「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録11

更新日:令和8(2026)年9月2日(水曜日)

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私の従軍記 大矢 政雄(三山・73歳)

  万歳
 昭和十五年の初夏、三共の入り口に当る宜昌(ぎしょう)で、揚子江の渡河作戦に参加した。川幅二千米の敵前上陸は、月明に光る剣尖、耳元を掠める小銃弾、時おり閃く花火のような曳光弾の中、敵弾にたいして無防備な木製の上陸用舟艇を、仁王立ちで操船する工兵に運を託す、緊張の時間であった。上陸地点の船の中は工兵隊の戦死者が転がっている。絶間のなく聞える、特徴的なチエッコ機銃の断続音、夢中で川に飛び込み土手を目指して駆け上がる。月は曇って来てあたりは暗く、何処から弾が飛んで来るか全く分からない。激しい銃声と中国兵の叫んでいる声のみが聞こえる。凹地らしき処に伏せて次の命令を待つことしばし、私の背中の当たりで、ブスッと言う音がしたかに思うと、隣で仰向けの戦友が突然「万歳々々」と叫ぶ。「どうした」と声を掛けるが返答は無く、「万歳」を言い続ける声は段々微かになる。私は「衛生兵!軍医殿!」と呼ぶが、それも敵前で圧し殺した声しか出せない。おりしも前進の命令が聞こえ、後髪を引かれる思いで彼を残し土手を這い上がる。敵は後退したらしく遙かに銃声が聞こえるのみであった。前線部隊が稜線一体を占領し、明け染める頃やっと背嚢を下ろして驚いた。背嚢を通過して、括り付けた軍靴の踵を、右から左に銃弾が貫いていた。其の弾が戦友の命を奪ったのだ。もうすこし低ければ我が身にと考えると震えた。あの戦友が身代わりとなって呉れたのだ。大隊長当番として優秀で、人なつっこい良い男だった。戦後、兵隊は、戦死の時「お母さん」と呼びながら戦死していったと新聞雑誌等に言われたが、あの戦友の「万歳」の声は、私にとって生涯忘れられない痛恨の記憶である。
 背嚢の中で銃弾が貫いた歯磨粉の鑵を、今も大切に保管している。
  逆襲
 陽も上り、銃声も疎らになった。本部よりの命令「一部を残し他は前面高地に進出せよ」を中隊に伝言に行く。山頂を占領している部隊はいったいどうして登ったのか、道も分からない切り立った岩山の、木から木を伝いながら夢中で山頂を目指す。任務が終り、直立三百米余の摩鶏山から眼下に滔々と流れる揚子江を見て、身の竦む思いに、よくもこんな急峻堅固の場所を占領したものと敬服する。逆襲に備えて、我々に前面の稜線へ前進命令が出たのは夜九時頃。月も無く真っ暗の中、黙々と山を攀じ登り、ずり落ちそうな急な稜線の斜面に辿り着いたのは、移動を開始してから二時間位だった。零時を過ぎる頃、それまで散発的であった銃声も曳光弾を交え急に激しくなる。迫撃砲弾も後方に落下し始め、敵襲も近い。鉄兜の紐を締め直し、剣を小銃に付け、手榴弾の引き金を確かめ、迫兵戦の準備をし、前方を擬視する。突如、左翼百米附近よりけたたましい機銃音に交じり、減声と共に「えぇ・やぁ」と鋭い斬合いの音が聞こえた。敵襲だ、銃の安全装置を外し、身構える緊張の一瞬、鉄兜の上で鈍い音がした瞬間、隣に伏せていた戦友が呻きだした。「肩が、肩が」と叫ぶ。銃弾が貫いたらしい。前面の警戒から、声を掛ける余裕もない。暫くして左翼の方も静かになり、銃声も間遠くなったので、戦友を肩に、弾の来ない鞍部まで下げて寝かせ、衛生兵に後を託して元の場所に戻る。その後時折銃弾が聞こえるも、襲撃の気配は無くなり、暁を迎える。戦友が心配で急ぎ寝かせた場所に来て見れば、横になっているものの、応急手当の為か、元気でほっとする。やれやれと、昨夜来冠り続けた鉄兜をとって驚く。鉄兜の真上にぽっこりと大きな窪みがある。鉄兜に当たった弾が撥ねて戦友の左肩を貫通したらしい。上陸時と昨夜と、二度までも私は危うく死線を脱したが、私の身代わりに戦死・戦傷と二人の犠牲者が出た。野戦病院収容の為、船着場で「早く直して帰って来い。」と励まし別れた戦友は、遂に原隊復帰はしなかった。その後、敵の動きが見える前方の山で陣地を築き、対峙すること一年余、その間数々の作戦に参加したが、此の鉄兜は私の守り神として冠り続けた。
  内蒙古の思出
 第一線の歩兵の三年の後、二度目の召集は衛生隊(患者収容隊)で始まった。先の除隊の時、救急・衛生法の特訓を受けた為らしい。黄河渡河作戦は後方部隊でのんびりしていたが、戦闘が始まると負傷者救出の為地雷原を突破する等、やはり緊張の連続であった。炎熱で水筒の中はつねに空っぽ、簡易濾過器で泥水を呑んだせいなのか、下痢高熱に悩まされ、無念にも戦線離脱のやむなきに至る。回帰熱(四十度の熱が一週間置きに出る)と診断され、奉天(藩陽)の病院で百日余の療養を余儀なくされる。遙々内蒙古の大同まで原隊復帰はしたものの、本隊は解散し、新設の工兵隊に転続された。穴堀り作業や、上陸用舟艇の操作等の毎日、ダイナマイトを恐々触って嘗めてもみた。しかし、厳しい訓練の合間に聞く木村部隊長の考古学の話しが楽しかった。初秋の蒙古高原の、あくまで澄んだ空の下で聞く何百万年と言う単位の、未知の世界の話であった。その隊長の指揮で、訓練を兼ねて、大同の西二〇キロの雲岡の石仏を尋ねた時の感激は終生忘れられない。山を刳り貫いた十数米の座像、その巨大さには息を呑んだ。他の窟の内部は三層四層になって、各階に窓を設け、仏の顔を拝せる様になっていた。こんな窟が大小四〇数個あると言う。隊長の詳しい説明は感銘深かった。千数百年前にこんな素晴らしい彫刻群を、仏教信仰と時の権力者の威令が如何に強力かが分かる。興亡激しい中国に於いて、よく長い間戦火に合わなかったものだなど想いながら、武装しての往復四〇キロの道のりも足取りは軽かった。其の後ゲリラによる火力発電所冷却塔の爆破事件・敵上陸阻止の為の、上海までの大移動が待っている、昭和十九年の秋の事だった。
  赤い花
 宝塚歌割団の慰問の日、皆嬉々として会場に集まる。何年かぶりで見る美しい日本の女性、県公舎の庭に腰を下ろして開演を待つ。懐かしい歌曲の数々にうっとりとして一曲終わる度に万雷の拍手、此処が戦場である事すら忘れて望郷の念を強くする。フィナーレの「花言葉」、「咲いたら上げましょあの人に」と歌い乍ら投げた赤い花を夢中で拾った。参列の県知事を始め、要人(中国人)も一緒になって拾った。その嬉しそうな顔を今も思い出す。終戦直前の七月、上海郊外の城壁のある町での午後であった。歌劇団の人は抑留されたとか人伝に聞いたが、無事帰国出来ただろうか。
 あの嬉しそうな顔の中国人はどうしただろうか、日本軍に協力した事で漢奸として処刑されたのだろうか。テレビ・ラジオで「花言葉」のメロディーを聴く度に、あの花を投げたシーンと、花を拾って嬉しそうに笑っていた中国人の顔を思い出す。
  終戦(敗戦)
 「広島に新型爆弾が投下され、ソ連が参戦した、部隊は直ちに北方に移動する」と、命令が出たのは八月十一日の夕方の事であった。工兵部隊は色々の機材が多く、その輸送準備に忙殺され、十四日朝ようやく軍用列車に乗る事が出来、夕刻南京駅に到着する。十五日早暁より揚子江の渡河、浦口駅で乗車を待っている時、陛下の放送があると告げられ、全員集合。着剣捧げ銃の姿勢で、駅長事務室からのラジオ放送に耳を澄ます。初めて聞く陛下の声は、雑音が多く聞き取れない。戦局重大のおり、一生懸命やれと言われたのであろうと、それよりも兵士達ほ次の戦場は何処か、「ソ満国境」か「内蒙古」かと、気にしながら列車にのる。二時間余北上した停車駅で、警備兵から日本は負けたと知らされ、愕然となる。同じ車両の将校の顔色の変わるのがよく分かる。五月上海で配属通信隊の無線機で「フィリッピンではもはや組織的抵抗は無く、山下部隊は山中に彷徨している」という敵放送を偶然にも聞いた時は、そんな馬鹿な、デマ放送だと一笑に伏したが、やはりあの放送は真実だった。天津駅で北方移動作戦は終わる。半日早く出て内蒙古「張家口」に到着した部隊は、引揚日本人護衛に当り天津に引返し、本隊に合流した。張家口在留那人は、僅かな時間で乗車しなければならず、慌しく混乱した中で、遊びに出た子供を捜すことが出来なく、後髪を引かれる思いで乗車した人も沢山あった。萬里の長城あたりで張家口の町が見えなくなる時、涙ながらに我が子の名を呼び続ける母親も居たと、護衛して来た戦友から聞いた。残留孤児のニュースを聞く度にこの事を思い出す。現地召集者は除隊させられ、米軍本隊が到着した。街を我が物顔にジープで疾走するアメリカ兵、大きなタイヤを十数個付けた輸送用車両、物量の違いをまざまざと見せ付けられる。米軍より一週間位送れて中国軍が到着した。その入城式を工場の窓から見ると、草鞋履きでよれよれの軍服、弾薬運搬の天秤棒の群れ、ばらばらでお世辞にも威風堂々とは言えない姿、こんな部隊に「なぜ」の感が深い。中国軍が到着してから日本人婦女子に対する暴行掠奪の噂が絶え間無く伝わり、私の居る工場にも近所の二家族が避難して来た。終戦でなく、敗戦という現実の痛みがひしひしと身に伝わった。
  接収・引揚
 中国軍の入城と共に、日本軍の自動車電装品の修理専門であった工場は中国軍に接収される事となった。厳しい軍服の接収員は工場長以下全員を集め、「蒋介石大元師の命により此の工場を接収する。」と宣言をし「設備・在庫」の目録の提出を命じ、全ての移動を禁じた。門扉には、軍命よる接収工場につき立入禁止の大きな掲示が張り出された。それまでも近隣の中国人は皆親切で、掠奪などの心配は全く無かったが、これで中国軍人の不法侵入も避けられた。昼夜兼行で「接収目録」を作成し、役所に持参すると、かつての学者部隊長木村大尉が居られ、書類はすんなりと受領して貰えほっとする。召集時、身の回り品は全部内地に送ったので、菓子屋の主人が中国服を貸してくれたり、中国残留を熱心に勤めて呉れたりした。しばらくすると八路軍が天津周辺を包囲して、国民党軍との戦闘が始った。八路軍に参加を勧誘するビラが公然と見られる様になり、あそこの部隊から何名とか、また何処から何名と、はては従軍看護婦までも八路軍に参加したとの風評が立つ。中国人ボーイも「八路来、八路来」と脅えて郊外の住居に帰らず、工場に泊まり込む。日本人の工場に勤めているので、利敵行為として処刑されるのではないかと心配なのだ。十二月半ばに、突然、帰国指令がでた。まだ女子供の誰も帰国しない時であり、若い独身の男子ばかりであったので、纒めて満州に送られるとのデマが飛んだ。荷物検査のアメリカ兵は「ウォツチ、ウォツチ」と時計や金目の物を取り上げる。腕には数個の腕時計をつけている。乗船場「塘沽」で下車のとき、日本から引揚げて来た中国人が大挙して我々の荷物の掠奪をした。監視の米兵はそっぽをむいてなにもしない。割り切れないが、「負けた」という悔しさと無念さを実感した。米軍のLST(上陸用舟艇)に乗船後も、船倉の冷たい鉄板の上で、このまま葫蘆島(満州)に連れて行かれるのではという不安と、帰国の嬉しさの入り混じった複雑な思いの連続だった。三昼夜程の航海で佐世保の山を見た時は、万感交々胸に込み上げ、ただ涙のみ、今まで以上の困難が待っているのも知らず。
 早い帰国は八路軍に屈強の若者が走らない為の軍事的配慮だったのだ。
 

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