「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録14

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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戦場に消えた青春 金子 利一(飯山満町・73歳)

 昭和十二年、北支那盧溝橋に端を発した日支事変勃発により、日本全土は、出征兵士を送る歓呼の声と日の丸の旗の波で、街中は毎日賑わった。
 私もその年、国民の義務であった徴兵検査に甲種合格となり、翌年一月、多くの知人、友人、学友に送られて、現役兵として東京世田谷区三軒茶屋の野戦重砲兵第八連隊東部第七十二部隊に入隊した。
 入隊前、先輩より聞かされた通り苛酷なる新兵教育を受け、同年五月六日、補充兵一同一五〇名は将校に引率され、日支事変に参加の為、故国神戸港を後にしたのである。
五月十日、戦禍の跡もまだ生々しい上海に上陸、中国の首都、南京をヘて、揚子江を渡り、浦口をへて、徐州近くの懐遠という街に入り除州会戦を終えて警備中の本隊に合流。独立野戦重砲兵第十五連隊(十糎加農砲機械化重砲兵)に編入され、私も第二大隊第三中隊の一員となり、ほーっとした次第であった。
 連隊は南京攻略のあと、あの「麦と兵隊」の歌で有名な徐州会戦に参加、多数の戦死者負傷者を出したが、数々の武勲を立て、五月十九日、徐州占領後しばらくして、南京の警備を命ぜられ懐遠を出発、南京の金陵兵工廠にて兵器手入、我々新兵教育を行い、待機警備となった。
 警備中の七月九日、満州の東部国境南端の張鼓峰において、日ソ両軍による張鼓峰事件のニュースも流れて来て、又々、緊張の空気に包まれた。
 当時、南京及び徐州戦に敗れた国民政府軍は、共産軍と共に、武漢地区の防衛の為、大別山山系を中心に一二〇万と称せられた兵力をもって、武漢三鎮の死守を開始したのである。
 武漢三鎮とは、漢口、漢陽、武昌の三都市の総称で、揚子江河口より一二〇〇キロ上流にある、人口あわせて一八〇万の都市で、水陸両用の交通の重要な地点である。
 昭和十三年八月、我々中支派遣軍は空海と協力し、第二軍、第十一軍をもって、武漢攻略を開始したのである。我が隊も軍命により参加、南京を後に馬頭鎮に上陸。私の所属する第二大隊は、連隊主力と分かれ第九師団の配属となり、富水河上流の沙市付近の渡河作戦に協力、金牛鎮をへて、武昌周辺の敵軍の後方補給路遮断に成功、更に武昌南方の追撃掃討戦に参加、そして、連隊主力に合流、武昌地逼の紙坊鎮の警備についたのである。
 昭和十三年十月、武漢地区も我が軍の手中に帰し、私も初めて皇軍の一員として色々の事を経験、兵隊さんらしい日々を過ごし、又反面、南京徐州の大作戦に奮闘した先輩古参兵の苦労が、充分判った次第であった。明けて昭和十四年一月、この警備地紙坊鎮にて正月を迎え、隊より少量の酒の配給もあり、ほっとしたわけである。
 その後、この町にも何処とはなしに住民が集り、野菜や、鰻頭や、卵や肉類の露天販売も始まって、なごやかな風景も見られる様になった。そして、偶然ではあったが、近くの通信隊にかのプロレスのレフリーであった九州山が又、俳優の佐野周二伍長とも出会い、隊内の話題になった事もあった。
  (南昌攻略戦修水河の戦闘)
 私の八年間に及ぶ戦場生活は、顧り見ると永かった。私の戦時名簿には、五十有余の各地における戦闘警備が記されており、その想い出は多々あったが、次に書く南昌攻略戦も、印象深い戦闘の一つである。
緊張の内にも、ささやかな正月気分を過ごした、紙坊鎮を後にする日が来た。
 当時、武漢地区にて敗退した中国軍は、その後、政治、軍事の両面より中支方面における最も重要な地点として、江西省の南昌を中心とする一帯に十七か師団、約二十万の兵力を配備した。
 我第十一軍は、武漢地区の各戦闘も初期の目的を達成し、各占領地の確保を期すると共に、昭和十四年二月中旬、南昌攻略戦に出動したのである。
 我が隊も紙坊鎮を後に揚子江下流、九江に上陸、盧山山麓沿いに、第一次集結地、徳安に向け前進した。
 中支方面、特に揚子江中流地域は、雨期に入り、来る日来る日も雨、又、雨、鉄路は破壊され、軍靴がめり込む程泥濘化し大苦戦、我が隊も索引車、弾薬車、砲車も土にめり込み、将兵一同、後押しの連続の日々で、野営も壊れた農家を見つけて、藁の中での睡眠で身体はくたくたであった。そして、一日の行軍距離も一キロという日もあった。徳安を出て永修河間、約二十キロの行軍に一週間もかかり、三月七日頃、漸く永修鎮という街の北方四キロ付近に到着、歩兵部隊の渡河作戦に協力すべく、戦闘態勢に入ったのである。
 観測所は裏山に展開し、通信隊は砲列観測所間の通信網の設置、我々戦砲隊も敵の目を逃れて、雑木林の後方に陣地構築に入った。観測所より見た対岸の敵陣地は、トーチカが約二十メートル間隔で広範囲に亙り構築されており、鉄状網も二重、三重と張りめぐらし、後方の山には、砲兵陣地が相当あるらしく、我が隊の陣地構築中も猛射の連続であった。
 そして雨の数日間、塹壕内にて待機中、三月二十日、薄暮待ちに待った総攻撃の命令が下ったのである。軍の参加砲兵は、話しによれば、大小あわせて七十中隊とのことで、修水河対岸の敵陣地に向け、一斉に砲火を浴びせたのである。静かだった夜空は一瞬、花火大会の如く、弾丸の飛行音は夕立の如く、その壮観さは真に筆舌に尽くし難いものがあった。しかし、敵砲兵も友軍の砲撃を受けつつも、曳光弾を主とした砲撃で応戦し、その戦意は驚威に値するものがあった。そして、戦闘開始後五、六時間して、歩兵部隊は敵前上陸に成功、我々もなお退却する歩兵部隊や砲兵隊陣地に猛射をつづけたのである。
 この戦闘も我が軍の勝利に終わり、久しぶりに火を焚き、濡れた軍服を乾し、朝食を腹一杯につめ込み、疲れきった身体を休めることが出来た。
 私もその後、各地の戦闘に参加したが、雨の修水河の一か月以上に亙るこの戦闘は、永かった私の戦場生活の中でも特に想い出の一つとなったのである。「戦いすんで日は暮れて」そんな文句ではないが、一か月余に亙る雨に明け暮れた戦闘は珍しかった。そしてこの戦闘の最中、朝日新聞の従軍記者が、砲撃中の我が分隊の写真を撮っていたのである。偶然といえば偶然かもしれないが、復員後、神田の本屋で買った「日本の戦歴」という写真集の中にその写真があり、私の記念品の一つとして大切に保管している。
 想い出多い南昌攻略戦も終わり、第十三師団の配属となり、その後漢口北方における第一次、第二次宜昌作戦に参加、旧口鎮、南羅寺付近の戦闘も又、印象に残る戦闘であった。現地は中国でも有名な大別山麓に位置し、戦闘中、明け方四時頃、敵歩兵部隊の大攻撃を受け、近辺には友軍の歩兵部隊もおらず、中隊としては始めて零距離射撃という射撃を間断なく行った。私も分隊長として指揮奮戦をしたが、敵との距離は縮まる一方で、戦死者、負傷者も出て、いよいよこれが最後の戦闘と思った事があった。その時突如、付近の小高い丘より、かの有名な岩中戦車隊が現われ、敵散兵線に突入、我々の危機を救ってくれ九死に一生を得た想い出もあった。
 宜昌には二年近く戦闘警備と永らくいたが、昭和十五年の夏、この山奥に突如、内地より慰問団が軍用車で来たのである。男ばかりの戦場生活に明け暮れの兵士達にとっては、どれ程嬉しかった事であろう。特に、久しぶりに見る和服姿で美しく化粧した女性達の歌や踊りを目の当たりに見て、心の弾む思い出があった。
 その後、我が部隊も宜昌警備中の各主力部隊と共に第一次長沙作戦に出動したが、我が中隊は留守部隊となり、同地警備中、又々敵の大攻撃を受け、裏山の山頂で我々重砲兵隊としては経験の無い白兵戦を行い、又々九死に一生を得た記憶がある。
 そして第二次長沙作戦、衡陽作戦、湘桂作戦に参加。桂林地区の戦闘後同地の警備中、昭和二十年二月、突如上海に移動命令が下り、反転二五〇〇キロ下流の上海江湾鎮に集結したのである。そして、忘れもしない八月十五日、終戦の大令が下ったのであった。
 前日、軍情報部より重大放送がある旨各隊に通報があり、十五日十一時頃、各隊毎無線機の前に集合、放送を心待ちしたのである。緊張の中に時間が経過、放送は定刻流れたが全員無言、茫然自失、一言も発する者はいなかった。永かった大東亜戦争もこれで終わったが、我々中支派遣軍は勝利の連続であっただけに無念の一言であった。
そして数日後、連隊も軍命により火砲を始め全兵器を蘇州において中国軍に引き渡し、引き続き中国軍の使役として捕虜生活の日々を送ったのである。明けて五月二十日、私も復員船にて上海を後に数日をついやし、生まれ故郷の横浜に戻ったのである。
 私等が一命を賭けて戦った戦場生活も物凄かったが、目前に見る故里も昔の面影は全くなく、戦場にも似て、無惨な荒れ果てた街と化し、私は帰る家もなく、家族もなく、食料もなく只々茫然として涙も出なかった次第であった。
 毎年八月十五日を迎えると、永き戦場生活の想い出が走馬燈の様に頭の中を走り、戦死された幾多の戦友に対し、心から御冥福を祈ると共に、私自身振り返れば、貴重な二十代の青春時代を戦場にて失い、只々耐え難い気持ちにかられるのである。そしてつくづく戦争の悲惨さを想い出し、二度と戦争はあってはならないと叫び度い気持ちになり、平和という二文字の尊さと有難さを感じている次第である。
 最後になるが、私も八年間の功績により勲八等旭日章、勲七等端宝章、長期奉公章等、を受与されたが、私の青春時代の唯一の想い出の記念品として大切に保管している次第である。
 

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