「平和の尊さを伝えたい」原爆の記録01

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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悪魔からの勲章   提橋 福太郎(夏見台•64 歳)

  この記録は、敗色濃い太平洋戦争末期、米機が投下した原爆によって、私が受けた被災の記である。
  昭和二十年八月五日夜半、空襲警報のサイレンが鳴り響く。
  当時私は十九歳、広島市皆実(みなみ)町の船舶通信隊補充隊暁第一六七一〇部隊フ隊(第二中隊)第七班に在隊し、兵舎一階の中段で北側窓辺から二番目に起居し勤務していた。
 手探り同然の暗いなかで素早く身仕度を整え、兵舎前に整列する。おしつぶしたような低い点呼の声があちこちで聞こえたあと静寂の時間が流れる。
 ややあって「待機」の命令がでる。
 かなりの時間がすぎて空襲警報解除となり待機体制もとかれる。兵舎にもどって寝床に入る。「山陰(さんいん)がやられたらしい」の小声の話が耳に入る。
 翌八月六日、起床、点呼、朝食と平常どおりに始動したあと、昨夜の空襲による呼集で当番以外は、午前十時まで仮眠の特別命令がでる。
 今日も晴天で朝から気温があがっているらしく暑い。汗ばんだ身体を藁布団のうえに投出し目をつぶった。すぐには寝つかれず目をあけてぼんやり窓の外を眺める。
 遠くで週番下士官殿が「早く寝ろ」と怒鳴りながら各班を巡回している声が聞こえる。就寝しないで無駄話でもしていた者達が注意されたのだろう。
 何分かが過ぎた時、突然「パッ」と窓の外一面が真っ白にまぶしく光った。その瞬間、青白い大きな火の玉が窓から飛び込んできて私の左膝に噛つき「バチバチッ」と音をたてて燃えだした。「アッツツ」私は咄嗟に左手で火の玉を払いのけた。膝の皮がツルリッとむけて手のひらにくっついてとれない。大音響と共に北側の板壁が倒れてくる。長い梁が目の前に物凄い勢いで「ズズズズッ」と落ちてきた。屋根が抜けたのか物凄い量の瓦や板切れが音をたてて降ってきた。反射的に下の床に飛び降り、土ぼこりで辺りが見えない中を手探りで壊れた板壁の間に身を寄せる。
 すべてが一瞬のうちに起った。
 何が何だか判断がつかない。人の気配が全くない。戦友逹は一体何処へ行ったのか。
 一呼吸してから倒壊した兵舎から営庭に抜け出る。近くには誰も見当たらない。
 広い営庭の向う側で大勢の兵隊達が右に左にかけまわっている。銃をさげ鉄兜を背負い本部の方に四、五人がかけてゆく。医務室の周辺には血だらけの者や体に敷布を巻きつけた負傷者達が群がっている。
 誰かが怒鳴っている。声がかすれて言葉がわからない。「比治山に退避しろ」と言っているようだ。比治山は裏門からすぐだ。中隊別の壕には無線機や機材が収容してあり、警報時は避難場所となるところだ。
 裏門は先程の爆撃で破壊され自由に出入りできる状態だった。
 裏門と比治山の間に道があり市民の人達が避難してゆく。三々五々かたまりながら列となって続いている。荷物も持たず皆んな裸足だ。着ているものは泥で汚れボロボロに破けている。裸同然の人ばかりだ。顔の皮がむけて顎の下にたれさがったままの人。広げた両手の皮膚が長くたれている人。死んだように動かない年寄りをリヤカーに乗せてゆく人。乳のみ児を抱き放心したように幼児をつれてゆく母親。誰も何も言わない。何時までも続くこの人達の間をすり抜ける。
 比治山の壕に行く坂道の入口で「おい、そこの兵隊」と下士官殿に呼び止められる。下士官殿は足元に負傷して倒れている方(かた)を指差し「軍曹殿や曹長殿に日が当たらぬよう日陰を作れ」と言われ敷布を投げてよこした。言われたのは私の他にもう一人いた。ここは壕を掘った時に出る細かい砕石の捨場で、支柱にする棒らしきものは何もない。二人で敷布を広げ引張りあう形で日陰をつくり、そのままの格好で立っている羽目となる。
 まわりには負傷した二、三十人の下士官、兵があちこちで呻き声を出しながらうずくまり肩で息をして倒れている。その人達の間を壕への坂道を駆け登り、駆け降りてくる各中隊の兵隊がひっきりなしに通り過ぎて雑然としている。
 じっと動かずに立っているだけで汗が背中を流れる。その時市内の上空に入道雲がモクモクと猛烈な勢いで大きくなってゆくのを目撃する。横にも上へものびてゆく。ふと小学校の頃、雲の種類、形を一目で分るように書いて褒められたことを思い出したが、あの雲の中から敵機が現れ、超低空で機銃掃射をしてきたらと考えながら、次から次へと湧き出てくる雲の状態を眺めていた。下層は夕立でも降っているのか真っ暗だ。
 この時、朝からの出来事が頭に浮かんできた。爆撃されて相当な被害を受けたことだけは間違いない。入営前勤務していた会社の亀戸工場が三月十日の空襲で全滅し、先輩友人達が多数焼死した事がここでも現実に、と考えた途端、左膝の火傷がズキンズキンと強烈に痛みだした。皮がむけた火傷痕に泥が付着しこれが乾いてひび割れしてきたからだ。気が付けば火傷のほかに頭、手足に裂傷すり傷が十数力所もあったが、激動の状況下では痛みを感じる暇もなかったのだ。
 敷布を持っている手が疲れ、もう我慢も限度と思った時、下士官殿が他の兵隊を連れてきて交替を命じてくれた。歩き出そうとしたが左足があがらない。傷で膝が曲がらないのだ。左足を引きずりながら砕石の道を登りはじめる。
 フ隊の壕周辺に下士官殿や戦友達がいた。壕に入ろうとしたら、奥から古年兵殿が出てきて「入って来てはいけない」と制止され、入口脇の道端に腰をおろす。
 夕方に少し間がある頃「負傷者で歩行出来る者は集合せよ」と号令がかかる。
 臨時救護所になった仁保(にほ)町の国民学校に移動するためだ。
 足を引きずりながら皆に遅れまいと歩く。
 学校までの途中、蓮の葉が全部片側だけ茶色に焦げていたり、民家の屋根瓦が一様に飛び散っているのが妙に印象に残る。
 薄暗くなった頃学校に着く。定められた二階の教室にあがる。教室には既に市民の人達が避難していて、泣いたり呻いたり傷ついた身体を床に横たえていて、同室の形となる。
 この日は夕食も無く、そのまま床にゴロ寝するが傷痕が痛くてなかなか寝付かれない。
 市民の人達は夜半を過ぎても暗闇の中で、自分達が被災した様子や町の状況などを話し合っている。廊下にいる人が「市内の火事は広がったなぁ、空が真っ赤だ」とひとり言を言いながら溜息をついていた。
 昨夜もそうだったが、今日も朝から胸がむかっとする臭いが鼻をつく。死体を焼いている臭いだと聞かされる。厠にゆくとき二階の廊下から校舎北側を見る。畠の中の細長い堀で死体が焼かれているらしく、うす紫の煙がこちらに向って立ち昇っている。堀の廻りに二、三人が長い棒を持って立っている。何とも悲しい気持になった。
 翌日中隊から救援がきて、起居の場所を校庭東側に移すことになり、横一列に簀子板を敷き、夜は蚊張に入れるよう設営して毛布が配られる。
 火傷痕は化膿して盛り上がっている。蝿が傷の上を飛び廻っていて油断をするとすぐ止まって喰いつく。針で刺されたように痛い。濡れた紙や手拭で覆って蝿から守る。
 火傷は膝関節の上のため、足を少し動かすと生乾きした化膿の塊が割れ中から濃汁が吹き出し、足を伝わって下に流れ落ちる。物凄く痛い。
 しかし、厠だけは逃れることが出来ず、往復のたびに戦友の手を借り、やっとの思いで用をたしていた。この厠への往復で火傷を更に悪化させてしまい、傷のまわりは形がくずれてひろがり深くなったようだ。左膝は真直ぐ伸ばすことができず曲がったままとなる。
 四、五日経過後西端の教室で治療が開始される。戦友の手を借り治療の列に加わる。治療は化膿している傷痕の上に薬がしみているガーゼをのせただけで簡単に終ってしまった。
 自分の場所に帰ってきたが、傷痕に張り付いたガーゼの糸目からは血と膿が入り混じって吹き出てきて、かえって痛さは倍加し膝が重い。
 翌日早目に治療の列にならぶ。衛生兵殿が張り付いているガーゼをひっぱがす。傍らの軍医殿が火傷痕を見て衛生兵に指示する。衛生兵殿は金属器具で化膿箇所を容赦なく手早く削り取る。
 余りの痛さに悲鳴をあげると「ジロッ」と睨まれた。血が吹き出すように流れる。衛生兵殿は二、三種の薬を傷口にぬりガーゼを張り付けて「次」と言った。
 痛さをこらえやっとの思いで自分の場所にもどる。ガーゼは血を含み傷のうえでぶよぶよと浮いてる感じだ。日中の暑さですぐ乾いてひきつれる痛さが襲ってくる。濡れた手拭を血のガーゼのうえにのせ、湿りをもたせて我慢する。
 この頃、口を噤んでいても唇に血が滲んできたり、口の中が血で一杯になってしまうことが毎日続く。出血は歯ぐきからだった。また土ぼこりで汚れた頭の泥を掻き落とすと、泥と一緒に髪の毛がパラパラと抜け落ちる。ハッと思ってもう一度頭をかくと、間違いなく髪の毛が落ちる。病気にでもかかったのかなと思い、人には言はず黙っている。
 八月十五日の朝「正午に重大放送があるので聞くように」と連絡がある。皆緊張した。
 昼前、校庭の中央付近に机が置かれ機器が設置される。時間がきたが雑音が多くよく聞きとれないうちに終わってしまった。放送のなかの「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て萬世のために……神洲の不滅を信じ………」の言葉だけが耳に残る。いよいよ本土決戦が迫ったための放送と聞きとれた。
 だが、周囲の皆んなは戦争は負けたんだとひそひそ話を始める。
放送終了後「持参している操典、写真、手紙など一切を出せ」と言われ、集められて校庭に堀られた穴で焼かれてしまった。
 夕方、重傷者と一緒にトラックの荷台に乗せられ、宇品(うじな)の船舶練習部隊に移送される。
 細長い建物が幾棟も並び、電球が灯いているだけだ。夕食は無い。ゴロ寝となる。
 夜中に軍靴の音が響き、よその隊の兵隊が奥の棟に入っていった。
 「奥の棟に入る人は、爆撃があった日から市内で救援活動をしていた人達で、元気なようでも数日後には原因不明で死んでしまうらしい」と、隣にいる者が話をしてくれる。
 朝になったが何の連絡もなく放置され、治療も無いまま夜となる。今夜も昨夜同様軍靴が奥の棟まで響いていった。寝つかれず朝になる。
 治療がなかったため、傷の膿が一面に盛り上がってしまう。
 朝、名前を呼ばれ別の棟に移される。南側に窓があり畳が敷いてある明るい建物だ。
 棟の突当りの廊下で治療がはじまる。渇ききった膿の上から油系の薬をぬってくれる。痛さは感じられなかった。棟全員の治療が終ると医療班は別の棟へ移動していった。
 十日ほど経過。火傷痕は一向によくならずかえって悪化しているようだ。化膿している層が厚くなり、なお深くえぐれてきた感じがする。
 五、六日経過。部隊の情報が入る。
 「近いうちに部隊は解散して、全員故郷に帰ることになるらしい。皆んなと一緒に帰らないと何時帰れるかわからない。病院にいると帰れなくなるかも知れない。無理しても中隊に戻ったほうがいい」「俺が連れてってやる」と、他の中隊の戦友が知らせてくれる。二、三日経過、情報は本当らしい。帰隊するための手続きをとる。
 宇品(うじな)線を利用し部隊に向かう。
 裏門に入り異様な光景に驚く。部隊の建物は一、二の兵舎が外壁の一部を残したほかは総て倒壊しているし、広い営庭にはバラックの小屋が散在していたからだ。
 中隊の小屋を探し、帰隊の申告を行う。
 班長殿は私の傷の状態を見て、休養を命じてくれた。
 この頃、口内出血、頭髪脱落の症状が無くなっているのに気付く。
 九月十一日帰郷当日となる。
 午後営庭に整列、帰郷地別に編成替えのあと、戻ることのない部隊の正門を出て広島駅に向う。駅までの道を戦友に腕を抱えられ黙々と歩く。足が前に進まなくなる。「もうすぐ駅だ、頑張れ」と励まされる。
 駅に到着。夕方ホームに入り長時間待機。貨物列車が入ってくる。帰郷列車だ。場所が移動する。その時、ホームの鉄柱の残骸につまずき転倒、両膝強打、一瞬息がとまる。誰かがうしろから起こしてくれそのまま腕を抱えられ乗車位置まで歩く。軍袴の左膝の中が出血のためか、ぬるりとする。
 有蓋貨車に乗車。班長殿が入口に近い場所を確保してくれる。全員乗車完了、列車が動きだす。ややあって班長殿が帰郷に当り注意事項と挨拶を述べる。これを機に皆の雑談が始まる。左右の両扉を開けたまま、列車は夜も疾走し続ける。明け方に姫路、神戸、大阪と通過、いずれも焼失し瓦礫の山と化している。
 二日目の朝、列車は横浜駅で多くの戦友を降ろし、六郷鉄橋をわたり品川駅に着く。かつて入営の際、この駅から出発した思い出の駅だ。班長殿や戦友と一緒に降車、目と目を合せ頷きあいながら挙手の礼で皆と別れを告げる。渋谷駅で年老いた駅員さんが、荷物を運んでくれる。
 駅を出て左足と荷物を引ずるように十歩二十歩と休み休み歩く。後ろから「兵隊さん」と少年の声がして、私の手から黙って荷物をとり自転車に乗せ「配達(新聞)の途中ですが」と言って歩き出した。少し先の曲り角で別れる。
 家の前に立つ。格子戸の門は鍵が掛かっていた。声をかけると朝食を作っていた母親が飛出してきて、門を開けるなり私に抱きついた。
 母親は私の左膝火傷を心配し、丁寧に治療をしたあと巾広の布で幾重にも巻きつけてくれた。お陰で左足は棒のように曲がらず、終日寝ている日が続く。
 師走の月に入る。えぐられたような傷口の段差は、徐々に肉がつき盛りあがってくる。
 年末に包帯がとれるが、できたばかりの膝の皮膚はひきつれる感じだ。膝を余りまげないで歩行開始。
 年改まり、こわごわと膝を曲げ、正座の練習を始める。
 顧みれば、一瞬のうちに多くの人々を殺傷し、大都市を破壊することができる恐ろしい奴は、悪魔しかいないはずだ。
 その悪魔は、船舶通信隊補充隊暁第一六七一〇部隊に所属していた私を負傷させたにも拘らず、傷痍の勲章どころか、一生消えることのない傷痕を左足に焼付けて、あざけり笑ったのだ。

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