「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録10
青春の晩年 大森勝美(高根台・65歳)
昭和十九年の春、東京の旧制専門学校に在学していた私は満十八才、今は、君津市に編入されている小櫃村へ「援農」に動員されていた。農家に分宿して農作業を手伝うのである。われわれの年代は、中学三年から農繁期ごとに援農に行かされていたから、かなり慣れているとは思っていたが、農作業というのは田ごと、畑ごとに条件が異なり、内容が違った。大飯くうばかりで、ちっとも役に立たない――そんな陰口も聞こえていた。
夕食の後は一室に集まって、自習や輪読をすることになっていたが、あまり身が入らず、すぐに雑談になってしまうのが常だった。そんな夜、だれかがいった。
「人生僅か二十年、しからば我々はすでに晩年である。青春にして、かつ晩年……」。
前年、文科系学生の徴兵猶予が停止され、同級生からも臨現―臨時徴集現役兵として営門をくぐる者が何人もあった。まだ、学徒出陣という言葉は一般的でなかった。同時に徴兵年齢の切り下げもあり、五体満足な私の入営は時間の問題であった。
戦局の推移は、新聞、ラジオの発表でしか知るすべはなかったが、ヒソヒソと伝えられる裏のニュースには、明るい材料は一つもなかった。同級生の中に大東塾とか振東塾とか、右翼団体に関係している者がおり、中野正剛自刃事件の前後などは、ひどく興奮して警察に泊められたりしていたが、そういう友人が持ち込むニュースは、なぜか真実味が感じられたものである。
そういうときだけに「青春の晩年」という言葉は私の胸をえぐった。当時は、新聞、雑誌の論調も「死を鴻毛の軽きに比し」、「草莽の微臣」が「死中に活を求め」るなど、悲愴で空疎な言葉が乱用されており、少々のアジテーションでは感動しなくなっていたが、この「青春の晩年」には完全に参った。
私としても兵役即戦死とは考えず、一縷の生還の望みは捨てていなかったが、学校教練でも対戦車肉迫攻撃(爆雷を抱えて敵戦車の下へもぐりこみ破壊する)が主要な課題として訓練されており、アッツの「玉砕」、ガダルカナルの「転進」などの戦局から見ると、やはり、死は避けられそうもなかった。日、一日と戦局が緊迫する中で、人生僅か二十年……はひしひしと実感させられた。
晩年をいかに過ごすか――少年が晩年に短絡する以上、晩年が死に直結するのは、論理の帰結ではないか。晩年を美しく過ごす、それが、美しく死ぬための前提である。
私たちは肩をいからせて、そう語りあった。悲愴感に酔っていた。酔わずにはいられなかった。
援農が終って、二週間ほどは学校へ戻ったが、こんどは横浜ヨットという鶴見の木造船工場へ動員された。ベニヤ板のボートに自動車エンジンをとりつける作業である。このボートに爆雷を塔載して、敵艦船に体当たりするのだと聞かされた。
「これはイチコロだな。人生は二十年もたんかもしれん…」
「草むす屍ならまだいいが、これはミンチになるな…」そう語りあった。
タバコを覚えたのはここである。未成年の学生にも配給があった。初老の徴用工からオイチヨやコイコイなど花札遊びも教わった。
次々と友人は入営していった。しょっちゅう壮行会が開かれ、乏しい食料を持ちよった。特配の酒に酔って最後に歌うのは、きまってこの歌であった。高峰三枝子の「湖畔の宿」のメロディーである。
きのう召されたタコ八が
タマにあたって名誉の戦死
タコの遺骨はいつ還る
タコには骨がない
だから遺骨は還らない
支那事変が始まったのは小学校六年生であった。町内から出征した兵士が戦死して「無言の凱旋」をするとき、六年生は整列してそれを迎えた。戦争が大きくなるとそんな行事もなくなり、遺骨箱には紙切れ一枚しか入っていないと知らされるようになった。どうせ我々の遺骨も還らないのだ。タコと違って我々には骨があるけれど、それは帰還することがないのだ。甘く、切ない「湖畔の宿」のメロディーにのせた替え歌は、私たちの胸にひびいた。
そして入営、陸軍特別甲種幹部候補生として前橋陸軍予備士官学校に入った。前予士は、榛名山麓、相馬が原にあった。いま陸上自衛隊の駐屯地である。
入校早々、生徒隊長がいった。
「お前たちには、小隊長として死んでもらう。小隊長としての死に方と、小隊長として必要なことだけを教える……」。
起床から消灯まで、ラッパと怒声に追いまくられる毎日が続いた。舎外では徒歩厳禁、必ず駆け足である。入浴にも走って行った。就寝前の一刻、号令調声があった。営庭で大声を張り上げて号令の練習をするのである。暗黒の空に向って、
「ショージュンテンゼンポーイッポンマーツ(照準点、前方一本松)、ホーコーレー(方向、零)…」
方向零は方向角、零度の意味である。それぞれ勝手に砲撃諸元を砲側に与える号令をどなっている。通信中隊の候補生は、イトー(伊藤)、ロジョーホコー(路上歩行)、ハーモニカ、ニューヒゾーカ(入費増加)と、モールス符号の合調音をわめいていた。前予士は、歩兵と砲兵(山砲)の予備士官を養成するところだが、歩、砲兵の通信隊ではモールス符号を合調音で覚えさせた。前記の伊藤、路上歩行……はイロハニである。
ちなみに、歩兵の連隊通信隊では、0から9までの数字を、レノフラヨツロナホキに置きかえ、三字で一語を形成する。例えば、ナツフ・レラキ・ロフヨと受信すれば、752・039・624 である。これに乱数表の指定された数を加えて、904・568・422 となったとしよう。これを暗号書に照らすと「敵、戦車、来る」となるのである。このレノフラ…を略数字といい、初年兵は、一分間に六十字送受信できるよう要求された。最も簡単な乱数暗号である。
号令調声は切ない一刻であった。体も頭も動物的になって、何も考えない習慣が身につきつつあったが、こういうときはなぜか、涙がこぼれるのだった。
在校期間一年の予定が、八か月に短縮されて卒業、見習士官になって富山の歩兵補充隊に配属された。見習士官手当十六円、戦時加俸二十円、三食つきで三十六円の月給と喜んだが、インフレの進行も、国民生活の破綻も、営内では知るよしもなかった。
昭和二十年春、大本営は本土決戦を決意して大動員をかけた。富山の補充隊でも、十日おきくらいに入営、応召兵があった。それがどうだろう!営門の前で外套はおろか、上着からズボンまで脱いでは付添いの家族に渡し、裸一貫で入営してくるのである。私たちが入営した当時は、学生服なり国民服なり、それなりに身なりを整えて入営したものだ。それがいま下着で営門をくぐる――、あれから一年もたっていないのに!
生活の窮迫と人心の荒廃が、この一年で加速度的に進行したことを思い知らされた。入営すれば軍服を着せてもらえる。だから、地方(軍隊に対する一般社会のこと)の服は家族に残そう。そこまで深刻になっていたのである。
軍隊にも兵器はなかった。陸軍の対戦車砲の主力は九四式37ミリ砲といったが、アメリカの主力戦車・M4に対しては歯が立たないことが実証されていた。それで、予備士官学校では九四式も習ったが、一式自走47ミリ砲という新兵器の操作を教わってきた。ところが、富山の補充隊の歩兵砲中隊には、一式はおろか、九四式すら一門もないのである。少し前に編成されて、千葉県の九十九里浜の配備についた部隊が全部持って行ってしまい、その補充がついていないというのである。
私は、三九式し重車という荷車に丸太を一本しばりつけ、それを速射砲に見立てて、初年兵教育を行わなければならなかった。
間もなく金沢の部隊に転属となり、立像寺というお寺に宿営した。毎日、強制疎開家屋の取りこわしと掩体壕の作業ばかりで、演習らしい演習はできなかった。そして八月二日、再び富山へ派遣された。富山がB29の大編隊の空襲であらかた焼け、その跡片づけのためである。これを軍隊では「道路啓開」といった。神通川の河川敷で、身元不明の死体をいくつも焼いた。八月十五日の放送は、宿営していた旧制富山中学で聞いた。呆然自失、涙も出なかった。その夜、地区司令部から初老の中佐が来て
「承詔必謹である。軽挙妄動するな…」
といって帰ったが、なんのことやら、さっぱり理解できなかった。これからどうなるのか不安だが、ともかく生き残った…その思いだけで、「軽挙妄動」など思いもつかなかった。
二十日、金沢に帰り、師団兵器部の倉庫に入った。倉庫はからっぽだった。そして八月一日付で、陸軍少尉に任官していることを知らされた。
それから四十年以上たったある日、富山県庁から照会があった。戦後、結婚するまで、私の本籍は富山県にあったからだろう。
「昭和二十年八月一日付で正八位に叙せられていますが、御存知ですか。」
「いや、全然知りません。」
「では、位記をお持ちでないのですね。」
「もらっていません。」
「改めて位記を発行すれば、受けとりますか。」
「くれるものなら何でももらいましょう。」
というようなやりとりがあって、間もなく昭和二十年八月一日という日付けの入った紙切れが送られてきた。
いつ、どこで、どんな形であれ、十中八、九は死ぬことになるだろう、いや、死ななければならない…。そればかりを思い続けた青春の晩年の二年間。ときには眉を上げ、肩をそびやかして自らを昻揚させた、しびれるような緊張の連続。
その残照であるかのような「叙正八位」の位記を手にして私は思う。あれが青春の晩年であったとすれば、いま生理的な晩年にあって、いかに青春を燃やすべきか、戻らぬ青春をいかにすべきか…と。
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