重機関銃やその弾薬を運ぶ駄馬なので身体が大きく頑丈で足も大きい。馬運動は毛布を畳んで背中に乗せ荒縄で胴に縛って、麻縄に固定した鐙(あぶみ)を左右に振り分けて馬の背中に跨ったが、馬の身体が大きいので背中も板の間のようで、膝で胴を挟むのに疲れた。はじめは乗馬の練習中、馬場で二、三回地面に振り落とされたこともあった。
 この頃、私達初年兵の同僚に逃亡事件が発生した。内地の母から慰問袋が届き、中に手紙と一緒に現金六十円を送って来た。その兵隊は慰問袋の中の菓子類は戦友達と分け合って食べ、六十円は懐にしまい、翌日厩当番のため四時に起床願いした事を利用して、厩に行くふりをして、厩横の鉄條網を潜り何げなく外に出てしまったという。折りよく歩哨にも見られず外に出て見たが、急に恐ろしくなって夢中で街の方に歩きだし、そばを喰い、古着やでジャンバーを買い、街の中を放浪したが、次第に陽が昇り、再び恐怖心を感じてタクシーを呼び淋しい郊外に走らせたという。中隊では初年兵の逃亡事件で大騒ぎになり、捜査班を編成して街中や郊外を探した。然し逃亡者はその日も翌日も発見できず、三日目の昼頃満人の子供が捜査班に知らせに来て漸く捕らえられた。結局初年兵は窮屈な軍隊生活と母が送って来たお金が仇になって思いがけない罪を犯し、軍隊手帳に汚名を残してしまったわけである。
 日曜日には外出が許可された。冬の哈爾浜郊外には道端によく人間の死骸や人骨が落ちていた。冬季は満人が酒によって寝転ぶと、零下何十度にも下る外気で凍死してしまい、衣類なども何時の間にか剥がされ、やがて烏や犬の餌食になっていた。またそんな死体を荷馬車で無造作に拾い集めている光景を見かけたが、この死体は前に見た練兵場の外れにあった、あの穴に捨てられるのだと思った。またかちんかちんに凍った人糞の塊も、むきだしのまま荷馬車に積んで運んでいる状景も見たが、冷凍状態のため悪臭は殆んどなかった。
 満洲の五月は毎日強風が吹きまくり黄塵期で、地面が乾燥して土砂が舞い上がり、空の色が連日赤茶色に染まる。演習には防塵眼鏡をかけて練兵場を駆け巡り、演習が終って汗を拭くと、顔の表面から土埃がぞろっと剝れた。
 一期の検閲も終り酷寒の満洲にも春が来て、積み重ねた艱難辛苦の結晶として六月には肩章に星が一つ増えて陸軍一等兵に進級した。
 緑濃い練兵場を愛馬に乗って馬運動するのは爽快だった。
 年が変ると聯隊には週番下士官集合の喇叺が鳴り響き、その都度各中隊より数名づつ転属して行った。完全軍装を装備して、相当の糧秣を携行して、然しその行先は何時も誰にもわからなかった。三年兵は間もなく除隊のはずなのに皆んな転属転属なので、とても家になど帰れないとボヤいていた。
 昭和十九年三月八日、遂に私にも転属命令がでた。今度は普通の歩兵中隊で銃火器もなく、馬も居なかった。三十才前後の補充兵の初年兵が大勢居た。三月十一日聯隊を後にして哈爾濱駅より貨物列車に乗った。貨車の中は暗いので側の引戸を僅かに開けてあかりとりにした。私達は車内でごろごろしていた。小便が出たくなると走っている貨車の引戸の隙間から適宜したが、散々我慢してからでないとなかなか出なかった。大便のため列車は草原地帯に何回か停車した。私達は貨車から降りて草原で野糞を垂れた。豚が来てじっと見ているので気持ちが悪かった。終って貨車に戻ってから振り返ると、豚が兵隊のした野糞を食べていた。列車は昼も夜も只管走り続けた。
 停車する駅々で何処に連れて行かれるのか気掛かりだった。列車は長春、瀋陽、天津、済南、徐州、南京、蘓州を経て上海に到着した。
 上海駅構内で下車し、呉淞(うーすん)に行軍すると平家建ての兵舎があって、私達は此処に駐屯することになった。一箇月位経ってここの軍隊生活に慣れた頃、部隊は輸送船に乗って南方に転進することになった。乗船に先立ち航海中の心得や注意が徹底された。輸送船が敵の潜水艦に狙はれ、輸送船が潜水艦警報を鳴らしたら、帯剣を着けて、背嚢を背負い、救命胴衣を身に着け、鉄帽をかぶり、銃を持って甲板に出る。若し、自分の船に魚雷が命中したら船は退船警報を鳴らすから、輸送船が沈没する前に、早く甲板から飛び降り船から少しでも遠くに逃げないと、船が沈む渦に巻き込まれて死んでしまう。とか船から飛び降りる時は、必らず鉄帽をかぶり右手に銃を持ち、左手で股間を摑んで飛び降りないと、後から飛び降りて来た兵隊の銃の床尾板で頭を打たれる。とか、銃を持たないで飛び降りると、折角助かって海面に浮かんでいても、兵器をもっていないから護衛の巡洋艦や駆逐艦が救助してくれないとか、腰に着けている丸めた赤褌の紐を解いて海中に垂流すと鮫に喰われない。などの説明があった。四月十七日、私達は南方に転進のため呉淞港から輸送船に乗って揚子江を下った。輸送船の船槽は幾段にも仕切ってあって兵隊の席はきまっているが、座って首を屈めないと居られない狭さだった。こんな席が船槽に幾層にも仕切って造られていた。呉淞港を出帆して揚子江の河口に近くなると、マストだけ見せた輸送船が沈められているのが見え、皆んな気の引き締まる思いがした。輸送船は航海を続け東支那海を走った。何時しか輸送船は十数隻の船団を組んでいた。海は穏やかに凪いでいた。海は夜になった。船は真暗な海を黙々と南へ走っていた。突然潜水艦警報が鳴り響いた。と同時に「ドン」という鈍い爆発音を感じたと思ったら、隣を走っていた船が火達磨になって見る見る沈没しながら後方に消えていった。私達の船は全速力で逃げた。沈められた船は汽缶室に魚雷が命中したのだそうだ。敵潜水艦の発射する魚雷の音が船槽にゴーンゴーンと響いて無気味だった。船は只管走り続けた。やがて東の空が白みはじめて水平線が見えてきた。周りは全部水平線で島影一つ見えない。あんなにいた友軍の輸送船が何処に行ったのか一隻もみえない。陸軍の兵隊として、周囲に陸地が何も見えないという現実に一抹の不安を覚えた。敵潜水艦の気配がなくなると水平線の彼方あちこちから友軍の輸送船が集結して来て、所定の輸送船団を編成し、護衛の駆逐艦と巡洋艦に守られながら黙々と南下した。その日は一日中無事だった。その翌日も無事だった。次の日の昼頃、突然潜水艦警報が鳴った。鈍い魚雷の発射音が船槽にゴーンゴーンと響く。その時右舷の彼方で友軍の輸送船が、黒い飛沫(しぶき)をあげて船首が浮き上り後部から見る見る沈んで行った。潜水艦が出没すると船団は散開しながら全速力で逃避する。輸送船にも砲が据えてあるので砲撃も行なった。一方船団護衛の駆逐艦は敵潜水艦を追い回し、爆雷を投下してこれを攻撃した。遠くの方で見ているとドラム缶位もする爆雷を投下すると海面に大きな水柱があがり、水中で爆発すると海面が真白な飛沫になって盛り上った。こんな状景を何回も見たが、敵潜水艦に命中の有無は不明だった。船団は各船が全速力で散開しながら逃避するので、また周囲に船影がなくなった。駆逐艦の攻撃を受けて敵潜水艦は姿を晦ました。息のつまりそうな緊張した海は無気味に沈黙していた。暫らくすると水平線の彼方から一隻また一隻と輸送船が姿を現わし、再び護衛艦を交えた輸送船団を編成して南下した。台湾を過ぎるとバシー海峡を行く。バシー海峡は富士山の倍位深い所があって、敵の潜水艦が自由に活躍できるところだ、と船員が言った。船団の護衛艦を見ると、沈められた輸送船の兵隊が助けられて、甲板に大勢乗っているのが見えた。遠くの方に鮫だか海豚(いるか)だか数匹が海面から背鰭(せびれ)を見せて泳いでいた。こんなところでボカチン喰ったら皆んな鮫に喰われてしまう。とか、赤揮の紐を解けば大丈夫だなどと話している最中、再び潜水艦警報が鳴った。船は全速力で飛沫を立てて逃げ出した。海面に潜水艦の潜望鏡が見えた。大胆な潜水艦だ。船槽に魚雷発射のゴーンゴーンという音が響く。また遠くの方で輸送船が黒い飛沫をあげて轟沈された。駆逐艦は敵潜水艦を追い回し爆雷を何発も投下した。その都度海面に水柱が立ち上がり、爆発すると海面が真白に盛り上がった。輸送船からも砲撃が行なわれた。敵の潜水艦をやっつけたぞ海面に潜水艦の油が流れ出していた。と船員が言った。私達はその油を見たわけではない。敵の潜水艦は沢山居そうなので落ち着かなかった。海も空も青く澄んで静かだ。潜水艦にやられたら此処から飛び降りるのかと甲板から海面を覗くと高いので躊躇しそうだ。船は潜水艦に追い回されて付近の孤島の湾内に逃げ込んだ。船は静かな湾内で停泊した。船員は甲板から長い釣糸を垂れてのんびり構えている。見ていると色鮮やかなかわはぎを幾つも釣り上げた。長閑(のどか)かな一時であった。
 半日位停泊すると再び航海に出た。海面を見ていると大きな海亀が悠々と泳いでいた。水族館にいるような綺麗な亀甲の海亀だった。
 航海中海水は豊富なので食器などは自由に洗えたが、下着類の洗濯は海水なので石鹸がのらず、汚れが落ちないばかりでなく乾かしても陽射しは強いが何となくべとべとしていて着心地が悪く、下着類の縫目には虱がずらっと付いていて、取っても取っても一回着ると忽ち増え、兵隊も将校も虱だらけの下着を着て長い航海を続けた。四月二十七日、フィリッピン諸島のマニラ港に寄港した。港に近付いた時は、静かな波が紅い夕陽に輝いて、その海面を無数の飛魚が煌星(きらぼし)のように飛び交う様は、何とも言い様のない絶景であった。
 マニラ港で一晩停泊し、翌日マニラに上陸し、暑い炎天下で順番に水浴した。空も海も澄み切った青で、岸近く白いマストを海面に出した船が強い陽差しに美しくも哀れさを晒していた。その日の午後、船は再び南支那海を南下した。船尾から航跡を見ると船は何時も魚雷を避けるためか蛇行していた。船団はミンダナオ島とボルネオ島の間を行った。途中何回も敵潜水艦の出没と襲撃に脅され、駆逐艦は爆雷で反撃し、船団は全速で散開逃避しつつ南下したが、輸送船は次々に撃沈されていった。この辺の島は珊瑚礁で出来た島か、遠くから見ると海岸の砂が銀色で、その上に植物の濃い緑が繁っているので、美しい緑の島が海の上に浮いて見え、さながら蜃気楼(しんきろう)のようだった。
 昭和十九年五月九日、私達の輸送船はハルマヘラ島の湾内に入った。船体の前部が破壊されている船も入って来た。私達は完全武装を整えてボートに乗り移りこの島に上陸した。
 インドネシヤ人が丸木舟を上手に漕いで私達のボートに近寄りバナナやパパイヤを投げて歓迎しているようだった。このハルマヘラ島はニューギニヤ島のすぐ西隣にある四国位の小さな島で、私達はヘヤホールと言う地域に上陸した。上陸すると海岸近くに兵舎を造るため、ジャングルから樹木を伐採して骨組を造り、檳榔樹(びんろうじゅ)の幹を切り開いて床に張り、椰子の葉を編んで屋根を葺き、側を囲って軍備を整え、この地区にある二つの滑走路の警備についた。
 然し、暫らくすると連日敵の飛行機の襲撃を受けて、糧秼も弾薬も飛行場の燃料も爆撃され、私達は焼米を食ったり、やがて芋の葉を主食とし、蛇やトカゲや鼠やバッタを追い回して終戦を迎えた。
 昭和二十一年六月十三日、復員船に乗って懐かしい故国の名古屋港に上陸し、列車に乗って故郷の横浜に辿り着いた。高架を走る電車に乗って市街を見ると、見渡す限りの焼野原だった。それでも我が家の焼跡に行けば父母に会えるものと、逸(はや)る心を抑えながら急ぎ足で歩いていると、道端の防空壕の中から、「中村さんじゃあないですか、お宅はそこです。」と何もない焼跡を指さされた。横浜市は昭和二十年五月二十九日の空襲で焼土と化した。此の時に私の父も家も焼失した。

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