「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録24

更新日:令和8(2026)年10月7日(水曜日)

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戦争体験記  中沢英雄(丸山・70歳)

  まえがき
 奇しくも本年は「第二次世界大戦五十周年・太平洋戦争・大東亜戦争四十八周年記念」に当り、この戦争体験記を書く事は、大いに意義深い事と思う次第である。大正一桁生まれの我々は、青春時代を戦争に明け戦争に暮れた。しかも、軍隊生活で自由もなければ、何の楽しみもなかった。が、然し、又その時代は、それが生き甲斐で皆満足だったのだ。
 私も軍入隊が二十歳の時。あれから半世紀。早七十歳のおじんなので、ぼけ始めた固い頭をほぐし乍ら何とか書きますので、不備な点がありましたら何卒ご了承下さい。

  徴兵検査
 昭和十五年五月十日、地区(本籍地)軍司令官(陸軍大佐)の命に依り、当時日本の男性は国の制度にて、二十歳になると皆「徴兵検査(身体検査)」があり、私も二十歳なので、本籍地で検査を受ける事になった。検査の結果は「甲・乙・丙・丁種」とあり、私は「乙種合格」だった。

  召集令状
 昭和十六年三月十五日、東京第一陸軍造兵廠(兵器製造・現上十條・長官・陸軍中将)に勤務中、私に召集令状が届いた。覚悟はしていたが「とうとう俺にも来たか!」と感慨無量………。しみじみ令状(赤紙)を見つめた。私への令状は五日間の猶予があり、同月二十日九時迄に、東部第三十八部隊(高崎陸軍歩兵第百十五連隊)へ入隊せよとの命令書だった。「さあこれからが大変だぞ!」と自分に云い聞かせて、職場の班長と工場長(陸軍中尉)の所へ行き挨拶をした。
 翌日班長以下全員(三十名)に「祝出征、武運長久、吉田英雄君」と大書した字と、各人がサインをした日の丸の国旗を戴いた。それと工場長他事務所の人達が、房付の白い旗に同じくサインをして下された。餞別の金も当時一人五十銭各人より戴いた。午後一時、工場の前広場に於いて工場長以下二〇〇人位が整列して、私の出征を祝い見送って下さる訳だ。此の頃支那事変中だし、中国戦線では連戦連勝で、軍人になる事はどんなに、名誉であることか。若者達の憧れの的だった。だから二十歳になるのをまたず、小学校六年卒業で「陸軍、海軍、空軍の少年兵」に志願で、どんどん出て行った。
 そんな軍国華やかな時代の出征でしたので、工場長の挨拶のあと、私は市販の軍帽、軍服を着用して、もうすっかり皇軍の一兵士になったつもりで、皆さんの前で高い壇上に立って挨拶をするのだが、途中必ず「天皇陛下の為、国家の為に献身出来る事は、男子の本懐これに過ぎるものはなく、出征のあかつきは、粉骨砕身、滅死奉公致します。」と入れる。―後略―。挨拶が終わって、工場長以下全員の万歳に見送られて、帰郷した。
 実家へ帰れば、町長他町の有志の方々より戴いた「祝出征、武運長久、吉田英雄君」と大書した織旗数本が、家の前に立てられていた。召集令状が来て三日目には、母と上京して靖国神社参拝。東京見物旁々知人友人の家へ寄り、別れの挨拶などして一泊。翌日母と帰郷した。在宅もあと一日なので、町長他へ挨拶して回った。その晩は実家で隣組の皆さんに、盛大な送別会をして戴いた。
 姉に依頼しておいた千人針も漸く出来た。この千人針と云うのは、綿布で腹巻式にできていて、虎の絵が描いてあり(虎は千里行って千里帰る)実際一人一針づつ千人の女の方が、赤い糸を針で通して結ぶのだ。姉は女学校や製糸会社等を、駆け回って苦労して、仕上げて来てくれたのだ。その他五銭硬貨(死戦を越える)が縫い付けてあった。戦地へ征っても無事に、帰還出来ると云う、千人の方々と親族の願いが込もっている。それに今考えると千人針は、軍閥に対する無言の抵抗だったのだと思う。

  入隊
 一夜明ければ入隊当日なので、早朝から慌ただしく、家族に最後の挨拶をして、隣組の人々と町の氏神様「大森神社」へ行き参拝した。神社の境内には、早くより町長他町の皆さんが、大勢見送りに来ていた。当日は町内より三人が入隊するので、町長の挨拶のあと私が三人の代表で挨拶をした。時間が来たので、町長他皆さんの万歳で見送りをして戴き、高崎の部隊へ向かって出発した。
 昭和十六年三月二十日、午前九時「東部第三十八部隊」へ無事入隊した。入隊すると全員が丸裸になり、身体検査を受ける。不合格者は「即日帰郷」で、家へ帰されるのだ。当人の心境たるや、おして知るべしだ。私はどうにか新兵の仲間入りが出来て、本物の軍服に身を固め正式に「陸軍歩兵二等兵」になる。
 配属された処は小銃隊の第五中隊だ。一個連隊の中には、連隊本部と小銃隊(五個中隊)、機関銃、砲、通信各一個中隊その他がある。一個連隊の人員は約二千名で編成されている。陸軍の編成は先ず、陸軍省があり(大臣、大将)、方面軍(司令官、大将)、師団(長、中将)、旅団(長、少将)、連隊(長、大佐)、中隊(長、中尉)、少隊(長、少尉、見習士官)分隊(長、軍曹、伍長)である。師団の人員は約一万二千名である。話がそれたが、私は前記第五中隊第二班へ落着いた。とに角、あらゆる職業人間の集団なので面白い。先ず班には、班長、兵長、上等兵、一等兵各一名と、我々二等兵八名がいる。新兵には古兵がいろいろ班内の事を教える。軍隊はラッパと号令に明け、暮れる。とに角、起床ラッパが鳴ると“さあ大変”蜂の巣を突っいた様に右往左往して、自分の事、古兵、班長の事、下士官室、班内等を手分けして、掃除・朝食等一切を、早く間違いなくやるのだ。その間古兵は、新兵の行動をよく見ている。
 班内の出入りには必ず「〇〇二等兵何処へ行って参ります!。〇〇二等兵何処へ行って参りました!。」と大きい声を張り上げて云うのだ。が、声が小さいと古兵が聞いていて、大きい声が出る迄、何回でも云わせるのだ。班長や古兵の下着類は、新兵が毎日競って洗濯し、小銃、編上靴も手入れをする。一人でもミスがあると、連帯責任で新兵全員が整列して、体罰として古兵より、ビンタ(両頬を叩く)を受けるのだ。いろいろのミスを見っけてはビンタだ。その内に新兵同志を向き合わせて、互いにビンタをさせるのだ。
 新兵同志だから手加減すると、古兵が見ていて「貴様らのビンタはなってない!」と云って、古兵が力を入れてビンタをする。頬の中が切れたり、中には耳の鼓膜が破れる者もいた。小銃の手入れが悪いと云って、或る新兵は一時間位捧げ銃(小銃を両手で捧げ持つ)をやらされた。暫くして古兵がその新兵に向かって「どうだ、銃が許すと云ったか!」と云うと、新兵が「何も云いません!」と答える。すると古兵は「三八式歩兵銃殿、勘弁してもらいたくあります!」と、何回でも許すと言う迄謝れ!と云うのだ。その内別の古兵が来てとりなしてくれる。古兵に「有難くありました!」と、十五度の敬礼をしてやっと解放された。その他数えれば沢山あるが、省略する。
 或日、夜中に突然“非常呼集”の号令がある。「真っ暗闇だ!電気は点かない!」。全員一斉に起床。無言の内に完全軍装{小銃、銃剣、鉄兜、弾薬(一二〇発)、手榴弾(二発)、背嚢(中に食糧、衣類他)、総重量計三十kgをして整列する。この間所要時間僅か一分間で完了するのだ。又、屋外の教練も厳しく、一個中隊の新兵五十名位に対し、教官(中尉)一名、助教(軍曹) 一名、教育係(上等兵)四名で、実戦さながらの「血と汗と泥まみれ」の毎日の訓練だ。あまり厳しい、異状な内外の教練なので、中には連隊外へ脱走する者もいる。脱走者は逮捕されれば、軍の重営倉(ぶた箱)入りか、鬼の憲兵隊行きだ。
 「不名誉」な事になる。だから我々新兵は歯をくいしばって、何事にも耐え抜いた。実はその厳しい教練で「敏捷、忍耐、団結、攻撃精神」が、培われるのだ。それに、軍人になると先ず一番に大事なことは「軍人勅論」だ。左記の五項目には各々長い條文があり、毎日毎日頭へ叩き込み暗誦するのだ。此処にその全文を書いたら、此の体験記が半分位無くなってしまうので、五個條の項目のみ左記へ記す。
  軍人勅論
 一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし………。
 一、軍人は礼儀を正しくすべし………。
 一、軍人は武勇を尚ぶべし………。
 一、軍人は信義を重んずべし………。
 一、軍人は質素を旨とすべし………。
 昭和十六年六月二日、三カ月の教育の総仕上げとして、連隊規模の大演習が、栃木県那須野ケ原で三日間行なわれた。これで新兵としての「一期の検閲」が終了した。どうにか、心身共に逞しき軍人に成長したと思う?。新兵の俸給だが、私が入隊前の造兵廠の時は、一カ月の俸給が百円だった。「当時警察官が平で四十円位」だ。それが陸軍二等兵の俸給は、五円五十銭だ。それでも「衣、食、住」は無料だから、全額貯金した。その五年間の貯金通帳は、今日迄、私の手には渡っていないのだ………。どうしてだろうか?。不明………?。
 隊内には酒保と云って、日用品や菓子類が販売されていた。然し、我々新兵にはとても酒保に行くひまが無かった。一期の検閲が終わって間もなく新兵全員に、一泊二日の帰郷休暇の許可が出た。我々は天にも昇る嬉しさで実家へ帰った。家族も皆大喜びで迎えてくれた。此の事は我々が、戦地へ出征するので、今生の別れの面会許可だったのだ。

  出征
 昭和十六年六月二十四日、愈々戦地へ出発の日だ。我々〇〇名は完全軍装をして、整然と隊列を組んで、東部第三十八部隊を出発した。当日は部隊の正門から、高崎駅迄沿道は、在郷軍人会や国防婦人会、市民の見送りの人の波だった。我々の乗った特別軍用列車は、歓呼の声、手旗を振る市民の皆さんに見送られて、一路大阪港迄直行した。大阪港で又市民の皆さんに、手厚い接待を受け、大きな輸送船(千人乗り位)に他部隊と合流乗船した。
 大勢の人々の見送りと、出征兵士を送る歌、軍楽隊の音楽に送られ、別れの手を振り乍ら、我々の乗った船は、大阪港を出港した。次第に遠ざかる大阪港、此れで日本とも永遠に別れるのかと思うと、目頭が熱くなった。途中玄海灘の荒波を越えて、同年六月二十六日、中国北支(河北省)の塘泊港(天津迄約四十粁位東)へ無事入港、上陸した。

  戦地
 上陸の第一印象は、殺風景で土で固めた民家が、点在しているだけだった。駅で配属する各部隊毎に別れて、我々は北支派遣軍、冑二九九四部隊、山村部隊本部へ到着した。此処は琢県と云う所で、北京の南方約七十五粁の所だ。「三国志」で有名な地だ。本部で各中隊毎に別れて、我々はトラックに乗り、西へ西へと山峡へ入って行く。途中第一中隊本部で止まり、稍 して又トラックは出発。次第に道なき川原を更に山奥へ進んだ。其処は四方山に囲まれた所で、トラックから降りて急坂を登り、山の中腹に在る第一中隊の分遣隊へ到着した。地名は「紅梅庄」で、隊長(曹長)以下二十名だ。我々新兵十名は、此の分遣隊へ配属になった。北支の山は樹木なし。
 遠くの山頂には、敵「中国共産八路軍」の影が見え隠れしている。此処は大行山脈の中で正に最前線だ‼。油断大敵と云うが、何時敵襲があるか判らない………。その様な状況下で、我々は実戦的の教育を受け乍ら、昼夜を分かたず歩哨に立ち警備していた。同年九月二十日、新兵は全員、一等兵に進級した。軍隊は厳しい階級制度なので、星の数が一つ上なら下の者は、絶対服従で言訳も出来ない。此の事は軍人勅論の中に「上官の命令は、天皇陛下の命令と心得よ。同列同級とても、一日でも早く入隊した者が、上級と心得よ」。と明示されている。同年秋期は師団規模の冀東(北支東部地方)大作戦に参加、亦小規模討閥作戦に参加して、部隊へ帰隊警備中、同年十二月六日、中隊本部より出動命令が下令。私もその一員になる。とに角中隊本部迄の山道、川原には、敵の仕かけた地雷が、限りなく埋っている。踏んだら最後、脚が飛ばされるか、絶命は免れない。事実地雷で、戦友が何人も戦死しているのだ。
 漸く事故もなく中隊本部に到着。星野少隊三十名編成。直ちに出発。トラックと列車に乗継ぎ十二月七日北京に到着。少隊は提憲兵少佐の指揮下に入る。駐北京米国大使館、並びにその護衛米国海兵隊(両方で五十名位)を包囲、十二月八日未明、無血占拠した。此の同時刻に「太平洋戦争・大東亜戦争」が勃発した。
 昭和十七年一月十七日、北京警備中、星野少隊へ出動命令があり、直ちに我々は出発。目的の戦場(北京東方二十粁位)へ到着した。通県馬圧附近である。敵、味方畠を間に距離二〇〇米位。部落対部落より交戦中なので、星野少隊も素速く応戦。時を見て、少隊長の命令一下“突撃を敢行した”。その戦闘で多数の敵を殲滅した。然し、味方も何名か戦死傷者があった。私も此の戦闘中、右肩胛部骨折貫通銃創兼、右大腿部軟部貫通銃創の戦傷を受けて、翌日馬車で運ばれ北京陸軍病院へ入院した。
 同年三月二十日、入院加療中、第一選抜で上等兵に進級した。同年五月退院、原隊へ復帰した。部隊作戦参加や警備中年も明け、昭和十八年三月二十日、第一選抜で兵長に進級した。分隊長代理となり、拳銃支給さる。同年六月二十日、方面軍令に依り、冑第六十三師団が、陣第六十三師団に、臨時編成になる。我々の部隊は、琢県より同省易県に移動した。
此の地はその昔「風蕭々として易水寒し………」。の詩で有名な所だ。同年秋期、軍三個師団三万の大軍の冀西(大行山脈)大作戦に参加した。同年十二月部隊作戦中、第二中隊長、矢島中尉が戦死(腹部貫通)された。他将校下士官数名が戦死傷した。誠に残念無念である。
 昭和二十年二月、軍特令に依り、陣第六十三師団は、残留部隊を北支に置いて、殆ど満州奉天へ移動した。そこで同年八月六日、ソ連軍の参戦に遭いシベリアヘ連行され、抑留(平均三年)される。幸か不幸か私は北支に残留。新編成の迫撃砲第十九大隊、第二中隊(中隊長は現在館林市長、山本氏)第二少隊(少隊長は元文部大臣、塩川氏)、私は第三分隊長を命ぜられた。
 同年四月より、中支(南京)下士官候補者隊で、迫撃砲に関する指揮官の教育を受け、五月原隊復帰。同年八月一日、山東省泰安の泰山麓で警備中、陸軍伍長に任官(下士官・判任官)する。同日軍刀所持許可になる。

  終戦
 同年八月十五日、同所で終戦になる。同地で武装解除。抑留生活。昭和二十一年四月十日、我々の乗船したLST米軍上陸用舟艇は、山東省の青島港出港。佐世保入港、上陸。同年四月十六日「国破れて山河在り……」。懐かしい故郷へ無事復員する。後日厚生省より、名誉ある軍人傷痍記章を受ける。まだ書きたい事は沢山あるが、紙面の都合で残念乍ら擱筆する。

  あとがき
 尚私には戦後はない。なぜならば、約半世紀前の戦傷の疼きと、醜い敵弾の痕や刀傷の痕が躰中にあり、いまだ凄惨な悪夢に魘され続けているからだ。皆さん、どうか愚かな戦争は、絶対してはならない。又“絶対させてはならない”。私が元所属していた、陣第六十三師団(◎記)は、シベリア、イルクーツク方面に、その他抑留軍団の配置図を添付します。
 最後に先の第二次世界大戦で、戦没された方々には、衷心より謹んで、哀悼の意を表し御冥福を、御祈り申し上げます。合掌。
 

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