「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録12

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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セブ島の惨影 小田 元徳(丸山・72歳)

  セブと私
 私は昭和十年三月、故郷(愛援県最南端の御荘町)の農業学校を卒業して、八月大阪貿易株式会社に入社。セブ支店に赴任した。戦前三カ年近く出張員として、レイテ島以南ミンダナオ島などの、各島々の主要市町村を駆け巡った。そして十六年十二月八日、開戦と同時に邦人収容所に入り、激動の渦に巻き込まれることになった。
 セブ島はフィリッピン中部、ビサヤ諸島の中心に位置している。フィリッビン第二の都市で、歴史の都、南のクイン・シティとしても有名である。また商工業、運輸交通、経済の要衝の地として古くから栄えた街であった。
  日本軍上陸
 昭和十七年四月十日朝、日本陸軍川口支隊(支隊長・川口清健少将)が東海岸タリサイ(セブ市南方五キロ)に無抵抗で上陸した。海軍特根三十二陸戦隊他は、直接セブ市岸壁に上陸を敢行した。
セブ市南郊外のバサック村小学校に収容されていた、邦人約二百五十人が、川口支隊尖兵小隊により、無事救出された。
 セブ市は日本軍上陸の朝、米比軍の焦土作戦のため、商店街は百パーセント灰燼に帰し、労働者や低所得層の多く住む住宅地も大半が焼失した。呆然として退避する住民は、カルマタ(四人乗り馬車)や僅かな荷物を頭に載せて列をなして、アカシヤ並木の街道を南へと退避して行く。蒙々として空を覆う黒煙に心を痛めながら、振り返り、振り返り先を急ぐ住民の姿はまことに哀れであった。
 米比軍は、豊富な物資を日本軍に利用されることを畏れて焦土戦術を決断したという。しかし一面、商店街は華僑、日本人の経営者で占められていたことが、米比軍の苛酷な戦術が容易に断行されたと考えられる。この焦土作戦が実際には、日本軍に与えた打撃よりも、後々、現地住民の蒙った被害の方が甚大であった。
 日本軍上陸後、二十年三月までは、南方諸地域の兵站基地として、あるいはレイテ戦線の作戦支援の要地となって活躍した。
  米軍進攻
 二十年三月二十六日朝、一万四千九百人の兵力を持つ、米軍アメリカル師団(H・アーノルド少将指揮)が日本軍が上陸した同じタリサイ海岸に揚陸した。
 当時セブは、三十五軍(司令官鈴木宗作中将)隷下の抜丘団(百二師団、師団長福栄真平中将)の守備担当地域であった。軍人軍属邦人を併せ、日本人は約一万四千人いた。その中で本来の戦闘部隊で防衛の主体は、独立歩兵第百七十三大隊(長・大西精│中佐)約千名である。防衛責任部隊と称しても、飽くまでも占領地の警備が本来課せられた任務である。第一線部隊ほどの装備も兵力もない。重火器といえば、機関銃四挺と迫撃砲数門を持つに過ぎない。
 大西部隊以外は、小銃も満足に行き渡らない兵站・船舶・病院部隊で、中には小銃も持たない海軍兵や軍属、海難軍人軍属が竹槍で歩哨に立っている状態であった。
 完全重装備の米軍は、機甲部隊の支援を後ろ楯に、セブ・ゲリラ約八千名を吸収して、日本軍に猛攻を加えた。
 日本軍もセブ市北方の天山、西北の快勝山で頑強に抵抗、多大の損害を出し、玉砕覚悟で勇戦敢闘した。米軍にも相当な犠牲を出さしめたが所詮、螳螂の斧に過ぎなかった。
   日本軍敗走
 日、米の兵力の懸隔いかんとも致し難く悪戦苦闘の末、四月十六日陣地を撤収。北部山岳地帯に退避の軍命が出された。壕の中の重患者は手榴弾で自決する者、薬品注射で始末されるもの、最後は病院壕に爆弾を投げ入れ、患者もろとも埋めた。各部隊将兵は雪崩れの如く、目的も目標も失い、瞬時に志気を喪失して、北へ北へと先を急いだ。
  邦人
 セブの一般邦人の中には、十九年五月ごろ数百人の婦女子がサイパン、パラオからセブに避難して来た。地理的に近いことと、兵站基地のセブを最も条件の整った所として緊急移送した。セブの邦人も千名を越えるようになった。
 パラオから来た婦女子の船団は途中、米潜水艦の魚雷攻撃を受け、乗船が撃沈され、護衛の駆逐艦に救護されて上陸した人々である。水兵の防暑服や、カスリのモンペ姿などまちまちの服装をしていた。髪はボウボウとして血の気もなく、油に汚れた顔は心身の疲れから年齢の見分けもできなかった。
 それでも、乗船前、海難を予想したのか、全員カツオ節を首から紐でぶら下げていた。中には海中でかじったのか原形の欠落したものも多く見られ、上陸後も放そうとはしなかった。こうした難民を小学校に収容し、布地やバッキャ(板で造った突掛)を持って行った記憶がある。
 十九年十月一日、現地の邦人男子の大半は現地徴集で陸軍に入隊。残ったのは婦女子と老人や子供、それと一部の特殊任務にあった徴集除外者になった。それまで百三海軍軍需部セブ出張所に現地嘱託として勤めていた私も、陸軍大西部隊に入隊した。
 軍の陣地放棄、転進と同時に邦人たちにも北部に退避の軍命が出された。軍が撤退するに当たり、徴兵除外された邦人も、義勇軍が結成され参入を強制された。
  惨酷・非情な命令下る
 婦女子たちの内訳は、戦前からの在留邦人、前記南洋諸島からの引揚者、近隣の島からの転入者、セブ市の料亭や慰安所の従業員である。
 撤退の軍命は出されたが、これら婦女子を統率警護する部隊は最早ない。軍と行動を共にすれば何とかしてくれるという最後の期待と信頼で、部隊の最後尾をまつわりついて歩いた。僅かな荷物を抱え、幼児を背負い、あるいは手を引っ張って必死の脱出行である。
 昼間は執拗な米軍観測機(虻といった)が低速低空で人影一つ見落すことなく飛び回っている。まるで、小魚を狙って空を舞うトンビのように。夜間に限られた移動は苦渋の度を加え、一瞬たりとも生命の危険から解放されることはなかった。
五月中旬になると手持ちの食料も食べ尽くし、ズック靴も破れ、着衣も汗と泥にまみれ、シラミが容赦なく疲れ切った体をさいなむ。母乳も出なくなる。マイスをすりつぶして乳児に与える。
 進行の速度も遅れがちになり、追尾する米比軍に迫撃砲の猛攻を受けることもあった。軍からは一粒の米、一さじの塩の配給もない。夜を撤して、山から谷、谷から峯への逃避行で疲れ果てる。登り坂になると、荷物を首から吊るして四ッ這いになって喘ぎながら登る。母親のその姿を見て、子供も四ツ這いになって後を追った。
 暁闇の一時を見て、マイスをあさり、水を求め、野草を摘んで雑炊を作り食事をとる。塩気のない食事ほど味気ないものはない。体内から塩分が消えると、夜間目が見えない鳥目になる。体力も日毎に衰弱してマラリヤに罹り易く、回復もしない。昼間は岩陰や林の中に潜んで飢えと病魔に耐え忍んだ。
 ある日突如、「十三歳以下の子供は皆殺せ」と、貨物廠の青木大尉の命令が伝達された。(一説には命令の起案者は深間軍政長官という)
 飢えと渇きに泣き、病に呻吟する幼児をなだめるすべもない。また昼間陽の当たる所に出たがるのも本能である。戦いも極限状態となると上級者ほど臆病になる。敵の観測機は人声までキャッチするとか、小さな音でも捕まえると推量だけで判断するようになる。
 邦人の行動は軍の足手まといとなるばかりでなく、軍の作戦秘匿を暴露するということが表向きの殺害命令の理由になった。その一方で慰安婦や一般婦人を山中妻として身辺に侍らせ、米飯を食べ、荷物はすべて兵隊に背負わせて、無謀な命令を次々と発する隊長も少なくなかったと聞く。
 殺害命令を受けた親たちは、我が子を絞殺するか、抱いて手榴弾で親子爆死する以外手段がない。我が子を殺せない親は、兵隊に子を渡さねばならなかった。犠牲児の多くは兵隊の銃剣によって刺殺されたのが実情である。地獄の修羅の巷が多くの邦人の前で現実に行われた。
 沖縄出身の上原雪さんという三十歳過ぎの独身女性が戦前からセブに住んでいた。(沖縄港川在住)彼女はレイテ島オルモックの伊藤バザーの長女レイ子さんを、セブ小学校に勉学のため預っていた。預った以上、自分の命にも代えても守らなければ、という責任感が雪さんの胸を締めつけた。
 意を決した雪さんは、夜間兵隊の目を盗んでレイ子さんと二人で集団から抜け出した。雪さんもマラリヤで苦しんでいたが、必死に食を求め、山中を坊浪することになった。幸いレイ子さんは元気だった。雪さんを助け二人でマイスをとり、水を汲んで、日本軍の遊兵の近くを離れずくっつかずの日々を終戦まで過ごした。終戦後レイテ収容所で、フィリッピン捕虜第一号の伊藤夫妻に再会、無事手渡した。(伊藤さんは取引先で懇意、雪さんとは戦前からの知人で、戦後沖縄で再会した)
 レイテ収容所で手島さんに会った。彼は戦前、私の勤めていた会社の隣で営業していた東京バザーの古い店員であった。
手島夫妻も男児一人を連れて邦人集団と行動を一緒にした。殺害命令を受けた夜、婦人と涙の相談を数時間かわした。一度は死ぬなら一家心中をと決めた。それでも諦め切れず、「死ぬのは何時でも死ねる。どうせ死ぬなら逃げ出そう」と決心して集団から脱走した。
 一家は軍隊を恐れて単独行動をとり、洞穴に隠れ、密林に潜み数十日を過ごした。これ以上耐え切れない生活の破断界を迎えた。その時、日本軍を追尾して来た米比軍が岩間の隠れ場所近くを通りかかった。声高に話す比兵を見て、現地語の堪能な彼が飛び出して、「ハポン・シベリヤン」(日本の民間人だ)と叫んで助けを求め、無事救出されたという。
 開戦時の邦人収容所で四カ月間、ともに過ごした子供たちである。オカッパ頭の少女、日焼けして元気で飛び跳ねていた少年たち、お互いに親しくなり、からかったり、抱きつかれたりの毎日だった。当時の一人一人の顔と動作が今も鮮明に瞼に浮かび、胸が痛み、涙が滲む。四十数年前の悲惨な現実である。
 米軍上陸時、セブの日本人は総計一万四千人あまり、そのうち終戦時米軍に収容された者、約八千五百人。戦病飢死者、約五千五百人とされる。
 子供たちの幾人が無事、祖国に帰還したであろうか。中には親を失って孤児となり生き延びた子もいるだろう。
 戦火の山中に、灼熱の大地で犠牲となった子供たちの収骨もされていない。南十字星のまたたきが静かにささやきかけて、子供たちの霊を慰めてくれることを祈る。 (終り)

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