「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録21
日中事変に出征して 高橋久雄(藤原町・76歳)
私が召集令状を受け出征したのは昭和十二年九月まだまだ残暑の頃でした。中国との戦いが勃発北大営の戦闘以来五年目だったと思います。
日本陸軍は勝った勝ったの連績で負ける等の悲壮感は全く無く万才万才と在郷軍人、国防婦人会町内会の人達等々に見送られ、腹の大きくなった新妻を残して出征しました。
私が入隊したのは近衛歩兵第四聯隊、今の神宮球場の門と営門が向かい合って居ました。
半年間ここできびしい軍事教練を受け代々木の練兵場への行き帰りはシャバの浮世がうらやましく思ったものでした。四カ月の教育も終っていよいよ出征家族との最後の別れも営庭で。兵器は一切現地支給で剣だけは腰に。軍用列車で品川から西へ。広島の民家に一泊、兵隊さん兵隊さんと手厚いもてなしをしてしてくれた家中の人達の真心が思い出されます。
博多の港から軍用船に乗り、たたみ一枚に五人、装具兵器は一切現地で支給される手はずで特に持たせなかったが横になる余裕は全くなく座って眠る有様でした。船内生活十日間平時であったら二日で揚子江から江湾迄ゆっくり上陸できる旅程でした。
江湾の兵站宿舎に入りここで一切の兵器が支給され、弾薬手楷弾を手にしていよいよ戦場との感を深めました。ここから上海の鉄道兵站迄行軍の途中、子供や住民からの敵対行動もなく意外な平穏さに安心いたしました。
上海から南京迄は鉄道輸送で一昼夜。高い城壁がそびえ立ちさすが南京城と圧迫を感じました。ここの兵站宿舎に一泊、揚子江を船で対岸の浦口へそれから中国第一の鉄道津保線で北へ北へと進んだのですが此の時点でも吾々兵隊には何処へ行くのか一切知らされませんでした。貨物列車ではなく客車であったので幸いでしたが、窓は全部〆切り兵員の輸送が敵側に知られない為の配慮でありました。
車窓からかい間見る外の光景は行けども行けども平坦な広い畑ばかり、列車にのって三日目にやうやく済南につきここで小休。翌日列車は更に北ヘ田村部隊の任地徳洲(徳県)に入城した。津保線中済南に次ぐ大都市で街全体が城郭の中で商店が竝び活力のある街でした。ここに我が田村部隊本部がおかれ、此処迄来て始めて吾等兵士に田村部隊と知らされ、津保線鉄道の徳県地区を警備する鉄道守備と住民の安全を守る部隊であることを知らされました。私が所ぞくする鹿野隊は徳県の北方天津寄りの桑園(吾々はソーエンと呼んで居た)と云う町に宿営して津保線鉄道の警備に当ると云う事がはっきり知らされました。
桑園は徳県の北三十粁農村地帯のまん中に在る小都市で政治、商業、農業の中心地でした。街の周囲を高い城壁でかこみ東西南北に城門がありいつも中国の保衛団の歩哨が立って居て、駅は南門の前五十米。吾等守備隊は駅舎に宿営し警備の歩哨は昼夜交代で駅ホームから駅前商店迄巡察昼夜を分たず緊張の連続であった。
当時山東省にあって一番強力な敵は八路軍で日本軍の目の届かない奥地や農村を廻って税金(吾々はそう云って居た)を集め食料を徴発、良民を苦しめ更に日本軍に敵対鉄道や橋梁の爆破電話線の切断等々吾が日本軍にとって一番うるさい敵であったのです。
桑園駅のホームに二基のトーチカ、二人の歩哨が昼夜監視敵襲に備へて監視態勢をとって居ました。然し敵は中国最大重要な此の津保線鉄道に爆破や電話線の切断と度々挑戦してきた。勿論夜間のことで吾警備隊はモーターカーを使って監視警備を強行するのだが間𨻶をついて爆破される。電話線の柱が何十本も切り倒され、其のために列車が不通になって駅には出かせぎの苦力があふれフトンにくるまった苦力がゴロ寝野宿をする。安宿に泊まれるのは金持ちである。工兵隊の修復作業が終わるまで列車は全くの不通になってしまうのであった。
そこで部隊長はじめ軍首脳が協議の結果、鉄道沿線の部落農村の住民、特に若い青年をかり出して教育することが八路軍を追放する唯一の方法と結論づけ、中国青少年の教育にふみ切ったのであった。
其の方法の一ツとして鉄道守備と鉄道交通の安全を日中共同でおたがいに協力し合って鉄道輸送の安全確保に協力、特に青少年を動員教育して列車の安全運転を促進して、津保線鉄道の安全な運行をはかるべしと吾が軍首脳と中国保営団とが協議一決したのであった。
其の第一手段として中国青年を教育することになり日本の青年学校と同じ方向で日軍が指導教育、先ず若い人青年を集める。そうして教育訓練をする。中国青年を教育することになっても誰が其の任につくのか教官になるのか、むつかしい日本の青年学校の指導と同じ仕事をするのであった。
部隊長命令で沿線各町村の町村長に青年学校の生徒を何人出せと命令の様な通達がくばられた。そこで私共兵員の中から中国青年を教育する教官が選出されることになったのである。守備隊長からこのことが発表された時言語の異る青少年をどうして教育するのか、むつかしい事になった。
守備隊長から発表が有って「將校一名下士官一上等兵四名以上が青年教育の教官を命ずる」私の名前もこの中にあった。唯通訳が一人つくとの事で少し安心しましたが、俺に出来るのかと誰もが顔の色が変わったのでした。
ただちに守備隊長名で鉄道沿線の部落に村長集まれの命令が出され、城内の会議所で会議の結果、青少年を集め訓練することに同意してくれたので、隊長はじめ係り一同ホッとした思いでした。
中国青年を集めて何を教えるのか全くのめくら同然、不安ばかりで仕方がない。何とかなるさ、そんな気持でした。
桑園駅前に麦を苅り取った広い空地が在って、其の広場で教練をやると隊長は張り切って居た。集まれの通知を出して三日桑園駅前広場でぞくぞくと青少年が集って来た。十二、三才少年から三十過ぎの大男、苦力服の子供、中国服の大男、ビッコの障害者迄百人余り。分隊編成の結果各班四十名づつ四班百六十人でした。
通訳が命令を伝達してくれ一、二、三、四、の各班に人数を分けそれぞれの位置に班ごと整列させる。各班の教官を通訳が紹介し第一は高橋、第二は中村と、教官の紹介が終わった時迄で午前の教練は終り、明天来々でこの日の教練は終わりました。通訳が居たから何とかなったものの、吾々だけでは全く教練どころか集れさえ出来なかった。
午后は警備、夜間は鉄路の巡察弾薬一二〇発、手榴弾二発はなした事はありませんでした。列車の発着でにぎわう桑園駅もいつ敵の襲撃を受けるか油断は出来なかった。そして其の夜は鉄路の巡察モーターカーで寒風を切って許官庄迄さいわい此の夜は無事でした。翌日朝九時日軍は内地と同じ時刻で生活九時と云っても一時間余り早いのである。ホームに立って昨日教練した広場を見て居ると三人の生徒が来て手を振って居た。「快々的」早いなーと云ったら「好々」、私はうれしくなった。日軍は大陸にあっても内地と同じ時間で行動して居た。
三人の生徒が二時間も早く来てくれたのである。早速私も身支度をととのえ広場に出て行った。高橋、高橋、と云って集まって来た。昨日半日だったがよく覚えてくれてうれしかった。十時全員集合、作天と同じ人数が集って十時全員集合大成功。とに角人を集めるのが大仕事だと思って居た。各班ごとに集合、分隊を間違る生徒もなく有難う。教練など全く経験のない人達ばかり、喜んでいる様子がよくわかる。
各個教練「前へ進め、右向け右」、やる方も大変ならやらせる方は尚大仕事だった。
三日目の事。私は毎日同じ教練ばかりではあきてしまう、何か変った方法は無いかと思いついたのが小学校の運動会である。ようしあれをやれ、第一班集合の命令に全員集合、通訳を呼んだ。これから運動会をやる。皆一生懸命走ればよい。二組になってどちらが早いか競争する。負けずに走れ、と四十人を二組に分けた。用意ドンで五十米先の竹棒を廻って来ればよい。次の人も又同じ、最後の人が早いほうが勝ち。簡単なルールなのですぐ呑みこめた。「用意ドン」ウワーッと喚声が上がった途端にほかの教練がストップ。一班の競争に声援を送って手をたたいて喜んで居る。大成功、これがよい、これでいこうと各班それぞれに思い思いの種目競技が行はれました。五回目のこと隊長殿から高橋上等兵を呼べとのこと、何事かと急ぎ「高橋参りました」「明日の教練だがお前達が色々と変った教練をやってくれるので生徒も村長も喜んでいる、御苦労であった。明日からは精神的な教育をやってくれ、教科書有る訳でなし大変だと思うが通訳を通し話してくれ」と精神教育の大切さを俺もやるからと真剣に話された。
明日からやれ、通訳を使ってよし、今夜の巡察は行かなくともよい。驚いた。教練で苦労して居るのに学科までとは、私は頭をかかえて班内で寝込んでしまった。
召集令状を受け、鉄砲をうつことは教ったが学校の先生のことは何も教はらなかった。兵隊とはなぜこんな苦労をするものか。
翌日教練の方は一時間で終り学科となった。昨日隊長から云はれたとおり日本で云へば修身の時間である。広場の片すみに大きな物置らしき建物が在り、そこが教室に使はれた。生徒はこもを敷いて座り正面まん中にテーブル演壇である。隊長と教官は木のイスで両側に座り、通訳が「今日から学科をやる、よく聞くように、先生は高橋先生だ」と紹介してくれ、教練で五日間友だちの様に遊んだので落着いて話をすることが出来「中国には仁義禮智信」と云って非常に礼儀の正しい国民であると日本の学校で教へられて来た。今回私は其の中国に来ることが出来て誠にうれしく思って居る。体操も教練も諸君が一生懸命私の号令通り動いて上手だった。日本の青少年と同じ体操も出来たし皆元気だ。」と云った様に思う。一くだり話すと通訳が訳し一時間以上話したと思う。
今天はこれだ終り私はホッとした。学科をやれと云はれ何をどう話たらよいのか全く言葉の通じない生徒諸君に何をどう話すやら全くわからなかった。召集され戦場にあって中国の青年達と共に語り友情を深めたことはほんとうに幸せだったと思って居る。
八路軍の我が方に対する攻撃鉄路破壊は止むことなく警備隊をなやませて夜間の出動が續いて居た。歩哨以外の兵員も靴をはき巻きゃはんを巻いて眠る毎日でした。こんな或る夕、八路軍の0隊が桑園南方の東宋門と云う部落に入ったとの情報が入り、警備隊は哨兵だけをのこして東宋門に出撃した。二度巡察に行った事があり中国人が道案内をしてくれたので迷うことなく目ざす東宋門につき、暗やみの中に門らしき建物がかすかに見えて来た。「待て」と隊長の命に一同伏せて耳をそばだてたが何もなし。部落の中にはいろうと立ち上がった時、バタバタと足音がして「ヤー」「ヤー」と大声で叫ぶ通訳が敵だと云って逃げ出す。五、六米先に人が居る気配。隊長が「ウテー」同時にダダン。味方から一斉に発射、同時前方の暗闇からも真赤な火花が吾方に走った。耳がガーンとして何も聞えず味方の投げた手榴弾が爆発して頭も耳もガーンとして全く生きた心地がなかった。手榴弾の投げ合いに長居は不利と、引上げ引上げの声。全く夢中で隊のあとを追いました。鉄道線路の上迄引上げて各負傷者のない事をたしかめ一同唯々無音で帰隊しました。鉄道線路の中に地雷を仕かけることもしばしばでモーターカーの通過時に爆発して負傷することもまれではなかった。
桑園での警備も慣れた或る日、隊長に呼ばれ「高橋参りました」「桑園鎭の町長から招待されて今日午后に行くから一しょに来い、帯劍をして」とのこと、何に行くのか俺一人らしいが何かの交渉だろうと思って時刻に行くと、「桑園鎭の町長に呼ばれて行く、一しょに来い」隊長殿の供をして南の城門から父親母親子供達に今日は今日はと迎えられ、役所につく門番が居て先生来々と迎えてくれた二階建の大きな建物で広い室内に丸いテーブルが置かれ、来客用と思はれる部屋でした。やがて町長さんが見えられて先生来々とかたい握手、私にも握手をしてくれました。通訳も来てテーブルに付き後から後から出る出る。まん中に豚の丸焼き、見た事も無い中国料理が次々と並べられ甘口だからとすすめて呉れた老酒も下戸の私にはなめるだけの情けない有様でした。酒をすすめるには中国ではよくジャンケンやゲームをやり負けた方が呑む。日本と同じです。テーブル山盛りの珍味も食べたのは僅か、隊長と町長はよく話し笑って居ましたがお酒は十分自戒していた様子でした。多謝多謝厚く礼を述べて帰ったのが四時出征中唯一の思い出です。宿舎に帰って、又今夜も巡察、許官庄迄行かなければならない、そんな事はうその様な城内の賑わいでした。
部隊本部との連絡は週二回公用で非番の誰かが徳県の本部まで命令受領に行きました。帰りに大きな袋一パイの書類命令受領と内地からの、それも家ぞくからの便りが入って居ました。これが一番の楽しみ、一人一人呼ばれて渡される封書、どんなに兵隊の心を慰めたか今も思い出されます。
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