「平和の尊さを伝えたい」原爆の記録03

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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広島原爆と私  刀禰 智(前原東•70歳)

 昭和二十年八月六日、この日は広島に原爆が投下され、我々日本人にとって永久に忘れる事の出来ない日であります。私はその頃、広島で船舶砲兵の幹部候補生として日夜激しい訓練の毎日を送って居り、たまたま陸軍予備士官学校入校前の身体検査で血尿が出て、休養の為七月二十五日頃、広島陸軍病院に入院を命ぜられて入院いたしましたが、もともと元気でありました為、入院場所を本院から広島郊外の安佐(あさ)郡飯室(いむろ)村の小学校に移されました。七月の末頃、暑い最中をブツブツ言いながら、七里の道のりを徒歩と軽便鉄道の様な列車とで移動しました。山奥になる程に綺麗な渓谷のあった事を覚えています。
 移動して間もなく身体検査があり、退院を命ぜられ本院に帰る班が八月四日と八月六日の二班に分けられ、私は八月六日の班に入れられました。
 八月四日に帰院した戦友は爆心地であった本院で、当然の事ながら気の毒にも全員帰らざる人となりました。さて八月六日、私は本院に帰る準備の為、朝から裏の小川で洗濯をして居りましたが、その時突然ピカッと光り、大きな音響と共に地響きを感じました。そして間もなく南の空に例のキノコ雲が見え、やがて川に居る私共の上にも、黒い煤煙の様なものが降って参りました。半裸の私は何か解らぬままに、体についた汚い灰の様なものを川で洗い落として宿舎に帰り、迎えのバスを今か今かと待って居りましたが、さっぱり姿も見えません。そうこうするうちにどうも様子が変なのです。どうやら広島が爆撃で壊滅に等しい情況だと言う情報が入って参ります。さっきの、たった一発でそんな馬鹿な事があるものかと半信半疑でしたが、それはほんとうだったのです。暫くするとトラックで火傷や怪我の軍人や民間人が、ぞくぞくと我々の居る所に運び込まれて参りました。我々は帰院どころでなく俄の衛生兵となり、薬も無く医者も居ない臨時病院で看護の毎日が始まりました。治る見込もなく、ただ死を待つばかりの患者を目の前にしてやるせない毎日は、何ともはや今でも忘れる事の出来ない悲しい思い出です。死を目前した母子の情愛やら、耳が聞えないと訴える兵隊の耳には火傷から出る膿の中に蝿が卵を、そして蛆になり見られたものではありません。又我々の目前で遺書を巻紙に筆で堂々と書いてそれを人に託すや、泰然として眼をとじた立派な昔の武士をまのあたり見る様な思い等々、ほんとうに限りはありませんでした。
 その後、私は終戦の詔勅をこの臨時病院で聞き、原隊にも帰らずそのまま復員しましたが、昭和二十一年の五月頃でした。母宛に「ご子息智殿は、昭和二十年八月六日広島に於いて名誉の戦死を遂げられ遺品、遺書は無きも・・・云々」と私が戦死した旨の公報が届けられました。本人は生きて既に会社勤めをして居りましたので、早速に訂正のお願いをした次第ですが、沢山の亡くなられた方々に改めてご冥福の祈りを捧げました。あれから早や、四十余年が何時の間にか過ぎました。記憶が薄れないうちにと筆をとる気になりました。

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