「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録23
軍隊教育(ルソン従軍記) 豊田 吉徳(本町・76歳)
一、初年兵教育
木枯しふきすさぶ真冬の候、その頃は皇軍が、南西太平洋の孤島であり、千葉県の面積より一廻り広いガダルカナル島(六四〇〇平方粁)で死闘をくり返している時、一通の赤紙の召集令状が私の手もとに届けられてきた。
真珠湾攻撃で勝利をおさめたものの、翌年の六月五日に始まるミッドウェー海戦で敗北を喫し、以後日本の戦局は思わしくなくなってきた。前の徴兵検査で国民兵役に編入されたものの、今は三十歳にもなるという私のようなものまで、徴兵再検査で兵役に適すとして合格。昭和十八年一月十日、神奈川県高座郡にある東部八十八部隊(電信第一連隊補充隊)に補充兵として、両親に見送られながら入隊した。
千葉県に籍をおき、千葉県人として育てられながら、千葉県内にある習志野原かあるいは佐倉の連隊の入隊でなくて、神奈川県の相模原召集(小田原急行で小田急相模原駅下車)の入隊となり、最初の軍隊生活を送ることになった。
電信部隊では、歩兵部隊にみられる戦闘訓練も受けたが、通信兵としての教育が主であり、電柱に架線構成の重構成でなく、竹電柱の上に電線をはりめぐらす軽構成が中心で、軍司令部と師団司令部の間の通信連絡が主要任務であるとされた。
演習として昼間は屋外で有線、無線電信の諸機械の取扱方法、昇柱機を足に取り付けての電柱の昇降訓練、電線と電線をつなぐ縁つなぎの実演、絡車(電線をまいてある道具)をかついでの駈け足競走など毎日がめまぐるしく、息をつくひまのない程いそがしかった。北方に寒々とそびえたっている丹沢山を眺めての昼間の演習は今でも忘れられない思い出となっている。夜は夜で内務班に帰れば飯あげ、食事のあと始末、銃の手入れなど、みな初年兵のやる仕事として待っていた。先輩格の古年次兵は初年兵より兵隊の飯をより多くたべているということだけで、暇が沢山あるのに、初年兵をあごで使い、文句を言い、それでいて自分では面倒くさい仕事はなに一つしなかった。そのとき程古年次兵がうらやましいと思ったことはなかった。
疲れた身体で、これらの骨の折れる仕事が終わったあと、業間(夕食後の学習)といって、冬ではあるが、ストーブのないさむざむとした教室で、キーを叩いてのモールス符号の学習が、毎晩きめられた通りに行われた。
私としては、こんなにまでぎっしりと行事のくまれた訓練や演習にであったことはなく、生まれて初めてのことであるだけに辛く、身体が綿のように疲労した。
就寝時間の十時がくると営庭で喇叭(らっぱ)手が「兵隊さんは辛いもんだねー。また寝て泣くのかねー。」と奏でる悲しい音を聞きながら、三尺幅の鉄のベッドの上に、固くて寒い毛布にくるまって涙ぐみながら寝るのであった。
二、使役・内務班生活
三か月間の初年兵教育も花綻びる四月に終わって、やっと息がつき、一安堵した。同じ教育を受けた戦友の大部分は戦地へ行くのか、多分本人にも知らされなかったであろうが、一装を着て勇ましく出発していった。軍隊でいう一装とは、新しくて立派な軍服、盛装のことをいう。
大部分、夜中に戦友の門出を、私は同じ兵営内に残留する兵隊どもとともに見送った。
私はすぐには戦地派遣の命令を受けず、営内にとどまり、連隊内の使役(しえき)雑務に暫く服することになった。
なぜ残るのかというと、学校を出ているということで幹部候補生を志願することになり、試験を受けて合格。陸軍通信学校での教育を受ける迄、連隊に留まることになっていたからである。
私の記憶として連隊内に残る兵達の使役の―つに風呂当番があった。兵隊どもの入浴したあとの風呂場の床や風呂桶の清掃、浴槽の注水を真夜中、私一人で一生懸命やったこと。
また、初年兵教育を終了した兵隊達と昼間の演習に参加したあと、被服庫や陣営具(食器類を保存しておく倉庫)内での整理や清掃中の一休みが、つい寝過ごしてしまったことなどがあった。
外にいやな便所掃除や中隊当番など、やったことがあった。中隊当番とは、下士官らが詰めて事務をとっている中隊事務室の使役のことである。すなわち事務室内の清掃、下士官達に対する、お茶のサービスや連隊本部への使いはしりなどである。その中隊長の靴磨きをやって、靴をピカピカ光らすことが一番重要な仕事であるとされた。その中隊長の靴磨きを何回となくやらされた。私の所属している中隊長は角(すみ)中尉といっておったが、靴磨きを一生懸命やったけれど、角中尉から一度も礼を言われたことがなかったのであるが、当番兵としては当然やるべき仕事なのでやむを得ないことではあった。
軍隊生活で下士官や古年次兵が兵隊を平気で殴打することの不愉快さは今でも印象に残っている。
軍人勅諭五項目は全部覚えなければならないのに、最初の一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべしすら覚えることが容易でないものもいた。そのために左右の頬への思いきりの往復ビンタをくらったものが何人かいた。
生命よりも大事だとされている目方の重い38式歩兵銃は夕食後、兵隊どもが演習や当番、使役で疲労しているにも拘らず掃除、手入れをしなければならない。おろそかにしたら、ねむけざましになると、古年次兵におもいきりぶん殴られたうえ、歩兵銃を長時間持たせ、捧げ銃をやらされたりもした。殴打にしても、平手や拳骨でなぐる程度ならある程度がまんできるとしても、兵舎内で履いている営内靴でなぐる、時には手に持っている杖や青竹でおもいきりなぐることさえあった。
考えてみると、こんな恐ろしい、いやなところはないし、これが協力しあう人間のすることかと思うと癪にもさわるし、不愉快な気持が充満し、身震いするのであった。
真夜中の非常呼集は、軍隊生活のなかで一番こたえた。昼間、架線作業のための絡車かつぎをやらされたり、または夜中の風呂場の清掃や注水の使役が終わってから、内務班に帰り就寝前の点呼を受けたあと、やれやれと固い毛布にくるまってやっと寝につくことができた頃、不意に非常呼集だと言われて起こされる。その時は必ずといってよいくらい、意地悪く根もとから電燈のスイッチを切ってあかりをつけられないようにしておく。内務班の部屋は真っ暗闇で一寸先も判らないのに、毛布を背のうに巻きつけ、巻脚胖をしての完全軍装の身支度をしなければならない。疲労はしている、眠くてたまらない。真っ暗闇なので手さぐりであり、他の戦友とぶつかりあいであり、内務班はひっくり返るような大騒動になる。あわてればあわてる程、あせればあせる程、支度をするのに時間がかかり、骨がおれる。お粗末ながらやっとのことで完全軍装のいでたちで営庭に集合すると、身支度不十分だとか、集合がおそすぎるとか言って、罰として広い営庭内を一周とか二周やらされる。意地の悪い週番士官が当番になると非常呼集を毎晩やらされるからたまったものではない。そのために心身ともに疲れ、死にたくもなったことさえもあった。
三、幹部候補生教育
三十歳にもなったというのに電信連隊に補充兵として召集され、初年兵教育を受け、その後連隊内で使役や当番ですごしているうちに、翌昭和十九年二月一日より二十歳代の元気さかりの現役兵と一緒に初年兵教育以上のきびしい訓練が待ち構えている、陸軍通信学校での幹候教育を受けることになった。
電信連隊が小田急相模原駅下車で行くことができたのに、陸軍通信学校の方は新宿駅より小田急に乗車して、相模原駅より一駅手前の相模大野駅下車で行くことができた。
通信学校での教育は、幹部候補生試験に優秀な成績で合格。心身ともに卓越しているということで、また将校になるための資質を養成しなければならないということで、初年兵教育以上にきつい訓練がまっていた。原隊にいた時は、日曜、祝祭日には外出、休養が許され、ゆとりがあり楽しみもあったが、学校ではそんなゆとりが全然といってよいくらいなかった。初年兵として入隊したのは一月の寒い時であった。酷寒ということでは同じであり、一年のうちで一番寒い二月一日に通信学校に入校、きびしい訓練を受けた。またこの相模原の地は千葉県にある習志野と同じ荒涼の地でもあるだけに、私は寒さで身体が震え、身にこたえた。また業間での火の気のない、広々とした校舎内で、戦友同志、ビンタの訓練をやらされたために眼がくらみ、身体がふらつき、気を失ったことがあり、今でも忘れられない。また学校内廊下、階段は勿論、営庭などすべて駈け足しなければならない。さらに厚木の練兵場へ行くのに駈け足行軍なのでへこたれたこともあった。
地獄にいるのと同じような苦しい学校生活も六か月後の八月十一日に卒業。原隊復帰、相模原の電信連隊に戻ることができて、やっとひといきついたのである。
原隊復帰後は六中隊である斎藤中隊に所属。見習士官として初年兵教育や週番士官としての任務について、時をすごしたが、その間サイパン島玉砕、東条英機首相(二年九か月に及ぶ政権担当、陸軍大臣、参謀総長兼任)の辞職などがあって国内不穏な空気に包まれるようになった。サイパン島占拠後、サイパン島を飛行場として飛立つ空の要塞といわれる敵の大型爆撃機B29が東京を中心に各都市に爆弾や焼夷弾を雨あられの如くに落とすようになった。間もなく米艦船がレイテ湾に進入してきたので、フィリッピン戦線がにわかに注目の的になり、神風特攻隊が出動するようにもなったが、その頃十二月四日付けで第十四方面軍に転属の命令が私にくだり、フィリッピン戦線に赴くことになった。早速フィリッピン派遣の尚武集団に合流すべく、東京の杉並の自宅を出て、東京駅を夜八時に一般乗客とともに乗車。開通して二年にもなるという関門海底トンネルを通過。門司駅で下車して、宿舎山城屋におもむき、フィリッピン行きの尚武集団一行(大尉より見習士官に至る下級将校集団)約三十名名程のものとおちあい、起居を共にすることになった。
転属命令を受けたのが十二月四日であるが、それから二週間たった十二月十八日の夜、六千トン級の輸送船で虎兵団が朝鮮より乗船している日向丸に、尚武集団一行が便乗、二日後中国沿岸に添いながら、昼間は停船、夜間航行という方法で敵の爆撃や魚雷をさけながら一路ルソン島へむかって走っていった。
四、出征・山中の苦闘
私が海没の浮目にあわないで、ルソン島北サンフェルナルドに日向丸を下船して上陸したのは、昭和十九年十二月二十九日の夜であった。それから十日後、二十年一月九日朝、米軍がルソン島西海岸リンガエン湾南北岸に上陸敢行、日本の第一陣を撃破していった。
昭和二十年の元旦は、北サンフェルナルドの宿舎で私はすごしたが、内地での食事はお雑煮が普通であるのに、ここではスイトン汁の食事ですますあっけないものであった。翌一月二日に広場に集合、電信第二十七連隊に配属の命令を受けたので、今迄行動を共にした尚武集団の一行ともわかれ、サブラン・イリサン街道を伝わってバギオに辿りつき、同連隊の勇中隊の宿舎におちついたものの、米機の熾烈なる爆撃に堪えられず、マニラに次ぐ都市といわれるバギオをも棄てて、トリニダートよりルソン中部の山中におちのびることになった。
山中にのがれても昼間は米機の機銃掃射、爆撃のため身をひそめ、夜間は四方にこだまする砲撃に脅え、戦戦恐恐の不安の毎日をすごした。しかし、山中では砲爆撃のぎせいになるよりも、マラリア、デングなどの熱病、食糧不十分のための栄養失調、心細くなったどんずまりの手榴弾自殺で死んでゆく戦友の方が多かったようである。私もマラリア、脚気、栄養失調で苦しみ、疥癬でいためつけられた。その上、山中では何回かスコールにあったが、着換えの衣類もなく、濡れればぬれたまんまですごし、寝床や寝袋のもちあわせもないので大地にごろ寝の生活を送り、ために虱(しらみ)がわんさとたかり、むず痒く、苦しめられ通しであった。
私の所属する電信連隊は尚武集団の中に包含されていた。その尚武集団はルソン中腹の山、ボントックよりハバンガン村にたてこもり、兵員数十七万を擁して米軍に抗戦。米軍をできるだけ多く、このルソン島に拘束させようとする戦略のもとにおかれた。そういうことでは、第二陣としてクラーク飛行場を守る建武集団、またマニラ東方山系に布陣する振武集団も、米軍をしてルソン島に拘束させようとする同じ戦略のもとにおかれたが、三万の兵力を有する建武集団の兵の喪失、九十七パーセントに達し、四万人以上の軍を擁した振武集団(マニラ戦敗北の結果、のがれた兵員を加えて一時八万人にも及んだという)も、戦死と餓死と病死が相つぎ九十パーセントが屍となる悲惨事となり、昭和二十年の三月から五月にかけて、両軍とも戦力消耗してしまい、のぞみを託することができなかった。しかし、尚武集団は終戦時には三分の一程度、五万五千人生き残り山中にてできるだけ沢山の米軍を惹きつけ、拘束したという功績は大きかったといわれる。
その尚武集団を指揮し、支配下においた山下奉文軍司令官は米軍の爆撃、攻略に堪えられず四月中旬バギオの本営を去り、六月十五日アシン川上流の山岳ハバンガン村に移動(大和村と命名する)。密林中に本陣を設営した。ボントック・タルビン・バナウェーよりこの地に我々電信連隊は居を移し、軍司令部と各部隊との通信連絡を行うことになったが、米軍の砲爆撃をさけることが精一杯のようであった。
この大和村山中に、昼は米軍機による機銃掃射、爆弾投下、夜はプログ山のあちこちにこだまする砲弾で、自分の肉体があたってこなごなになるのではないかと戦戦恐恐、毎晩おちおち眠れぬ夜をすごすのであった。
米機をうちはらうための頼みの友軍機は一機もこない。日本の山砲も七月初旬、さいごの一発を放って以後は全然なく、米軍のなすがままに行う砲爆撃をみているだけの、悲しさを身に滲みて味わった次第である。
五、終戦
尚武集団のなかで、われわれ電信連隊一同がこのような落着かないわびしい生活を送っていたのであるが、この山中で米軍の攻撃に耐えることができないときは、全員玉砕、自決という重苦しい雰囲気が漂うなかに、八月十五日の終戦を迎えることになった。終戦となる前に東京三宅坂にある参謀本部から重大なニュースが一応発表されるの話しがあるということが、どこからともなく伝えられてきた。それは日本の精鋭なる増援部隊がやってきて米軍を鎧袖一触、撃滅してくれるニュースであるとしか思っていなかった。
その八月十五日の終戦日、いつもは爆撃、機銃掃射を行っていた米軍機がうつって変ってビラを沢山まく程度でなにもしなかったのである。「日本軍無条件降伏した」と記されたビラ及び「ATOMIC BOMB広島に落ちる」のビラが当日沢山まかれた。無条件降伏したということで初めは、まさかと戸惑い、米軍の策略ではないかと疑った。これに符丁をあわせるように敵の謀略であるから、ビラを拾ってはいけないの本部からのきつい命令がこのときくだされた。それからATOMIC BOMBとは一体何であるのか、どんな爆弾なのかの予備知識は全然もちあわせてなかった。また強烈なる爆弾が広島、長崎におとしたというが、どんな被害を蒙ったのか、考えても見なかった。日本では、風船爆弾を製造、その風船が太平洋を横断してアメリカ本土で爆発、焦土と化するの流言を信じ頼りにしていた。そうは思っても山中の逃避行で相当疲労し、食糧皆無のため野草を飯盆で煮焚きしておる程なので栄養失調になり、またマラリヤなどの熱病で苦しんでもいたので砲爆撃、機銃掃射のないその日を迎えて一安堵するようになった。同時に日本は戦争に敗け降伏したという実感をしばらくして誰でもがもつようになった。勿論八月十五日天皇の終戦の詔勅の玉音放送は誰も聞いてはいなかった。一部の幹部将校が無線で傍受した程度であるという。
六、カランバ収容所
天皇陛下の赤子として敵陣に突入、玉砕すべきであったが、山中に逃亡、身をひそめての不安なる生活を送り、さいご八月十五日の終戦を迎えることになった。
それから九月初旬に山を降りてからキヤンガン迄は泥土のなかの徒歩行軍、キャンガンからサンホセまではトラック、サンホセから首都マニラ南方にあるカランバまでは無蓋貨車に乗せられて一路南下してゆき、さいごにカランバの捕虜収容所に収容された。時に昭和二十年九月二十三日のことであった。軍刀や山中でのよごれた軍服、携行品は収容される前に全て棄てさせられ、背にPW(捕虜)と記された米さんの軍服に着替えさせられ、キャンプ生活(大部分坐業であった)を送ったが何回かWC(戦争犯罪人)に該当するかどうかの審査があり、さいごそれに当らないものとして、翌昭和二十一年五月二十三日帰国を許され、五月二十九日カランバ収容所を出発、途中シベリアンの「バカ野郎」の罵倒を浴びながらマニラ湾に到着。マニラ港から筑紫丸に乗船、バシー海峡の黒波を横断。台湾の東海岸を眺めての六日間航行の後、長崎県佐世保港に着岸、上陸することができた。
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