「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録16

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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太刀洗飛行場被爆点綴 熊谷 文利(芝山・69歳)

 昭和十六年九月、当時二十歳、福岡県太刀洗飛行場第五航空教育隊に現役兵として入隊、以後シンガポールやフィリピン各地を転戦し十九年四月に再び同航空隊に帰属した。この間私は高射機関銃の訓練を受けていて、十七年のB25による日本初の爆撃では岐阜各務原飛行場で対空配備についたり、伊良湖岬その他の吹流し実弾射撃に参加、又南方へ行く輸送船で魚雷攻撃を受けたり、フィリピン、クラーク飛行場での銃撃戦、帰還途中、搭乗重爆撃機のエンジン故障など恐怖や苦痛もあったがシンガポールでの煙草と物品との物々交換などちょっぴり旅する気分に浸ったこともあった。
 これはさておいて、私がここに記したいのは、昭和二十年三月から終戦八月までの間体験した諸現象である。今にして思えばナンセンスであるが、その奇妙な体験の発端は三月二十七日B29の大空襲から始まる。
 その朝教練に出発する前の集合点呼があるので準備をしている時、空襲警報。これまでも度々警報があったが単機超上空を通過するだけ(偵察行か)だったので慣れになっていて、格別恐怖心も起らなかったが、この日は何故か妙に胸さわぎがしたので急ぎ服装をととのえて中庭に出る。東方はるか上空で大爆音。ふと見上げると十機ぐらいの白く光った不気味なB29の編隊だ。やがてざあーと不気味な音。多数の爆弾の降下音が拡大しながら迫ってくる。近くに居た数名と防空壕に飛び込む。とたんに凄い爆発音とともに地面がゆらぎ、体がとびはねる衝撃。身体が凍りついた感じだ。一瞬駄目かと思ったが自分がいる。生きている。壕を出ると次の編隊。波状攻撃だ。近くの壕へ。ざあーと身のちぢむ思いの爆弾の落下音。部隊の塀を乗越えて近くにある小高い花立山ヘ一目散。その間にも爆発音。ふと振返るも部隊は黒煙と炎に包まれている。山へ入ると次々に負傷兵がよろめきながらやってくる。部隊から運ばれた負傷兵が山路に集められる。身体が変にゆがんだ兵、手や足のない兵、など山路が一面血朱の世界になる。同僚の下士官が放心状態で歩いてくる。声かけても返事なし。絵に見られるゆうれいのポーズで前にだらりと両手をぶらさげている。顔は火傷で茶褐色、頬に火ぶくれがぶらさがっている。十編隊ほどの長い長い空爆が終り部隊へ帰ったが、弾薬庫が爆破され弾頭が不気味な音をたて不規則にとんできて危い。対空射撃についた兵も爆破の土に埋っている。平らなところが無い程のが礫の山と穴。凄惨そのものの修羅場だ。兵舎や施設なども可成破壊されていたが、私どもの中隊兵舎は安泰だった。部隊の最も塀よりにあったせいか。
 今後連続しての空爆も予想されるし、生活も不可能と判断して山中に分散することになった。車で被服や諸器材を運ぶ。数日後三十一日大編隊の波状攻撃で飛行場に隣接する航空隊、飛行隊の施設建物、附近の民家なども破壊され尽くされていたのを分散地から用務で部隊に行き目撃した。大型爆弾が破裂した跡は直径十米程のすり鉢状の穴になっている。建物の土台コンクリートが残っている程度でこの無惨な様相に只茫然とたたずむだけ。被爆の後遺症は終戦後も数年間、とにかく空から降る雪や雨、特に雷にはおびえて逃げかくれしたものだ。
 さて私が書きたいあの奇妙な生活現象はここから始まる。エピソードとして断片的にそのいくつかを記述してみる。前置きが長かったようだが、これからの流れの為にも記してみる必要があった。
 先ず当地の小学校の講堂を借りて私どもの中隊は宿舎とした。一カ月も居ただろうか、長居も出来ず山に入って幕舎をつくり生活することになった。一班(約二十名)で一幕舎を上から発見できないよう大きい木の木蔭に擬装のため木の枝などを集め、おそまつなものを構築した。竹やかずらを組合わせた床に上かけ用の毛布が一人二枚づつ配給される。夜は充分眠ることが出来ない状態だが、先ず食糧が問題になってくる。急造の部隊の炊事場に各中隊から糧まつ受領にバケツを持って行く。朝の味噌汁は味噌の匂いと多少色がついているだけで、菜は数枚浮んでいて青虫も姿を見せる始末。食糧も満足に調達できず、主食も全くの高梁米で日本の米は全然混合されていないため、一見赤飯に見えるが不消化のためそのままの姿で下に降りる有様。森の中で訓練も出来ず、何か食べるものはないかと、食べられるものを探しに行かせる。地方の人(一般の民家の人々をそう言っていた)に食べ物を強要したり、ねだったりの行為をしてはならないと厳重な注意があった。そこで森や山中を歩いて採集したいろんなものを食べたが、うまかったのは蛇だ。附近の森の中は湿っぽくて数種の蛇の姿をよく見かけた。幕舎の中央傾斜通路を雨が降ると蛇が流れてくることもあった。皮をむくと凸状の骨の列の両側に肉がついているが、まろ味があっておいしかったのは縞へびだ。山かかしは肉が少なくてかたい。醤油を炊事場からもらってきて、てり焼きをするのだが、五センチから十センチに輪切りにし金網の上で焼くと、焼上がるまで不気味に動いている。蛇はしぶとい。
 又、山の崖っぷちをスコップでこわすと、岩の割れ目に添って変形した大型の山いもがとれる。長さ一米以上で下方の巾は十五センチに及ぶものもとれて栄養補給には好適であった。更に百虫もかなり生息している。幕舎を巡視した時兵の毛布の上を十五センチぐらいの百虫がはっている。動かないよう注意して百虫をはらいのける。このようなことは日常的なものだった。又、木蔭にドラム缶(二百立)の野天風呂をつくって時折入る。煙の処置が大変だが、それより服をわきの枝にかけて風呂から出て下着に片手をとおすと、背中でひやりと冷たい感触を覚えた。そっと下着をぬぐと百虫がはっていてぞっとしたこともある。話をもとにもどすが、百虫も栄養になるのではないかと、てり焼きにして食べることにした。やゝ油っ気を感じたがぱさぱさとした歯ざわりで味もなく、こんなにまずいとは思わなかった。又、ある時は食糧採集の兵士が笑顔で帰ってくる。袋に可成の量のまるいものが入っている。たにしだ。手のこぶし大のさざえみたいで表面にもが生えている。沼の岸辺を歩いているとまるくごろごろした物を見つけ池に入って採集したという。長年月を経た沼の主みたいなものだ。飯盆で炊いたあと焼いて皆と食べたがこれはおいしかった。配給食はお粗末なものだったので蛙もとかげも、とにかく何でも食べられそうなものは食べろ食べろの状態だった。内地(当時日本国内をそう言った)でこのようなジャングル的な生活をしようとは思いもよらなかった。長期決戦にそなえ洞窟を掘りはじめたのもこの頃だったが、凡ての戦闘機能を失っている部隊の状況から推測して、このまま経過すれば敗戦占領されることになるだろうと予感し、素手で銃に立向う本土決戦を覚悟していた。
 私は中隊の命令受領勤務をしていたので毎日夕刻、部隊本部の設置されている公会堂へ出かける。中隊の事務所も幕舎の仮住いで事務をとっていた。又、山上には対空監視所もあって巡視することもあった。見おろすと築紫平野の中に飛行場と花立山、遠くに脊振山塊など目に入るが上空はグラマンの進入コースだ。旧部隊は兵舎の土台コンクリートが残っているのにグラマンはこのコンクリートを爆撃している。何等かの施設と判断してのことか、双眼鏡でよく確められる。又、飛行場近くに太刀洗川が流れているが、この名称は昔、菊地武時が太刀を洗ったことから名付けられているとのこと。この川岸に菊地氏の石像が建立されていたがグラマンはこれも狙った。おもしろいことに像の土台は爆破されたのに石像だけは下へ落ちそのまゝの姿で残っていたことだ。爆弾は百キロ級の小柄なものだが、焼夷爆弾を使用することがある。建造物などパーンと破壊して火がつくという代物だ。又、空中爆雷(当時私どもがそう言っていた)は飛行場周辺のドラム缶など燃料油脂の類を保管している森の上を超低空で爆弾を投下、クラゲの傘状に花火のように白線がひろがると森が一瞬に燃えあがり燃料などが炎となるもの。又、不気味なのは時限爆弾で大型が地中にもぐり何時爆発するかわからない。昼夜をわかたずあちこちで時折どかんどかんと爆発音が聞える。用件で歩いていても未知の恐怖心が襲ってくる。対空監視所から飛行場を見下していると、グラマンが頭上をこえてすーと高度を下げると飛行場に着陸し離陸する。しかし何等抵抗することはできない。命令で発砲は禁じられている。発砲してその位置を察知されると機銃攻撃や爆弾攻撃を受けるおそれがあるからだ。命令を破って高射砲を発砲したことがある。次に来た一機が糞をたれる。低空できてぽんと爆弾を落すとよく見えるのでこんな言葉を使っていた。糞がすーと高射砲陣地に落ちる。爆発、陣地は一瞬にして吹飛んだ。刻々に状況は緊迫化する。特攻隊用員も飛行場附近に集ってきているが、特攻機どころか練習機―いうところの「赤とんぼ」も皆無。特攻兵はなすこともなく日々を過す状態のなか、広島原爆投下の報、新聞報道では被害甚大という表現をしていた。軍からの指示で事実が伏せられているからだ。後で被害甚大ではすまされない状態を知り恐がくした。
 やがて八月九日を迎える。この日は対空監視所にいた。よく晴れていて西方脊振山方面には積雲が点々と浮んでいた。情報が入る。敵機一機北九州方面へ進入中、原爆投下のおそれあり、広島の例があり偵察行ではないらしい。投下されるとすれば北九州か、福岡か通信兵と取沙汰していたが、そのうち長崎方面へ進入中、原爆投下のおそれありの情報が入る。監視所から西方を眺めると太刀洗飛行場方面脊振山の遥か遠くが長崎方面だ。やがて積雲の群の遥か遠くにかすむ山々の彼方から、積乱雲に似た雲がむくむくと頭をもたげてくる。その発達、盛上りのスピードが近くの雷雲の発達動きと同じくらい。遙か遠く形は小さいがみるみるくらげ状の雲になる。「あれ原爆の雲じゃないか」とおどろきの声がおこる。原爆によるきのこ状の雲など当時の私共は知るよしもなかった。その破壊力の巨大さ、被爆の惨状は想像もできなかったが、遂に二発目の原爆が投下されたのだ。
 八月十五日、部隊緊急集合命令。敗戦の詔がかすかに兵士たちの頭上を流れる。戦いは終ったのだ。複雑な空虚さが襲ってくる。終ってみれば山中の生活は旅行者のキャンプみたいに興味あるものだが、敵機の制空下におけるこの五ヶ月間のドキュメントは深く私の脳裡に刻まれて離れることはないだろう。
 

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