「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録22
戦争の体験 高橋 義光(宮本・69歳)
昭和十六年十二月十日、私が東部十二部隊へ北支要員山砲兵現役入隊した、記念すべき日である。私達を北支天津から迎えに来た三名の受領員の方々と共に、十九年の支那大陸縦断作戦に参加したが、戦死され誠に残念に思います。戦争は明日の生命は誰にもわからないのです。
十二月二十二日、夜間青山師範の宿舎を出発、品川駅へと向ふ道路に、家族の人々が私達出征兵士の通るのを待っているのですが、憲兵隊の警戒がきびしく、面会も許されず、家族持参の食物の差し入れも受け取れず、駅のホームに入る。列車の車窓はあけられず、輸送列車はホームを離れ進行する。これが肉親との最後の別れかと、心細い気持ちがした事が思ひ出される。
広島駅で下車、市内の旅館で宿泊する。旅館附近は憲兵隊の警戒で外出も出来なかった。宇品から乗船輸送船の中では玄海灘が荒れて、船酔で全員が起きていられない状態であった。
釜山港へ上陸、小学校で大休止、そして鉄道輸送で天津駐屯地へと向ふ。列車は山海関を通過、開平附近にて列車が爆破され、転覆しているのが見えた。
天津駅着、下車してホームに出る。早朝でとにかく寒くてぶるぶると体がふるえた。金鋼橋の兵舎へ初年兵として入隊である。天津から津浦線で百キロ南の滝県へ。ここで初年兵教育の訓練がはじまる。内務班では教育掛上等兵の毎日ビンタビンタの連続、特に夜間点呼のあとが恐ろしく思えた。一期の検閲も無事終了。中隊は開平へ移動警備につく。夜間は銃声の音がする。
ある日、同年兵が三八式歩兵銃で自殺したのである。これは古年兵の私的制裁が原因である。中隊長以下幹部協議の上非常呼集をかけ、出動八路軍との戦闘で戦死扱いとし、二階級特進陸軍兵長としたのである。これが自殺となれば中隊長自身の進級にさしつかえるからである。
ある時は列車警乗の任務についた事があった。唐山、山海関までの朝鮮銀行の現金輸送の警乗勤務で、下士官以下六名で列車の中では酒食のもてなしで、交替で車窓から外を警戒するが、しかし何時列車襲撃爆破があるやも知れず不安の連続でしたが、無事目的地山海関到着。警乗交替一同ほっとしました。そして万里の長城の入口まで見学して中隊へ帰った事も、よき思い出となりました。
それから、八路軍捕虜の処刑があり、中隊長が私達初年兵全員の前で斬首。これはとても残酷でとても見てられない光景である。
昭和十八年、警備交替で中隊は天津市に駐屯。ここで十七年兵が入隊。やっと二年兵となる。ここ天津市は電灯がつくし、今まで奥地でランプ生活からやっと人間らしき生活になった。
昭和十八年八月、部隊は南満錦県へ移動。やがて十八年兵が入隊。三年兵となる。
昭和十九年三月、支那大陸縦断作戦行動。これから終戦まで北支から南支まで実に一年半に及ぶ戦闘で、糧株の補給、医薬品もなく、食糧は現地徴発を食べたのが多かった。多数の戦友、軍馬も倒れ、戦死者より栄養失調の死亡者が多いのも事実です。
常州地区で抑留生活。二十一年三月二十日、上海で私物検査の後、出航、二十二日博多上陸。従軍証明書、国鉄無料乗車券、現金三百円が支給された。博多小学校で抑留地常州から持参の蘇州米で飯を炊き、東京行の夜行列車に乗る。当時、博多、東京急行券十円。所要時間二十五時間であった。
船橋駅下車、京成踏切を渡る街角で、映画「愛染かつら」宮下館上映のポスターをながめながら、懐かしの我が家へと。二十三日夜十時頃でした。
四年四箇月の大陸での軍隊生活作戦行動中負傷せず、ただ支那特有のマラリヤには閉口しましたが、入院する事なく無事復員出来た事が、私の最高の喜びと思います。
終りに、大陸で戦死、戦病死された方々のご冥福を祈る次第です。
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