「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録15
日支事変に従軍 北迫 清次(藤原町・79歳)
日支事変勃発
私が警視庁警察官として、深川扇橋警察署に在職中、昭和十二年五月一日に華燭の典を挙げ、新婚生活で愛の巣に浸っていた。七月七日夜、中国北京市郊外の盧溝橋事件に端を発し日支事変が勃発した。
戦火は北支から中支に広がり、日支両国政府は不拡大局地解決の努力にもかかわらず外交交渉ならず、事変は遂に全面的な戦争状態となり、以来両国は国力を賭して八年に及び相闘うことになった。
動員下令出征
昭和十二年七月二十七日郷里の鹿児島歩兵第四十五連隊に動員令が下り、同日早朝私にも召集令状が伝達された。新婚ホヤホヤの夢破れ七月三十日入隊命令を受け、出征祝いに駆けつけた在郷軍人・愛国婦人会・町内会の人々の祝福を受け、取る物も取りあえず、七月二十七日午後一時三十分東京発の特急列車で出発、二十八日帰郷親戚・村人・部落の方々の出征祝いと激励に、ただ行って来ますと言葉を交すだけで、通り魔のようなスピード入隊でした。
七月三十日入隊、鹿児島歩兵第四十五連隊・第二大隊・第七中隊・第一小隊・第一分隊所属となり、当日軍服・鉄砲・剣・背嚢・実弾等の軍需品を支給され、出征準備におおわらわでした。
そして七月三十一日には、出征将兵全員の軍装検査が行われ、八月一日いよいよ出征、沿道には手に手に日の丸の小旗を持った小学生・在郷軍人・愛国婦人会・街の人々の人垣に埋め尽くされ、城山山頂からは花火が上り、進軍ラッパ吹奏のもとに万歳・万歳の歓呼の声が天地にこだまし、愛国婦人会員は街頭に立ち千人針を縫う者、出征兵士と並んで歩きながら別れを惜しむ新妻、家族達に見送られ照国神社に参拝武運長久を祈願、鹿児島駅から軍用列車で征途につく。
連隊は八月二日門司港に集結、二日同地に滞在、八月四日乗船、八月五日朝鮮釜山港に到着、既に熊本・大分・都城の各部隊は先着して上陸機していた、
八月六日上陸して四日間滞在、八月十日釜山から再び軍用列車で朝鮮を縦断、京城・安東を通過、八月十三日錦洲を経て一望千里の大平原を突き進んで山海関に到着。
軍用列車と言っても、軍隊の移動を隠蔽するため、外部から見えない満鉄のボギー貨車を上下二段に仕切り藁を敷き、四斗樽に水を入れて冷してあったが、大陸の炎熱と将兵の人いきれと内外の熱気で日射病、発熱者が続出して体中が汗とほこりにまみれ動物同様な扱いで、空腹で咽喉が渇き蒸し風呂同然の日が半月にも及んだ。
八月十四日夜半天津を通過、十五日目的地の北京市郊外の豊台駅で下車、黄林に到着、戦地に一歩を印す。
各部隊はそれぞれ宿営につき、敵地での第一夜を過ごす。背嚢を枕に汗とほこりにまみれいつしか兵士達は長途の列車輸送の疲れで深い眠りについた。
戦斗開始 永定河渡河
我が軍の集結と作戦計画のため、日支事変発端の地永定河畔に数ヵ月警備についていたが、後続部隊の集結と作戦計画が終了した九月十四日夜陰に乗じ永定河の渡河進撃を開始、怒濤の如く押し寄せる日本軍の攻撃に抗し切れず、支那軍は敗走に次ぐ敗走で敵兵の姿さえ見ることのできない見事な退却でした。
我が軍は昼夜兼行で追撃を加え、保定の要衡に迫った。
保定会戦
第六師団は平漢線に沿う地区を前進し、保定を占領し、機を失せず石家荘に向い敵を追撃するよう命令を受け、前進陣地の定興・徐水を奪い、九月二十四日未明砲兵隊の支援のもとに保定城の破壊射撃が開始され、数時間に及ぶ連続攻撃で堅固な城壁も破壊され突破口ができ、翌朝には敵陣地に突入し占領された。敵は敗走したが、この会戦で戦死者・負傷者も多数あった。
正定城の攻撃
正定は平漢線沿線にある軍事上枢要な地点である。南に濘沱河が流れ西は大行山脈に接し周囲十三粁、城壁も十米の厚さ、その上外壕があって最も堅固な陣地である。
十月十七日正定に集結した我が軍は、野戦重砲・野砲隊の応援を受け城壁突破を図ったが失敗を重ねた。城の回りが水壕と綿畑で平地で城壁から探照灯で我が軍の動きを捉え一斉射撃を受け、中隊長・小隊長・兵士の戦死傷が続出して戦闘は一進一退を続けていたが、包囲作戦と重砲隊の集中砲撃により、さしもの堅固な陣地も夜襲攻撃の連続で一角が崩れ、北門西方の城壁を占領された敵軍は退却を余儀なくされた。
濘沱河渡河と石家荘攻略
濘沱河は正定・石家荘の間を東流し、天津に至る大河で川幅も千米、水深三米でもっとも急流で天然の防衛線、対岸には濠を掘り畳を築き堅固に防備が加えられ、渡河進撃は容易ではなかった。
十月二十日渡河進撃支援のため、野戦重砲・野砲百門の砲列で一斉に攻撃、その間に工兵隊によって鉄舟架橋作業が行われ、白昼の強行渡河進撃で若干の戦死傷者があったが渡河は成功。直ちに石家荘を占領、樂城、趙県に向って進撃。
転進命令
我が軍は正定攻略後、果敢に進撃中であったが、全般の情勢は必らずしも日本軍の絶対優勢とは言い難く、また中支の上海方面に新たに戦端が開かれ戦闘は持久戦の様相を示すに至った。
主戦場が中支揚子江流域に移動するに及び第六師団・第十六師団及び岡崎支隊はともに上海方面に転用されることになり、石家荘に集結、連隊は十月二十四日より列車輸送により石家荘を出発、天津郊外の塘沽に向い十月三十日塘沽の埠頭から輸送船で極秘に船は北支を離れ東支那海を東進せり、何も知らない兵士達は船が東に向っていることから、凱旋だと早合点するものさえいた。
坑洲湾上陸
塘沽に集結した我が部隊は、十月三十日輸送船に乗船、船団は黄海を南下して、十一月一日朝鮮南端木浦沖の入口八口浦に集結、十一月三日夜半八口浦を出航、第十八師団・第百十四師団の船団と合流、船団は二梯団編成一梯団五十隻で百隻による大船団が海軍艦隊に守られ、見渡す限りの水平線を二列縦隊となり、舳艫相ふくむ、堂々海を圧し壮観を極め「日本軍百万上陸」と敵に言わしめる程の大船団が坑洲湾に向い十一月五日未明坑洲湾泊地に進入した。
情報によると坑洲湾岸に配備された敵兵は二個師団で要塞を備え堅固な永久陣地を構築して完壁な守りで、その上坑洲湾は潮流が激しく、また干満の差が大きく上陸に困難を極めたが、十一月五日夜明けを期して奇襲上陸を敢行、夜が白々と明ける頃には全軍が上陸に成功して金山衛を制圧した。
しかし上陸後が大変で、金山衛付近一帯は水田地帯で沼地帯、然もクリークが縦横に走り、至るところにクリークが行手を遮り迂回に迂回を重ね、加えて降雨に見舞われ、水田は膝まで没する沼地で前進を阻まれ戦闘は困難を極めた。
首都南京の攻略
坑洲湾に上陸した我が軍の精鋭は、金山衛松江・崑山・蘇洲に進み、上海方面の敵の退路を遮断し、殲滅的打撃を与えたが折り悪しく「コレラ」が発生し、各部隊は一斉に予防接種を施すため数日戦闘の中座を余儀なくされた。
十二月一日に至り首都南京を攻略せよとの大号令が発せられ、第六師団は直ちに南京に急進するため、上海派遣の各部隊と怒濤の如く南京に向って進撃、我が鹿児島歩兵第四十五連隊は闘山の敵を攻撃、八日夕刻から夜襲をかけ山頂を占領した。
敵は南京城の紫金山に砲列を敷き、また城壁にはトチカーを備え迫撃砲や機関銃を備え乱射し前進をはばまれ、苦戦の連続で一時は退却を余儀なくされたが、空からと砲兵隊の攻撃で十二月十二日夕刻に漸く南京城の西南角を完全に占領、各部隊も先を争って占領、遂に敵の大軍も下関方面に退却せしめ、三十数門の砲車・大量の小銃・機関銃並びに数百頭の軍馬を捕獲、五千余名にも及ぶ敵兵の捕虜を得、昭和十二年十二月十三日南京は遂に陥落した。
十二月十七日には南京城入城式が挙行され、本戦闘に参加した約十個師団の代表部隊が軍旗を先頭に、軍楽隊の吹奏のもとに戦死者の遺骨を抱いて、上海派遣軍司令官松井石根大将及び幕僚と将兵の入場行進が行われ、また同日慰霊祭も挙行され戦死者に対し弔意が捧げられました。
和平交渉のため一時休戦
南京の攻略により、中支方面の戦局は一段落を告げた。政府は依然として和平交渉の推移と工作が続けられたが、結局和平工作は挫折し、交渉による早期解決の期待は遠ざかった模様であった。
我が部隊は南京の西方太平府並びに無湖地区に移動し、警備・残敵掃蕩に当った。
私は警視庁警察官の経歴者ということで、軍の特務機関に編入され宜憮班の班長を命ぜられ、逃避していた現住民を探し出し帰順を促し和平の働きかけを行い、自治組織を結成して住民の治安・安定和平の働きかけ等の宜憮工作に従事した。
更に補助憲兵に任命され、憲兵隊本部の無湖で中国現住民を採用して保安隊を組織して治安維持の任に従事した。
武漢三鎮の作戦
昭和十二年十二月市二日敵の首都軟禁を陥落し、中支方面の選挙区は一段落したため、日本政府は国民政府に和平交渉を行ったが、国民政府は広大な領土を利用して日本軍を奥地山岳に引き込み打撃を加える作戦で、政府機関は武漢及び重慶方面に移し、和平どころか英・米・仏等と図り徹底抗戦の挙に出たため、昭和十三年六月十五日御前会議において漢口攻撃作戦が決定、私の憲兵の任務も解除となり連隊に復帰、昭和十三年七月二十日行動開始。揚子江沿いに第二軍は大別山脈の北側より進撃、私達第十一軍は揚子江に沿う地区を漢口攻略の主軸部隊となり、海軍・航空隊の三軍が一体となり作戦を開始した。
敵の武漢防衛陣地は、極めて堅固で外囲は九宮山脈・大加山山脈に囲まれた天然の要塞に十個師団の兵力を配置して、我が軍の前進を塞ぎ国民政府の最重拠点であった。
安慶の攻略
安慶は南京の上流、揚子江に望む要地で、漢口作戦の前進基地であった。歩兵部隊と揚子江から海軍部隊、更に慮洲方面から南下部隊の狭撃にあい占領された。
黄梅の攻略戦により戦傷
我が第六師団は速かに前進を開始し、安慶・宿松を占領黄梅に向った。黄梅は武漢防衛の前進主陣地で、七個師団の兵力を投入していた。敵軍は淳亭河の既設陣地で頑強に抵抗し、二十六日夕刻には大別山長谷方面から有力な敵軍が我が軍の包囲作戦の挙に出、なお北支方面からも増強され数万の敵と激戦が展開され、連日連夜の死闘が続き各地の戦場が一進一退の戦闘、二十米位の至近距離で手榴弾の投げ合い、白兵戦の連続、一つの丘を取ったり取られたり激戦を繰り返すうちに、私もこの黄梅の激戦で右膝に手榴弾の爆発破片を受け、負傷し戦列を離れ野戦病院に入院した。
戦傷病のため長期療養
黄梅の激戦で不肖手榴弾の爆発片を右膝に受け野戦病院に入院、治療を受け僅か十四日間で退院、連隊に復帰して戦闘に加わったが、行軍で歩くと負傷した右膝が大きく腫れ痛み歩行が困難になったので再入院、黄梅・広済・田家鎮の野戦病院を転院、十一月には前線の武昌予備病院に転送された。
「病は気から」と申しますが、当時二十七才の働き盛り、分隊長として張り切っていた若者が病院に入院すると気落ちしたかがっくりしたのか、右膝の負傷だけのはずが武昌の病院に着いた時には「マラリヤ」に冒され四十度にものぼる高熱で精神が異常となる。
そして腎臓病を併発し体が豚のようにぶくぶく腫れ、血尿が毎日続き四つの病を背負い病院では死をさ迷い、病状は一進一退が三カ月も続き重傷患者として扱われ、衛生兵・看護婦・軍医までも半ば締め死ぬのを待っている様子でした。
その証拠に食事の配膳もしないで看護婦も軍医も姿を見せず診察もない日が続いた。
こういう時に不思議と妻・父母・兄弟姉妹のことが走馬灯のように浮んだ。なぜか元気が出て衛生兵・看護婦達が運んでくる食事を当てにしていては死ぬしかない、いや殺されてしまう。この若さで死ぬのは早い、日本には新妻が待っているじゃないかと神のお告げで、腫れた重い体を犬が歩くように四つ這いになり、飯盆片手に食事を自分で取りに行き、まずいご飯を無理に体内に運んで力をつけた。あの気力と精神力が今日の生命力を保持したものと思う。
そしてマラリヤ治療に専念したお陰で高熱も下り、精神異状も平常に復し、南京に転送され、武昌から揚子江を船で三日間で南京に到着、南京に着いた時はマラリヤも治り、体の腫れもとれ、血尿もなくなり、一週間後には上海に転送され、レントゲン検査の結果右膝関節に破片があることが分り、三日後に切開手術が行われたが、破片弾は摘出できず傷口を縫い手術の翌日昭和十四年一月一日内地還送のため担架で病院船に運ばれる。
内地還送(小倉病)
重傷患者として病院船に運ばれた私は上海港を出発、東支那海を東へ東へと進み、二日後の昼過ぎ小倉港に到着。港には多勢の人達が日の丸の小旗を振って出迎えてくれました。
担架の上から日本の土を踏み、感激と傷痍軍人という白衣をまとった患者として帰国した無念と腹立たしさが交錯した気持ちで一杯でした。
熊本陸軍病院に転送
小倉病院では検査と傷の手当だけで一カ月いたが、妻の父がはるばる東京から見舞いに来てくれましたが、すぐ熊本陸軍病院に転送される。
藤崎台病院で精密検査の結果、右膝関節に手榴弾の破片があることが確認され、切開手術をすることになり手術を施したが、結果は上海で手術した時と同様に手術を始めると破片が雲隠れして見えなくなるらしい。
その回復を待って六回も手術を施し、最後には膝の表と裏に突き抜ける大手術も行いましたが、いずれも結果は同じで手術すると破片は消え、レントゲン写真には写り不思議な現象の繰り返しで終始した。
軍医の説明では、関節の部分で手術をしにくい箇所で、無理をして手術すると膝の屈伸が不能で片輪になる心配がありこれ以上の手術は無理と判定され、手術は打ち切られ、足の屈伸が不自由で歩行も右足を引きずって歩く不具者となって、毎日按摩さん・マッサージ師の治療に専念することになった。
不具の身が温泉で快癒
六回も右膝にある手榴弾破片摘出の手術を行ったが失敗に終り、不具の身となり半ば締めていた。ところが、陸軍病院保養所熊本県芦北郡日奈久町日奈久温泉に転地を命ぜられ、ひたすら温泉治療に専念して一カ月位入湯するうちに、右膝関節の裏が化膿して破片らしき物が現われ手指で触ると破片と確認。
各地の病院で医術の粋を集め施療したにもかかわらず、破片は摘出できなかったものが、温泉で暖められ自然に外部に露出して医師の診断でピンセットで簡単に挟みとり、化膿した部分の治療で不自由であった右足の屈伸も自由となり、完全に五体が満足な状態に復し、この温泉が私の生涯を救い、人生を変えてくれました。
温泉の効能がこんなにあるとは存じませんでした。ありがとう、温泉様と叫びたい。
鹿児島陸軍病院に転送、指宿温泉へ
鹿児島陸軍病院に転送され、直ちに指宿温泉に転地が許され、心身とも健康も回復し一年有余に及ぶ療養生活も終りを告げ、昭和十四年十二月二十七日退院と同時に召集解除となり、私の戦争体験は終ります。
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