「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録13

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

ページID:P149555

飛行第六六戦隊従軍記
陸軍特別攻撃隊(振武隊)のことなど  加藤 武雄(前貝塚町•75 歳)

  十二年に亘る私の軍隊生活の中で直面した戦闘の悲惨さを、自らが体験した事実のみを記載することで、かえって平和の尊さを後世に伝えることができるのではないか―。また、ぜひそうであってもらいたいものと念願しつつ、ここに陸軍特攻隊の真相の一端を記すべく筆を執りました。
 比島作戦にて崩壊した飛行第六十六戦隊は、下志津飛行学校に於て戦力の回復充実を図りつつあり、私はその要員として昭和二十年一月三日、同戦隊の副官に任命されました。
 爾来、激化する戦局に対応すべく、私は兵員の充足、戦闘機種(九十九式襲撃機)の補充に努め、銚子飛行場を振り出しに鉾田飛行場(茨城)、岩国飛行場、そして大刀洗飛行場と回って戦闘準備を完了し、待機しておりました。
 同年二月二十六日、第三攻撃集団今津大佐のもとで、わが飛行第六十六戦隊は鹿児島の突端に近い、知覧飛行場に隣接した。吹上浜の万世飛行場に展開し、苛烈の度を強めつつある沖縄戦に対戦すべく、戦隊の一部が徳之島に前進し、友軍の第五十五戦闘隊の擁護のもと、大戦果を挙げました。その戦闘に於て特記すべきは、韓国出身の高山昇中尉が「敵艦隊発見、突入する。」との報を打電したのち遂に、帰えらぬ人となったことです。わが身を犠牲にし、敵駆遂艦に体当りしてこれを轟沈せしめました。その後戦局は益々利あらず。
 四月五日には特別攻撃隊、即ち振武隊がわが部隊の指揮下に入ることになりました。私は生還を期せぬ隊員の、遺品の整理征途の見送り等に多忙な日夜でした。その頃、敵機の来襲が熾烈を極め、昼間に於ける攻撃は困難となり、黎明(早朝)もしくは薄暮攻撃の止むなきに至りました。時を同じくして、米軍の空襲により鹿児島市が炎上する様がくっきりと浮かび上がっておりました。私は宿舎の近くの高台から無言のまま、その光景を眺めつつ敗戦の兆(きざし)を感じざるをえませんでした。
 振武隊員の大半は学徒動員による紅顔の若人で、僅か半年程度の教育で操縦技術を修得し、少尉に任官されて次々とわが部隊に配属されてきました。彼らの襲撃機が隔陸して三機編隊で飛行場上空を飛行中、整備不良のためエンジントラブルの「パンパン」いう音が地上に響き渡ります。その都度すぐに着陸信号を送りましたが、事故機は信号を無視して、編隊と共に開聞岳の彼方に飛び去って行く特攻機を幾度となく見送ったことでしょう。特攻隊員の死も辞さない、愛国の一念に燃える精神に幾度胸を打たれたことでしょうか。
 一方地上勤務者は、滑走路の補修飛行機の整備に多忙な毎日を送っていました。敵機空襲を避けるため、昼間は松林の中に機を誘導し、部品の交換整備はそこで行っておりました。その間飛行場には木製の模型飛行機を配置し、敵機の来襲を幻惑するなどの手段を講じましたが、敵機の波状攻撃の前には何の効果ももたらしませんでした。
 三月二十九日、突如として大空襲があったため、飛行場警備の任にあたる飛行場大隊の空襲発令が遅れていました。そのため、愛国心に燃えて勤務していた女子挺身隊員七名が、敵機の目標となってしまいました。彼女たちが防空壕に入る寸前、松林に爆弾が落下し、約五十Mにも及ぶ弾痕を残しました。その周辺には七名の女子挺身隊の姿はなく、無残にも肉片が散乱し、筆舌に尽くし難い有様を呈していました。特に、長い髪の毛が顔と共に松の枝に絡みつき吊り下がっている。目を覆うばかりの情景は、今もなお瞼の裏に焼き付いています。その悲惨な情景を想い起こすたびに、戦争の冷酷無残さを痛感せざるをえません。またその空襲の何日か後たまたま私が飛行場に近い戦闘指揮所の前に立っていたところ、低空飛行で来襲した敵機(カーチスP20)の銃撃を受け、危うく難を逃れたことがあります。その時不幸にも、指揮所にいた軍属の方が重傷を受けられました。
 戦局はますます激化し、航空軍は海軍と協同作戦を行うことになりました。天一号作戦と称されるもので、不沈艦(大和)と共に慶良間列島を北上する敵艦を目標に体当り攻撃を反復敢行しようというものです。しかし以前のように飛行第五十五戦隊(援護戦闘機)はなく、爆弾を抱えて戦闘力なき特攻機は、無残にも敵機(グラマン)の好餌となり目標である敵艦隊に至らずして洋上に撃墜され命を賭した征途の望みは空しくきえさってしまったのです。その折の作戦で五月四日、特攻第六十六振武隊からは毛利理少尉ほか二機が出撃突入し、名誉の戦死を遂げました。その父君である毛利徳太郎翁は近年『(若櫻)特攻隊員とその父』と題する書物を出版し、父親としての心境を切々と書き綴ておられます。私も一冊頂戴致しましたが、涙なくしては読むことができませんでした。
 戦闘力を失った戦隊は、再び大刀洗飛行場に転じて待機しておりましたが、戦局はみなさんもご承知の通りであり、八月六日を迎えました。広島に原爆が投下されたことは、その日のうちに伝わってきました。そして八月十五日戦隊本部宿舎としていた農家で部隊長はじめ幹部一同と共に天皇陛下の終戦の玉音を拝し、無念の涙に体を打ち震わせたのです。
 明けて翌十六日、「航空隊員は皆、指を切断される。」などの“デマ”が放言されたため、隊員は部隊の解散の命を待たずにそれぞれ離散して行きました。一日も早く帰郷したい気持は誰しも同じ、無理からぬ行動と思い、阻止すべくもありませんでした。
 戦隊長藤井櫂吉少佐は、私に「後を頼む」との一言を残し、機上の人となって飛び去って行きました。私一人で福岡の軍司令部にて残務整理に努めておりましたところ、司令部より「戦隊長の出身地を訪ねよ」との命がありました。そこで富山県下新川郡桜井町大山一〇二番地の生家をたずねましたところ、すでに戦隊長は祖先の墓前にて妻子と共に自害をされておられたのです。戦隊長とは編成以来僅かな期間ではありましたが副官として仕え、移動にさいしては戦隊長に同乗し生死を共にした上司だっただけに、感慨無量でした。遺族の方より分骨を頂き、福岡の司令部に詳細を報告し、同年十一月中旬ようやく残務整理を終わり、戦隊長の分骨を再び抱いて、私の故郷である市川市新田町にやっとの思いで帰宅致しました。ところが生家は三月十日の空襲で焼夷弾を浴び、市川では数少ない被害を蒙った一軒となっておりました。家を失い親戚の世話になる有様にて、敗残兵を見る周囲の目は実に冷たく感じられたものです。
 しかし敗残兵は敗残兵なりに今後の生活があり、生計の資をどのようにして得ようかと案じておりましたところ、復員将校として県の職員に採用され、市川職業安定所に勤務となりました。当時は炭鉱労務者が大いに不足していた時代であったため、市川、船橋の失業者十五名を引率して、雪深き美唄炭鉱に送り届けたことも今では懐しい想い出の―つです。このようにして生活が安定したのも束の間、進駐軍の“パージ”によって公職追放となってしまいました。その後の生活はただひたすら家族を養い、生きんがための悪戦苦闘でありました。苦難の道にあっても日本再建の希望を心に堅持し続けてきた甲斐あってか、我が家の生活も安定し、日本にも平和と繁栄の日々が訪れるようになりました。戦争という苛酷な体験を経てきているだけに平和の尊さをひしひしと感謝しております。私はすでに七十四歳の老いの坂を下りつつあります。老いの身の念頭から特攻隊員ならびに幾多の英霊をお慰めしなければとの想いが離れることは一時たりとも
ありません。
 私が参戦した万世飛行場において、特攻隊員百六十名、我が第六十六戦隊七十名、第五十五戦隊六名、所属不明一名の計一九三名が戦死されているからです。毎年靖国神社で行われます六十六戦隊慰霊祭には、元戦隊第一中隊長の徳永悦太郎氏(同民はバレンバンの奇襲攻撃作戦の際には降下部隊に参加されました勇士)を会長としておこなわれているもので、私も副会長として、この慰霊祭には万難を排して出席し、神殿深く進み英霊の御霊に頭を垂れてご冥福をお祈りしています。また万世飛行場跡に建立された「碑名よろずよに」の特攻隊の碑に対し加世田市が行っております慰霊祭にも、健康と予算の許す限り参列し、忠霊碑に献花して「英霊よ安らかなれ」と心からお祈りしております。その際旧隊員なびに遺族の方々と共に追憶にふけりながら帰路につくのも、また生甲斐の一つとなっています。さらに、今もなお生き永らえているわが身の幸せを噛みしめつつ、微力ながらも社会に貢献すべく地域の福祉向上のために老骨にむち打っております。
 「治に居て乱を忘れず」という言葉がありますが、年をとるとともにその意味するところに、深く感銘を覚えるようになりました。この稿を終えるにあたり、今後二度とこの言葉が逆になることがないよう切望してやみません。

<「従軍の記録2」へ戻る>

<「船橋市 平和デジタルアーカイブ」トップへ戻る>

このページについてのご意見・お問い合わせ

総務法制課

〒273-8501千葉県船橋市湊町2-10-25

受付時間:午前9時から午後5時まで 休業日:土曜日・日曜日・祝休日・12月29日から1月3日