「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録25

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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任地ルソン島へ  中野 正久(習志野台・72歳)

  召集令状
 昭和十九年七月五日午後一時、市川市国府台陸軍病院着。五日の日、母と親戚一同と召集地の門をくぐった。非常に天気の良い暑い日だった。国府台陸軍病院で比島派遣第一〇五師国防疫給水部を編成完結した。將兵一八一名の人間が全国各地から応召を受けて新設されたとある。隊長はすでに現地比島に於て任命されて居り、行先は將校達には明らかであっても、下層の兵達には皆目解らぬ秘密事項であった。だがおよそその見当は南方の比島であると、あたえられた衣服や噂話等から段々と解ってきた。国府台は市川市の西を流れる江戸川に沿って形成された高さ二十米位の台地で古墳、貝塚等多くその昔国府、国分寺が置かれた古代房総の要所でした。中世では里見氏と北条氏の古戦場であり、明治になってからは野戦重砲連隊、陸軍病院等が置かれた。現在では我々の起居した兵営の跡は市の野球場になっている。我等が国府台陸軍病院に召集を受けながら徒に時日を費やしている間に時局は正に内外とも重大な破局に向かいつつあった。テニヤン島は角田覚治海軍中將以下陸海併せ九、一六二人の守備隊の奮戦空しく、八月三日米軍に占領された。続いて八月十一日にはグアム島が小畑英良陸軍中将以下陸海併せ一八、一二三人の玉砕によって占領された。両島の戦死者は実に三万人となる。
 国府台陸軍病院に待機すること五十八日、防給部隊も「捷一号作戦」の一端を担って南方進出に行動を起し昭和十九年九月一日国府台出発。小野中尉の指揮する百七十余名吾等出征兵士は重い背嚢を背に市川駅に向かう。当時駅はコールタールと黒煙で汚れた明治の遺物の様な駅舎。砂利が敷き詰められた駅前広場に流れる汗を拭きながら將棋倒しの様にして尻をついて休息した。金曜日の午后であった。軍用列車は市川駅より品川駅の貨物
 線に入り東京を発つ。国府津駅停車場司令で大休止したので、列車から下りて散歩した。どうやって連絡したのか家族と面会していた者もあった。列車は軍用のため大きな駅も必要なし、どんどん通過又定期列車をやり過す為に待停車をしたので、九州門司港に着いたのが三日の朝であった。関門海底トンネルは昭和十七年十一月十五日まず下り線が開通した。十九年八月八日には上り線が開通したので、当時の門司港には南方向けの輸送船が港外まで停泊し、大岸壁には数多くの船舶が接岸して慌ただしい中にも日本の国の力が窺れた。波止場には軍用品軍需品が山と積まれ、兵隊軍馬が往来して居た吾々防給隊は其の日は大きな倉庫の中でコンクリートの上に部厚い蓆を敷き、一夜を明かした。次の日昭和十九年九月四日月曜日。部隊備品、薬剤、兵器、給与品等の梱包の積込作業が始まった。此の船が比島の北シャンフエルランドまでの1ヶ月厄介になった帝楓丸であった。

  帝楓丸明細
 比の船は諸戦の時フランスから拿捕したもので、元の名をブーゲンビル丸と云い一九一七年製(大正六年)の船足の遅い帝国船舶所属のボロ貨物船でした。[
 九月五日[火]帝楓丸乗船完全武装も凛々しく、百八十名の将兵は舷側に吊されたネット梯子を這上った。將校見習志官は階段を登ったが兵の中にはこの梯子をどうしても登れない者も居た。他の部隊も同様である。タ刻岸壁を帝楓丸は離れる。関門海峡の潮の流れは川の様に速く之が海かと疑う。此の儘内地を出征するのかと思ったら案に相違して、帝楓丸は、とある島影で錨を下した。船員にでも訊いたか誰かが六連島だと言った。此所で船団の編成に三日待機した。九月九日土曜日二十数隻の船団が編成されて夕方六連島を出航す。ああ堂々の輸送船さあらば故国よ栄いあれ 異口同音に誰からともなく湧上る歌声万歳 諸々の感情と果しない秘めたる青春を乗せて いまや帝楓丸は故国を後にする
 玄海灘から対馬海峡は夜中に通航して、次の十日朝には朝鮮海峡に出ていた済州島沖まで至らぬ海域でハプニングが起きた。
 船団は三列從列に一定の間隔を置いて、広い海原を圧して進航していた。吾帝楓丸は右側從列の中間位置し、中列の三番船に進行していた千早丸が、潜水艦の魚雷攻撃を真面に喰って轟沈である。此の時帝楓丸船上では將兵の殆んどが甲板上に出て居た。甲板下の船室は狭くて暑いので、甲板は太陽下でも風が吹いて多少なり涼しかったので、立錐の余地なく場所を確保するだけが勢一杯の情況であった。
 突然帝楓丸が激震した。騒然となって一勢に兵隊達が立上った。左側斜方一隻の船が真逆立に船体の半分はすでに水中に没して、半体が水面に直立しているのを目撃する。
 昨年(昭和十八年)十月五日関釜連絡船崑崙丸(七、九〇〇屯)が朝鮮海峡で敵潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈され、船客六百十六人の大半が海没している。新聞には、例によって余り詳しく発表されなかったが、国民には衝撃であった。内海迄襲って来た敵の大胆不敵さ、旺勢なる戦闘心を褒める可きか我が心胆を寒からしめたことは事実であった。
 今、千早丸は海中に没し様としている。昨年にして前記の事実がある我制海権はすでに近海にもないことが残念乍ら認めざるを得ない情況である。それにしても気の毒なことよ、幾千の兵が一瞬にして海中に没する運命とは斯しも可烈なものであった。船団は忽ち隊列を乱して朝鮮半島の南岸に退避した。南朝鮮の海岸は湾曲があり、大小島々が多いので逃避には恰好適所である。島影から島をめぐって南西岸の木浦港に入る位置に珍島という余り大きくない島がある。此の島影の静かな海に静止して待つのか、帝楓丸は動く気合がなかった。対岸の陸地の樹木の無い丸坊主の山を眺めていると、故国の緑の山が恋しく、苗場山や雲取山や思い出が尽きない。人間は死する時まで修業だと考えは変らないが、今から戦地に征く我が身にどんな試練が待っているか。今日の様な事件が連続的に起きることは覚悟せねばならない。没法子(メンハーズ)支那から帰還した兵士から出た流行語だが、此の言葉通りに「なるようになるさ」そんな悟りとも取れる心境であったことも事実。又私は長男であり次男は支那戦線へ、三男は学生で長男次男三男現役予備後備と居るので、案外家の事は心配は無く、妻もなく心残りは少ないので気楽であった。其の安らぎが運命を変えて行ったのであろうか、すでに南太平洋の島々は次第に敵米の手中に収められた。漠然ではあるが日本海軍は相当の痛手を受けていると思はせる最近の情報である。ルソン島はサイパン、テニヤン島等と比較にならぬ十万平方kmも在る大きな島である。最後の最後まで頑張ればなんとか生き長らえることが可能のはずだ、戦地を知らぬ者の考えとしては当然であった。上陸後のあの極限の状況を誰が想像することが出来よう。
 九月十二日火曜日夕、帝楓丸は静かに珍島の海から大海に再び船団を組んで出航した。珍島を出た船団は、南西に進路を取って黄海の入口の辺を東支那海に抜けたと思われる。その儘進めば大陸に当り、上海の沖舟山郡島を右に見て南に下る真南に進路を取って進航すれば、三千kmの果てに目的地のルソン島がある舟山群島を右舷に見て南へ南へと下る。
 兵の給与は一日二回で而も玄米飯に一汁である。トイレの前は何時も行列が絶えなかった。敵の敷設された機雷原に突込み船団一斉に警笛を吹鳴し、見つけた機雷は銃撃した。其の度に大きな水柱が上った。船上の兵隊を緊張させたが無事舟山郡島沖を過ぎ進路を真南に取った。大陸の沿岸から台湾、フィリピン諸島仏印、マレー半島にいわゆる東南亜細亜は、未だ日本の制海制空権が確保されていたが、敵の潜水艦は時折出没していた而し、此の時より僅か数日後、即ち昭和十九年十月九日台湾沖航空戦まで日本優位の情況が持続されていた。
 十月に入ると此の方面にも活発に米軍は航空機により爆撃を繰返して、フィリピン攻略の陽動作戦を行い、大艦隊接近の印象を日本に与える目的を達成する。我が帝楓丸が米軍のこれら作戦の実行数日前に運良く航行したことは武運強かったと云へる(レイテ上陸陽動作戦)。九月十八日月曜日、台湾高雄港に入る。珍島を出て六日目、六連島出航して九日目である。
 高雄港は台湾西岸に位いした天然の良港で(実は埋め立てた)、台湾第一の設備を有する。当時は日本軍南方進出の中心港であるから、極めて活況を呈していた。台湾人がカヌーという中国のジャンクに似た舳先が嘴の恰好をした船に、新鮮なバナナやザボンを山と積んで売りに来るのが珍しかった。帝楓丸が横付けになった岸壁の真向いに爆撃された倉庫があった。南京袋に積まった砂糖がまだ煙を出してくすぶっていた。抜目のない兵達はいち早く之を見付けて、其の良い処を靴下の中に入れてかすめて来た。内地では砂糖も配給で家庭で求められるのは極めて少ない。有る処には有るものよと感心しながら、東京のお袋に靴下一本分でも送ることが出来たらと思ったのは当然の考えであった。ザボン壱円も出すと籠一杯買えたので当惑する程だ。九月二十日船団と共に高雄を出航した帝楓丸は、バシー海峡を未だ見ぬ台湾の南端辺まで進んで単船でUターン、船団から脱離して再び高雄港に戻った。機関の故障に依ると訊いた。停止している船の上では十日余の狭い船室、そして粗食の為体力低下の兵達は食うことに専念し、バナナ、ザボン類はこれを満して呉れた。船から抜け出して民間人の処へ出向く事も出来た。各々体力の回復に心掛け食べて寝て暮した。若い身体は驚く程の早さで体力を戻した。
 昭和十九年九月三十日土曜日高雄港を出港す。次の船団に組入れた帝楓丸であったが、なんとしても古い建造船で船足が遅いので台湾南端を通航する頃は単船同様であった。
 普通貨物船の速度は十三、三ノットで、アメリカの戦時船リパライ船でも最高十二ノットだから、此の時の帝楓丸の速度はおそらく最高十ノット位いではなかったかと想像する。
 高雄からアパリまで約五〇〇キロ余と近いが、問題のバシー海峡を無事に越えることが出来るか?甚だ不安であった。敵の潜水艦の最も活躍しているのがバシー海峡であったからである。船員達も兵もバシー海峡を無事渡れば任務の遂行は成就したも同然としていた。それ程に恐怖のバシー海峡を単船同様で航行することに不安が募った。此の頃である比島東方海上に台風が発生していた。此の水域に在る潜水艦に対して、警戒の退避を米軍の情報部から無電で発信されていた。而も帝楓丸がバシー海峡に入る頃に夜となった。曇り空で月がでない(十三夜)浪が荒れ始めていた。兵達は運を天にまかせて居眠りをする者が多かった。台湾南端岬―バター諸島間いわゆるバシー海峡は約二〇〇キロ帝楓丸の速度でも夜明けには海峡を通過出来ると船長は計算済みである。遂にバシー海峡を何事もなく過ぎてバタン諸島の見える水域に入ったのは十月一日の朝であった。
 昭和十九年十月二日夕刻、ルソン島北岸アパリ港外に着く。五日の朝には海上も幾分静かにおさまったので、船はアパリ港に返って積荷を伝馬船に積替えて下した。浪がまだ高く苦難の中に作業が行われたので進展せず費やされた。港といっても全く設備のない港で、防波堤も岸壁も無くただの砂浜に桟橋が突出ているだけで、内地の漁港でもこれより設備が良いと思った。アパリ下船部隊が一人づつネット梯子を降りていった。帝楓丸の下には伝馬船が横付けされていたが、絶えず波の為に大小の船の間は離れたり、接着を繰返し危険な状態であった。突然事故あり、一名の兵が重装備のまま船の間の海中に沈んで行った。なんたる不運哀れであった。下船早速中止した。帝楓丸は午後二時頃先の船団を追航する形で、単船で初期の目的地であるマニラに向けて出航した。台風解除の通知索敵を続けている米潜水艦の在ることも露知らず、北海岸を西に沿ってルソン島を辿るべく南支那海に向かった。フイリツピン諸島七千有余の中で最大の島、ルソン島は青く青く緑の島に何が待つのか、夢は途方もなく展開して、兵役に至る身を忘却する程にひたたる緑の蒼さに兵達は陶酔した。それ程比島の緑は蒼かった。船上から望む比島。美しさは此の一語に尽きる。

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