「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録19
従軍の思い出 高橋 シゲ(浜町・70歳)
現在戒厳令下にある中国は私には思い出の多い国でございます。
当時、千葉医大に勤務中の友人から「戦地では看護婦が不足している。」との話を聞き、お国の為に盡しましょうと二人が決心し昭和十六年十月大東亜戦争勃発の時に上海第一陸軍病院に従軍看護婦として志願致しました。
昭和十六年十月十二日に関東地区の看護婦と軍属が東京駅に集合し出発致しました。
見送り人は階段の一番下にロープが張られてホームには出られませんでした。
汽車に乗りましたら車内の窓に黒いカーテンが張られ、薄暗く外の景色は全然見られませんでした。瀬戸内海を通過する時、カーテンの隙間から覗こうとしましたら車掌さんが廻ってきて、見てはいけませんと注意されました。
後で知ったのですが、軍需工場や其の他軍に関係した事柄を敵に知られては困るためスパイに厳重な注意を要したとの事でした。
私達は宇品より乗船し、丁度東條内閣に代った時に玄界灘の荒海を上海に向って航海中でした。日本が勝利を得た時で万歳万歳と叫びながらどこかの港に着き、愈々上陸になりました。そこには、トラックが何台も着いて居り見渡す限り広い大陸続きで建物等は全然見えず、何処に行くのか行先は教えてもらえませんでした。一人一人点呼があり、一台は杭州次は南京行きと、友人と私は登一、六三一部隊(上海第一陸軍病院)行きでした。
トラックに乗りましたが道路は大変悪く、しっかり掴んでいないと振り落とされてしまいそうです。行けども行けども広漠たる陸続き、砂塵で目を開けて居られない有様でした。
暫く過ぎてから建物らしいものが見えてきました。それは破壊された支那の民家で人影は全然見えませんでした。
トラックは部隊の前に到着しました。以前は中国の病院でしたが、戦に敗れ日本軍が占領し上海第一陸軍病院となったのです。
私達は早速勤務につきました。流石に戦地の病院だけに大勢の負傷者が前線より沢山送り込まれてきました。
診断の結果、回復の見込みの少ない患者は内地感想となり、それはそれは戦争の様に明け暮れた私たちの青春時代でした。
内地の病院と違い陸軍病院の規律の厳格さは、比較にはならぬ厳しさでした。始めの三ヶ月は泣かされる事の連続で、兵隊の初年兵教育の様な厳しい勤務振りでした。一緒に来た友達と「燕の様に羽があったら玄界灘を飛んで帰りたいね。」と涙交じり語りあったものです。
自ら志願して海を渡り、甘えて嘆いてばかりでは、あまりにも情け無く、月日と共に気力を漲らせて動き廻りました。三カ月毎に勤務交代があり、マラリヤ病棟より伝染病棟、栄養失調病棟と勤めたが、中でも栄養失調病棟の勤務は気が張りました。
勤務室に帰って来ると「看護婦さん野尻が異常です。」室長からの連絡があった人は、すぐ前迄私が話をしていたのです。飛んでいきましたが、もう脈は取れず、容態が急変していました。
油断のならぬ恐ろしい職場でした。大部屋十二人の患者にリンゲル(食塩注射)を畳針の様な太い長い針で、痩せ衰えた大腿部の両方にした後を熱いタオルでよく揉んであげるのです。心を鬼にしての看護といえませう。
中にはお腹がすいて我慢出来ず、夜中に廊下を這って配膳室の鍵をこわして入り残飯を手づかみで盗んで食べ、その翌日には死亡する患者が何人も居りました。死んでもよいから有形物を食べたいと我儘を言う、それが栄養失調症の特徴なのです。
夜勤の看護婦の廻った後に前記の様な出来事が有りました。
現在の様に医学と医薬の進歩がありましたなら、かなり多くの患者が助かった事でせう。次第に医薬品が不足して、マラリヤ患者の発作がおきても薬がなく高熱と戦って随分苦しんだ方が多くなりました。
昭和十七年八月三十日、自分の不注意によりB型パラチフスに罹り、伝染病棟に送られました。まるで地獄暮らしの苦しみを味わい不安な気持ちで軍医殿や看護婦さん方にお世話になり約一カ月で全治することが出来ました。
病院内には支那人を役夫として大勢使って居り、あわれな姿に戦争には負けたくないとつくづく感じさせられました。
私達は一人でも多く患者さんの病気を治して前線に送る事が私達の勤めと頑張って看護を致しました。
その後結婚の為昭和十八年の暮に内地に帰還することになり上海の港に着きました。私の乗った船以外に何隻も集り船団を組んで出航いたしました。
間もなく隊長さんから「皆内地へ帰ると思うな、南方に行く覚悟せよ」とのお話でした。
戦争が可成り悪化して居ることに気がつき内地に帰らず南方へ連れて行かれるのではないかと心細い思ひで居りました。
隊長さんから、敵の潜水艦が途中現れるかも知れないから救命袋を身につけて甲板に集合すること、命令があってから海に飛び込む事、勝手に一人で飛び込んではいけないと厳重に注意があり、昼夜身につけた儘何処に行くのか果てしない航路が続き、夜は立往生で朝東の空が、しらじらと明けた頃船は動き出したのです。
上海に行く時の二倍以上の日数が掛り、内地に帰れるかどうか不安の毎日でした。突然甲板の兵隊さんから大声で「島がみえたぞ。」と叫び声が聞こえました。一体どこの島か、若しや敵地の島ならもう駄目……と思いました。
それは五島列島の一つの島がかすかに見えたので、内地だ内地だと皆一斉に喜び合いました。愈々待望の宇品に到着し上陸となりました。船中で共に苦労し生死の思ひの帰国船でしたが、懐かしい皆様とお別れする事になりました。
又内地の何処かでお逢いしましょうと三三五五と別れを告げ生家に無事帰って参りました。
二カ年程の大陸生活でしたが内地は大変変わって居り男性は少なく年寄りと子供に女性ばかりで異様な感じを受けました。
其の頃、敵の飛行機が軍の施設等を偵察に来る様になり次第に戦争の悪化が身近に感じられる様になりました。毎日の様に「敵機が伊豆半島方面から本土に接近しつゝあり。」とのラヂオで放送がある様になりました。
内地も看護婦不足の為、昭和十九年に静岡の病院に勤務することになりました。病院に到着すると間もなく空襲警報がなり、B29が沢山富士山目指して飛来して焼夷弾を落としてゆく様になり、箱根の山は山火事となり昼夜火の海となり燃えつづけました。
病院の上空も毎日の様に飛んで来る様になり、生きた心地もしませんでした。其の都度重症患者を防空壕に担架で運搬しなければなりません。幸にして病院には焼夷弾の落下もなく、無事に勤務することが出来ました。
医薬品も増々不足し充分の手当も出来ず、内地の病院でさえ助けてあげることが出来ず死亡される方が居りお気の毒でございました。
二十年六月に現在の主人と縁があり結婚を致しました。
八月六日広島に又九日には長崎に原爆が投下され、遂に八月十五日に降伏し終戦となりました。
一緒に上海にて働いた友人も終戦後に無事に帰国し再会することが出来て、伺いますと栄養失調や肺結核、マラリヤ等に罹って犠牲になられた方、又九死に一生を得て帰られた方等さまざまでした。私の親しい友達は肺結核で帰り静養と治療に専念し今はすっかり健康になられ時々お逢い致して居ります。
終戦後に青葉会(上海第一陸軍病院青葉部隊)が結成されて一カ年置きに部隊長、軍医、下士官、衛生兵、看護婦長、看護婦、軍属等全国から集り靖国神社に参拝後九段会館に一泊し昔の想い出話に花を咲かせ夜の更けるのも忘れて語り合いました。若い頃荒波と戦って参りましたが働き甲斐のあった人生に満足し健康で満七〇才を迎えたこの幸せを大切にして行きたいと思って居ります。
二度と悲惨な戦争は有ってはなりません。
この平和が永久に続きます様お祈り致して居ります。
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