「平和の尊さを伝えたい」原爆の記録04
原子爆弾による被爆体験 山本 義太郎(坪井町•67 歳)
昭和十九年四月一日、満州第七二五〇部隊現役兵として青森屯営の東部第九十三部隊に入営、同年四月二十九日、東部第九十三部隊要員となる(通信兵)。
同年十月一日、津田沼屯営の東部第八十六部隊に転属。同年十二月十二日、東部一三三五部隊に転属(鉄道兵)。昭和二十年一月十四日基本配置位地広島著(広島市楠木町)。
同年七月二日、呉駅附近空襲被害応急復旧工事支援。同月五日作業終了帰隊する。
同年八月五日夜から五日早朝迄、アメリカ側爆撃機の連続して接近で「空襲警報」の「発令」と「解除」が頻発し、市民はもとより我々軍隊内でも警報に対する即応態勢への気の緩みがあったのでわないか。我々も「総員起こし」の状態が続き、皆一睡もできず夜が明けました。此の日は早朝から快晴で暑い日でした。午前八時、朝礼始まる八時五分頃アメリカの爆撃機飛来あるも警報の発令なく、朝礼は続行中の八時十五分頃青白い閃光が私の東部右上空より走ったのです。
一瞬、普通の爆弾か焼夷弾の直撃と思い両手で両眼と両耳を覆い地面に伏せました。一呼吸、二呼吸、数呼吸後、身を起し我が身の被害状態をみると、先づ目が両方共見える大丈夫だ。頭の後頭部から背中、両腕共鈍痛あり、やられたと思い、戦友は同僚はと見ると、唯顔前は白き霧に覆われて何物も見えない。営庭の端の防空壕に避難しよう思い、そこに行くと数多くの同僚が避難して、熱い熱いと叫び乍ら中に溜まっている泥水を傷口に浴びせている。それを見て、自分の階級を忘れ「馬鹿者、泥水を浴びたら細菌がはいったらどうするんだ。此処を出て太田川の川原に避難しろ」と一喝、二喝して皆を避難させました。後で上官より「お前は大した奴だなー。俺も慌てたからなー」と。(当時は自分の階級は上等兵、上官は大隊長の中佐)
川原に避難して周囲を見れば、我等が兵舎は無残な瓦礫の山となり、市街の東端より燃え始めている。川向うの広島陸軍病院も、もうもうたる黒煙を挙げている。市内の所々から火のてが天に向っている。そのとき黒き雨が降り出す。一望のもと市街地に住居はなく唯遠くでサイレンの音がする無気味な静けさ。避難する住民は唯もくもくと傷を受けた者同志を労りあい乍ら、そうした中我が兵舎は勿論附近一帯は猛火に包まれてゆく、夕闇せまる頃私は、予期したように全身から力が抜けてゆくような気持、後頭部、背中、両腕の皮膚はだらりとたれ下り、血がところどころから吹き出る。「オイ大丈夫か気をしっかり持って、皆んな少かれ多かれやられているんだ。頑張れや頑張るんだ。」と励ましの声もうつつに。
周囲を見渡せば日中燃えた猛火も消え、ところどころ燃える兵舎は今は燃え盡(つ)きた跡ばかり、「あの青い閃光をともなった爆弾はなんだろう、此の広島を一瞬にして灰とした。」奇怪な巨大化学爆弾か?
ふと川面を見る。対岸の病院から舟で避難した負傷者であろう。何処へ目を右側の道路へ爆傷を受けた人々の群れ、我が子我が親を兄弟姉妹を探しているのだろう。唯黙々と、噫
黒き両我が傷口を流れゆく
一夜明け、救援の人々来るも顔をそむける人の多いことよ。それでも我が隊で、軽傷の人々で仮医務室を設けて、市民兵隊を問わず収容し治療する。医者も衛生兵も受ける一般の人々、兵隊も皆一様に爆傷を受けている。お互い泣き乍らの治療である。
天も泣け神仏おれば来見よ
負傷者は三段階に分けられる。重傷は青の名札に記名、軽傷は青半白半の名札、軽傷は白の名札とする。
仮医療室に入室後二日目で重傷者は、呉港沖の似の島の軍病院に入院することになり、歩くことの出来ない私は担架で運ばれ、トラックに乗せられて呉港に向う、視界に入る状況は悲惨の字のように瓦礫の山と死体。ところどころで死体を焼いている異様な死臭。皆一様に黙々と作業している。救援の人々と負傷者で不明の人を探しているだろう。火傷した幼児にこれまた負傷した母親が乳の出ない乳房をふくませている。死体を抱いて泣いている。これまた負傷している若い女の人。なんとも異様な光景。川面には死体が流れてゆく、地獄だ。此の世の生地獄だと。けれど今は戦いだ。戦争なのだ耐えなければならないと一瞬思う。
似の島の軍病院での治療は薬不足という状態で「赤チン」だけ、重傷者が次々と運ばれてくる。病室は五十人収容のところ八十人で板敷で、余裕なし呻く叫声、無意識で叫ぶのだろう。母を呼び、父あるいは兄弟の名そして異様な声断末魔そして絶命、俺の右側の人を軍医が来て簡単な検視で死体は運ばれてゆく、向いの人も、左側の人も次は俺かなと思い、ふと今迄の人生を思う。戦いの為に生れきて戦いに死んで行く俺の人生か入隊のときの歌。
吹き荒ぶ嵐に向い我は征く 鶯の鳴く里を夢みて
うすらうすらと微睡(まどろ)む、幼き日の俺の町だ四方の山波うす紫に霞み道路の両側は四季の花咲乱れ蝶が乱飛びかい、何処からともなく妙なる音楽の響き陶酔した気持で唯一人とぼとぼと道を行く我、行手に大いなる川あり。川幅は三寸ぐらいの流れ、架かっている橋は太鼓橋。川の土手に上り向岸を見れば誰やら我を呼ぶ声がきこえ、早く橋を渡ってくる様にと。すかさず渡ろうとすると橋の袂に立っていた法師に呼びとめられ「お前はこの橋を渡ってはならない。急いで戻り帰りなさい。」というなり我を抱き「もう大丈夫だ、安心してかえりなさい。」と、ふと目を覚す。朦朧として瞳
を明ける「目を開いた。意識が戻った。」と看護婦さんの声「よし、よかった」と軍医さんの声。私は八月十一日、午後八時頃より意識を失い、同月十三日早朝七時に最後のカンフルを注射したところ意識が戻ったとの事。助かったのだと思うと、なんだか嬉しくなり有難うの声も感謝の気持で一杯でした。
入院以来包帯の取替は無く化膿した傷口は疼き全身がぼーとしている。ふと額からぼとりと落ちたもの、何かなと思いよく見るとそれは「蛆」。蛆だ蛆だと大声をあげると、近くで患者の治療していた看護婦さんが走り寄り、頭部を調べていたが突然「頭の傷口全体に蛆が発生している。どうしよう。」と言うなり急ぎ医務室に入って行った。と軍医が出てきて頭部、背中、両腕と診察していたが「傷口全部に蛆が発生している。すぐに消毒し包帯を取替える」と言うと頭部から始めた。消毒液をバケツに入れ、何倍にした液をタワシのようなもので患部を洗い流すように蛆をとり、背中、両腕と行い、両掌を診察していた軍医が突然「これはどうしたんだ。掌の皮膚が熱風で溶けて密着して蛙の水掻のようだ」と言いながら治療しました。後日この水掻のようなものを、私が自分で手術して元のようにしました。食欲もだんだん増して、同月十五日、午後一時頃と記憶していますが、軍医が大声で終戦のことを伝えてくれました。
そうこうしているうちにも私の病室の入院者の死亡は続き、一日平均三人位の割合でした。同月二十日我が隊を解散するということで原隊より迎えの兵三人来り、歩けない私を三人でささえ退院され原隊に帰りました。同月二十六日午前八時解隊式を行い、私は同僚に連れられ広島駅で丁度大阪行の列車があり、同僚共に東広島を出発しました。
何時死亡しても不思議でない我身、唯唯一目親の顔を見るまではの気力で両親にいる家に帰りました。全身を血膿の滲んだ薄黒い包帯、ところどころから蛆のしたたり落る我が身を見た両親の思いは如何でありましたろう。
戦争は残酷だ。悽惨だ。総べてを破壊し大量の殺戮だ。愚かな行動それは戦争だ。戦争は絶対に避けるべきだ。如何なる事も交渉に委ねるべきだ。戦争なき平和こそ人類の願望なのだ。
夢にみた平和な里はこの坪井 坪井の里で鶯ぞ啼く
以上私の戦争、原子爆弾体験とします。
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