「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録17

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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赤道を越えての従軍記  沢田 サツキ(三山・69歳)

 二・二六事件の朝は真白な雪景色。戒厳令の敷かれた街を私は小学校の修学旅行で神田の教育会館より上野駅まで歩き帰郷した思い出があります。其后事変が続き遂に大東亜戦争が宣告、国民總決起の時代となりました。私は昭和十七年二月八日、救護班として召集を手にした時、千載一遇の機会と念じ心身共に若い時を滅死奉公の心に燃え立ち第三二八救護班の要員となり赤道を遙かに下り、昭和十七年五月一日付、任地ジャカルタの南方第五陸軍病院勤務となりました。南国特有の悪性マラリア、其の他の伝染病。朝トラックで輸送される氷を砕き氷枕氷嚢を担送車に積んでの交換、排泄物の仕末。運動靴をはいての作業で足の乾く間がなく疥癬に罹患してしまいその疥癬は実に頑固で復員後まで悩まされ昭和五十四年迄に漸く治癒し私なりの終戦となりました。殊に不定期に繰り返される前線からの患者収容、内地還送患者の準備、まだ若いとは言え、五日毎に巡ってくる二十四時間勤務。チサルワと云ふ高原の結核療養所では福島班十一名で百名の患者を担当。衛生兵は炊事と買出しで五名、軍医二名(内一名所長殿)、勤務状態は広い敷地を重・軽症病棟を夜勤は懐中電燈一ツ頼りに一人一人の病状を看とり一夜を事なく過ごせた朝の申送の心境は筆舌には申上げられない気持ちです。或患者(兵隊)さんは第三報(末期)危篤状態も迫り「そばかき」が食べたいと云ひました。婦長殿は現住民に頼み、そば粉を手に入れ作って差上げた時とてもうれしそうに微笑んでくれました。そして三日後に帰らぬ人となりました。幾人かの最期を看る度に異国の地で若き生命を絶っていく人々には内地(日本)にはこの人でなければならない人々が無事帰還を待っておられる方の心を偲び感無量でした。特攻隊の荒鷲熱病に犯されうわ言にお母さんと呼び叫ぶ姿、戦争ってこんなに悲惨なものかと思いました。戦時勤務は大変な事は当然ですが、誰もが予期しない敗戦と云ふ激動期に赤十字の旗の基に患者を看取っての移動勤務、完全武装解除敗戦国日本に対し、現住民の流言罵倒、インドネシヤの独立戦争険悪なる状態。殊に軍司令部との連絡も停止され、出発された軍医殿、衛生軍曹の無言の帰隊。同勤務中の和歌山班の婦長殿南泉看護婦の尊い犠牲者を見送った悲しい思い出がございます。チカジャンと云ふ元川田農場での病院設営は地面から三十糎程床を揚げアンペラを敷き毛布四ツ折にしてベッド一人分です。第一水がなく谷川から軽症患者と一組になり食事や飲料水を棒で担ぎ坂道を日に何回もの往復作業、交替の頃は足が前に進まなくなりました。が、若さと情熱で耐えきれたと痛感いたします。昭和二十一年五月、ジャワ島カンポンマカッサルに集結、連合軍に依る私物検査、各人の前に一品一品写真一枚にも目を通され貴金属を所持した場合探知機で判明され、他の人々にも迷惑をかける事なので内地から所持した記念の時計万年筆まで放棄しての帰国でした。
 私達二十代の事である。既に四十数年経過しています。当時の青春時代を送った同胞も早々に白髪の六十半を過ぎ往時を知る方達は「近代看護にまさる」看護活動でした。
 その頃の事情そして軍の犯したすべての事は私どもには解せませんが、戦争は絶対に避けるべきと叫ぶばかりです。私は蚊の媒体によるデング熱と云ふ熱病に罹りましたが二週間で全治、其の他病気一ツせず四年五カ月の戦時勤務を致し無事復員する事が出来ましたのも当時の馬場婦長殿先輩諸姉の御援助と深く感謝致しております。
 最后に戦没された救護員同胞並びに戦没勇士の方々の御冥福を御祈り申し上げます。
  平成元年十月二十七日
 

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