「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録20
キスカ島よりの生還 高橋 東一(宮本・69歳)
日本とアメリカが開戦してまもない昭和十七年一月十日、私は、東京青山の東部七部隊(近衛歩兵四連隊)に現役兵として入隊した。
だが張りきったのもつかの間、入隊後一カ月半ほどで風邪をこじらせ急性肺炎になってしまった。兵役につく前は船橋の理髪店で長く奉公していたため、労働をしていた人達より体力的に劣っていたのかもしれない。
シンガポール陥落のニュースで国中が沸きかえっているときに、ひとり寂しく第一陸軍病院に入院した私は、三カ月後に退院して原隊に戻ってみると、同期の戦友たちは満州に向けて出発した後であった。私の所属していた中隊畑谷隊では、けがをして入院していた重吉という同年兵と二人だけが、軍隊用語でいう員数外になってしまったのである。
その年の十月、私にとっては生死の境目になる重大な転機がきた。そのころ編成を急いでいた北海派遣軍(キスカ島行き)に転属になったのだ。十月の下旬、各地から転属将兵が集まった私たちの部隊は、臨時列車で夜上野駅を出発して札幌に向った。
十月二十七日、札幌の北部第六十三部隊の将兵を加えた北海守備隊は編成を完了し、私は、独立歩兵第三〇二大隊山口部隊第四中隊佐藤隊の指揮班に編入されていた。
十一月三日、明治節に札幌を出発して小樽に向かい、小樽港から輸送船に乗って千島列島の最北端幌筵島をめざす航海についた。その日夜来の雨があがって空には虹がかかり、私たちの前途を祝福してくれているようであった。
「この分だと生きて再び内地の土を踏むことができるのでは………」
と、内心で思ったものである。
北の海を点々と連なる千島の島々に沿い、約2昼夜航海して幌筵島の柏原港に入港した。
上陸したのは午後三時前であったが、まもなく辺りが急に薄暗くなって北の島の日暮れの早さに驚かされた。当時柏原は日本企業の漁業基地にもなっていて、港には多くの魚船があり、陸地には鮭の缶詰工場が二カ所あって働く人達の宿舎が軒をならべていたが、私達はしばらくその宿舎に仮泊し、後に幕舎(テント)に移った。
昭和十八年一月、アメリカ領キスカ島に向かう日がきた。まず一度目は一月十八日巡洋艦木曽に乗船して出発したが、猛烈なシケにあい、九日間荒波にほんろうされて、引きかえし、次は木曽よりも船体が大きい特設巡洋艦浅香丸に乗り換えて再度出航した。このときは好天に恵まれて海上はおだやかであったが、私たち兵士の心中はおだやかではなかった。東に向かって未知の海を進むにつれ、敵の艦隊に発見される危険が増大したからである。
二月四日、遂にアリューシャン諸島のキスカ島に入港した。敵機に発見されることもなく、敵潜水艦の攻撃もうけずに無事到着できた喜びは大きかった。なおこの島は、前年六月海軍部隊によってすでに占領されており、我々は守備隊増強の部隊であった。
甲板に出てみると、湾内右手には浦塩丸、左手には野島丸が海岸に乗りあげた形で放置されており、マストの先端だけを海面から出して沈んでいる船も見受けられた。また、艦尾がちぎれてしまった駆遂艦のあわれな姿もあった。敵の魚雷攻撃と空襲がすさまじいのであろう。
陸地には見渡すかぎり樹木らしいものはなく、丘の岩肌には雪がへばりついて、みるからに荒涼とした景色が展開しており、地の果てを思わせるような寒々とした風景であった。無事に目的地についたとはいえ、この地で果てることになるかもしれないという思いがよぎり、心が重く沈んだものである。
キスカ島に上陸した私達の中隊は、島のほぼ中央に位置する高地の西山地区の守備についた。そこは、前にいた部隊の手でちゃんとした三角兵舎ができており、各部屋にはストーブがあって、使用する石炭も当分の間は大丈夫というくらい蓄えられていた。また、なによりもうれしかったことは発電機があったことである。おかげで、日暮れから消灯時まで明るい照明の下ですごすことができた。
私の任務は中隊事務室の電話当番で、吉岡一等兵と交替でやることを命ぜられた。吉岡は大学を出て大蔵省に勤めていたというが、やはり体の弱い男であった。私たちが新任務についてまもなく、小隊のある兵隊が、撃墜された米軍の飛行機の残がいの中からレシイバーをみつけてきて私たちにくれた。
私は、それを大変なことに利用したのだ。兵舎の屋根近くを通っている陸軍司令部と海軍司令部との直通電話線に接続して、電話の傍受を始めたのである。こういういたずらは、機密保持にうるさい軍隊ではふつう許されないことだが、四方を海に囲まれた孤島のためか、中隊の将校たちからはなにも言われなかったので、私たちは面白半分で続けていた。それが三カ月後には、戦史でも有名な悲劇、アッツ島全員玉砕の経過を傍受することになるのである。
キスカ島の冬はきびしかった。兵舎から一歩外に出ると、冬シャツを着込み厚い外とうを着ている体がこごえた。内地では白一色の景観を美しいというが、とがった山々と千フィート近い台地が多く、険しい地形での白銀は死の世界のようだった。キスカの気象状況は富士山頂附近のそれと似ている。ときたま晴れると、兵士たちがキスカ富士と呼んだ秀麗な山容が見えたが、慰められるのはつかの間、すぐ爆音がとどろいて敵のB24が爆撃にやって来た。
五月十二日、例によって電話傍受をしていた私は、脳天をなぐられたような衝撃をおぼえた。アメリカ軍が我々の守備するキスカを素通りして、アッツ島に上陸作戦を敢行してきたというのだ。通話電文の要点は次のようなものであった。
(1)本十二日〇二〇〇(午前二時)ヨリ敵機ガ間断ナク飛来シテ、シツヨウナル爆撃ヲ行ウ
(2)一〇〇〇 (午前十時)敵ハ両浦岬北海岸ニ上陸中ヲ確認シ、地区隊ハ第1戦備ニツク
(3)敵兵力ハ一箇師団ヲ下ラザルベシ
(4)一九〇〇(午後七時)敵ハサラニ柳岡湾ニ上陸ヲ開始セリ地区隊ハコレヲ撃滅セントス
日本軍は勇敢であった。二千余名の兵力で二万の兵力の敵に対し、最初のころは一歩も引かずに大打撃をあたえたのだ、だが兵力、兵器の違いと、猛烈な爆撃につぐ艦砲射撃の破壊力はすさまじくて次第に劣勢となり、海岸部から後退してサラナ岬の山岳地に追いつめられていったようである。
一度だけアッツ島守備隊を狂喜させたことがあった。五月二十三日午前十一時、日本軍の中型爆撃機十九機が飛来して、敵艦隊その他を爆撃したのだ。全滅寸前の将兵に「これからは友軍機がきてくれるぞ」と、どれだけ希望をあたえたことか察するにあまりあるが、友軍機は二度とくることはなかった。
電話傍受でアッツ島の日々の戦況を知った私は、苦闘する兵士たちの生の声は聞けなくとも、刻々と死に向かう絶望的な心境が思いやられ、いたましさにこぼれ落ちる涙をとめることができなかった。守備隊から最後に発せられた電文の要旨は次の通りである。
二十九日一四三五通信
(1)敵陸海空ノ猛攻ヲウケ、第一線各隊ハホトンド壊滅シ、残存兵力一五〇名トナレリ
(2)コレヨリ後藤平敵集団ニ対シ、最後ノ突撃ヲ敢行セントス
(3)野戦病院二収容中ノ傷病兵ハ、軽傷者ハ自決セシメ、重傷者ハ軍医ニ処理セシム
(4)非戦闘員タル軍属モ兵器ヲトリ陸海軍共ニ一隊ヲ編成シ、攻撃隊卜行動ヲ共ニセシム(生キテ捕虜ノ辱メヲ受ケザルヨウ覚悟セシメタリ)
(5)攻撃前進後、無線機ヲ破壊シ暗号ヲ焼却ス
この後通信はまったくとだえ、アッツ島守備隊は山崎大佐以下二千五百余名全員が、五月二十九日に玉砕したことが察せられた。
アッツ島の陥落によって私たちは敵地深く孤立した。キスカ島は、アッツ島よりも約三百キロアメリカ本土に近いのだ。補給路は遮断され包囲網はせばまって袋の中のネズミのようになった私達は、敵が総攻撃をかけてくれば、アッツ島と同じように全滅することは明らかである。当時の日本軍に降伏はなく死の突撃を選ばなければならない。私達は悲壮な覚悟を決めて、いつ敵が攻めよせてくるかと焦りの毎日を過ごした。
六月も半ばとなると、雪は山と台地の低い方から次第にとけてゆき、その後に現れた枯れ草は、やがて若芽がもえて薄緑色に変わりその緑は濃さを増しながら高地に登ってゆく、そして高山植物が急速に成長して開花する。
七月に入ると短い夏の盛りに入ってくる。海岸近くの平地では黒ゆりがかれんな花を開き台地にも、ピンクの桜草、白い菊、みやますみれ、岩つつじ、立ち藤草など数十種類の草花が咲き乱れて、全島が“お花畑”のような美しさであった。人間は絶望のふちに立たされたときはど感傷も深く、自然の美が心にしみるのであろうか、私にはキスカ島のお花畑が鮮烈な記憶となっていつまでもわすれられない。
北の島の夏の夜明けは早い、日の出は午前一時頃であり、夜が明けるとすぐに、敵機が飛来して、爆撃をくりかえす。日が長いので一日に十回以上にも及ぶことがある。
七月中旬になっても敵はまだ上陸してこなかった。だが、敵艦隊は島からさほど遠くない海域にあり、キスカ湾口では敵潜水艦が、巣といわれるほど多数たむろして日本艦船の出入りを監視していた。一方キスカ島守備隊には高射砲陣地があり、陣地間に道路が作られてトラックや三輪車が行き来する機動性を発揮するところもあるなど、アッツ島よりは、はるかに戦力が充実していたが、米軍のけた違いの物量の前には、しょせんむなしい抵抗に終わるだろう。しかし私たちは幸運であった。そのころ日本海軍が、キスカ島守備隊を見捨てずに撤収させようと、苦心さんたんの努力をかさねていてくれたのだ。制海権、制空権とともに敵の手中にあるから、救助活動は濃い霧を利用するしかなかった。
一度目の撤収作戦は、今すこしのところで霧が晴れたために中止されたが、二度目は深い霧に恵まれて、潜水艦や、敵機に発見されることもなく、艦隊は無事キスカ湾内に、侵入することに成功した。前もって無電連絡をうけ乗船地に集結して待機していた私たちは、助かる喜こびに胸をおどらせながら全員すばやく乗船した。
昭和十八年七月二十九日、巡洋艦阿武隈、同木曽、駆逐艦夕雲外六隻の艦隊は、約五十分間のあいだに、キスカ島守備隊の将兵、五一八三名全員を乗せ、一四三〇(午後二時三十分)キスカ湾を出港。時速二八節で北千島に向け帰還の途についた。帰路も霧のおかげで敵に遭遇することなく、全員北方基地に生還した。
二十二才の若さで北の孤島で果てる運命と覚悟していた私にとっても、実に奇跡のような生還であった。
ちなみに、キスカ島には八月十五日米艦隊が押しよせ、無人の島とは気付かずに狂気のように爆弾と艦砲射撃の雨をふらせ、その後で上陸したが、アメリカ軍兵士を出迎えたのは、日本軍が置き去りにした犬だけであったという。
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