「平和の尊さを伝えたい」原爆の記録02
夫の遺した原爆の句 白須 寿枝(南三咲•65 歳)
夫、故白須冨治雄(昭和六十三年一月死亡)は、昭和二十年原爆が広島に落下された当時、広島地区鉄道司令部参謀部の鉄道兵科将校として、原爆落下直後の応急復旧、並びに患者輸送等に活躍致しました。
八月六日八時十五分。原爆が落とされた前日迄、一週間当直司令として広島司令部に勤務、当番が一日ずれていましたら生と死の分かれ目だったと、運命の不思議を感じます。
原爆落下後、広島司令部より伝令の報告を受けると救援の為、廿日市(はつかいち)を出発、十一時二十分広島に到着致しました。(伝令の方は報告直後死亡。)
其の時キノコ状原子雲を見る。残留放射能雨降る。と、書き残してあります。直ちに広島地区鉄道司令部の戦闘司令所を、駅前に開設任務に当りました。当時の地獄絵さながらの模様や写真等資料記述を、私も何度か見たり読みましたが、自分で実際に体験し生き残られた被爆者の方々は、一生忘れる事の出来ない苦しみをかかえ生き抜いてこられた事でしょう。ぼさぼさの乱れ髪、上半身裸、裸足の儘で子どもの名前を叫び乍ら走って行く女性の姿、毎年終戦記念日の頃になると、当時を思い起しては生地獄の様を私に話してくれました。死の灰をあびていた為でしょうか、あれ程健康だった体もしらずしらずの間に白血球が減退し、晩年は呼吸をする事さえ困難となり、六十六才で病没致しました。満州、支那大陸へ渡ったり、東京空襲にあったり、原爆落下後一番乗りで駈けつけたり、三度も危機にあっても不死身だと自慢していましたが、とうとう人生を終ってしまいました。病床であの当時の事を思い出して、俳句らしい句をメモ書きしているのが、遺品の中から見当りました。原爆のすさまじさは、到底言葉には言い尽くせないと申していましたが、本人にしか分からない実感を、短い句で表現したものと思われます。生前、常日頃死ぬ迄に原爆の体験を一冊の本にまとめたいと言っていましたので、せめて遺していた句だけでも、例え俳句の形でなくても、精一杯の表現にしたものを此の機会に発表させていただき、主人への供養になれば幸いです。
一、ピカドンに軍刀の柄(つか)打ならし
二、死の灰と知らず駈せゆく原爆(ぴか)の原
三、原爆に 一番乗りし 広島の駅
四、やけ野原 ここが司令部 焼炭でかく
五、戦友の 骨を拾わん 原爆(ぴか)の中
六、茸雲(たけぐも)や 瞬時に鯉城(こいじょう)形(かた)もなし
七、炎熱に 修羅(しゅら)のあり様 地獄の絵
八、原爆の直後に魚(さかな)も浮き上がり
九、火煙雲(かえんぐも) 修羅の声今もやきつく
十、火煙雲 阿鼻(あび)修羅の声 永久(とわ)に消せ
(註、当時落とされた爆弾の名が分からず、世の人はピカドンと言った。)
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