「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録09
軍隊と青春 大村 徳太郎(藤原町・71歳)
兵隊検査と入営
三月生れの私は、昭和十四年六月の日曜日に、牛込区役所内で麻布聯隊区の兵隊検査を受け、その結果は「第一乙種合格」となり、昭和十二年に盧溝橋から発した日中事変の拡大で、軍隊に入営するかしないかの境目でした。それから二カ月ほど経った日に、区の兵事係よりの呼出しで窓口に出頭しますと、私の手に「第一乙種合格・現役編入・大村徳太郎・兵科野戦重砲兵・麻布聯隊区司令官」と書かれ、角印が押された紙を渡されました。私は昭和十四年兵としての出発の日でした。
それから何週間か過ぎて、一通の書状を手にいたしました。内容は「十二月十日午前九時、世田谷野砲第一聯隊に入営」の通知書でした。それからの私は、勤務先や街の友と青春をいかに有効に発散するかの日々で、毎晩のように新宿の街をブラブラしましたが、入営の日は刻々と近づいてまいりました。
昭和十四年十二月十日、入営の日を迎えて母の心のこもった赤飯の朝膳に、家族とのしばしの別れ、いや永遠の別れになるかも知れない食事を済ませ、隣組の皆さんや町会の役員、愛国、国防婦人会の方達の見送りを受け我が家を後にしました。国鉄の新宿から渋谷で玉電に乗換えて三軒茶屋に着いた頃は、坊主頭の若者が集まり聯隊の営門に向って歩を進めておりました。午前九時、係下士官の「入営兵は直ちに集合」との声に、私は愈々緊張した気持になり、見送りの家族や親戚にお礼とお別れの挨拶をして集合しました。注意の後下士官に引率されて営内に入り、点呼を受けた後、中隊毎の編成となると私の隊は道場の仮兵舎に落着き、班付の上等兵が紹介されて簡単な注意が終ると服装が支給されました。支給された物は体に合わずとも、軍隊は支給された物に体を合わすことになっているそうです。
それから身体検査があり、私は異状がなく確実に入営と決まりましたが、この日入営した兵隊は外地に行く編成部隊とのことでした。翌日からは班付上等兵のもとで、徒歩教練や敬礼動作の訓練と、一日おきの予防接種の日々でしたので、ビンタを喰うことはありませんでしたが、点呼が終り消燈ラッパが聞こえますと「兵隊さんは可哀想だね、また寝て泣くのかよ」の唄を思い浮べ、無慈悲な起床ラッパの「起きろよ起きろ皆起きろ、起きなきゃ新兵さんは怒られる」で楽しい夢も破られて飛び起きるのでした。
十日間が過ぎた頃になんとなく外地に出発する気配があり、出発の日がわかっても家へは知らせぬようとの厳命はありましたが、二十四日に芝浦港からの出発がわかると、初年兵はそれぞれ何等かの方法で自分の家族へ知らせていました。私もなんとか家に知らせはしましたが、二十二日に北支の原隊から初年兵受領として津金沢少尉と上等兵が一名来ますと、今までの上等兵と交替しましたので「いよいよ外地に出発するのだなあー」との思いを強くしました。
外地に出発
二十四日午前八時に集合がかかり、留守部隊長の訓示があった後「出発」の号令で編成順に行進が始まり、留守部隊の将兵が整列して見送る中を、私達初年兵は胸を張って営門を出ますと芝浦港へと向いました。
芝浦港に着いて見ますと、広場には野砲隊だけでなく各隊の初年兵が集結し、お茶の接待には愛国、国防婦人会の皆さんが待機し、学生の音楽隊も見送りに来ておりました。私にも思いがけなく母と妹が見送りに来てくれましたので、三人で一緒に昼食を食べることができました。「乗船は午後三時」との伝達があり、それまでは自由行動となりました。私はこの時に苦労を共にする戦友稲木君と出会ったのでした。船の出発が遅れて夕暮が近づいてきましたので、母と妹は帰りましたが、その後の私は稲木君の家族の中に入って美しい妹さん達と歓談しておりました。
午後八時、漸く乗船命令が出ると私達は、出征兵士を送る歌の音楽と婦人会の振る日の丸の小旗に送られての乗船でした。輸送船は貨物船を改造した「ドラゴン丸」と言う大きい船でしたが、船に弱い私は到頭目的地に着く一週間は寝たきりでした。食事当番や不寝番は、船に強い初年兵がやってくれましたので助かりました。船は玄海灘も割合に静かに進み、三十一日に真ん丸な除夜の月が皎々と照る空の下、塘沽の入口に着きますと私達はドラゴン丸とお別れし、待機していたタンカーに分乗して白河を溯って行き、中国大陸に上陸したのが丁度十二時、内地では除夜の鐘を聞き新年を迎える時間でしたが、ここ塘沽ではその鐘は聞えませんでした。ここで内地とは一時間違うので時計の針を修正しました。
大陸に上陸・駐屯部隊に入る
上陸した兵は、仮兵舎に朝まで着たままで仮眠し、午前六時の起床の声で起きると、朝食を済ませ塘油駅から軍用列車で目的地の河南省輝県に向いましたが、昭和十五年の一月一日の朝食は何を食べたか忘れてしまいました。お雑煮でないことは確かでした。
初年兵部隊は特に外から見られないようにとの配慮で貨物車ですが、列車は京漢線を走り、一度石家荘の手前で鉄道爆破の為に十時間ほど大休止しましたが、その後は順調に走り、一月三日の午後に河南省新郷駅に到着し、二大隊の初年兵は下車して新兵舎に入る兵、他の部落に駐屯する者と内地を出帆して共に行動してきた戦友達はそれぞれの任地にと向いました。我が中隊の初年兵約八十名は、隊から迎えに来ていました軍用トラックに分乗し、武装した古年次兵に守られて新郷から約五里奥に入った小さな部落「輝県」にと薄暗くなった田舎道を走り任地に着きました。
兵舎は、街の師範学校跡を利用した建物でしたが、その入口には古年次兵が出迎えの為に並んでいる中を進み、営庭に整列しますと津金沢少尉から帰隊の報告と、中隊長より迎えの言葉を聞き、そして中隊の将校と下士官の紹介がありましたのでその顔を覚えようとしましたが暗くて見えませんでした。池田淮尉より班の編成が告げられ、私は一班に稲木君も一班でしたので心丈夫に思い先ずホッとしました。
編成が決まった初年兵は各内務班に別れ、一班は一号室から四号室の四つに分れていましたが、一番大きな四号室に整列し、一班の大島班長以下の皆さんの紹介がありました。当時ここ輝県にはまだ電気が無くローソク生活で、(下士官室はランプ)私はこのローソクの光の下で勉強や、戦地での軍隊生活を経験することになりましたが、縁とは不思議なもので、私と稲木君はまたまた同じ部屋の一号室に入ることになりました。
中隊の名称は「北支方面軍野砲三十五聯隊第二大隊第六中隊」と言い、隊長は里屋中尉ですから通称「北支派遣星野部隊里屋隊」と言います。班長は大島軍曹、班付に井上軍曹、加藤伍長、先任上等兵は私の部屋の稲葉上等兵でした。先ず直属上官の名、中隊幹部の名を覚えることに努力しました。
野砲隊の馬部隊の日課は忙しく、その忙しさの中で暇を見つけて洗濯や勉強でしたが、戻れない青春を御国の為に闘う日はいつ、これから何年戦地に、いつ内地に帰れるだろうか、とのことも時には脳裏をよぎります。生れてから馬に触ったことのない私、馬の取扱いは苦手で馬に馴れるまではひと苦労でした。毎晩日夕点呼後に古年次兵の教育があり、いろいろな教育には必ずビンタがつきものでした。軍人に賜りたる勅諭、作戦要務令の暗誦や銃剣の手入れ、襟布や靴下の取換え、班長や戦友の用事のこと等、ビンタを取る理由は忙がしい初年兵の身の廻りにはいくらでもありましたが、私は稲木君と相談して要領よく日課をやるようにした為か割にビンタの数は少ない方でした。
輝県に来て三日目の一月六日の夜半、非常呼集ラッパの音で飛び起きて服装を整えていますと、早くも班長から「初年兵は軍装を整えて内務班で待機、古年次兵は営庭に集合」とのこと、戦地ですから敵襲は当然のこと、内務班で待機して居る初年兵の耳には、靴音高く営門を出て各部署に向う古年次兵、静かな夜に遠方で聞える銃声、守備についた我が軍が応戦する十センチメートル榴弾砲の音、始めての敵襲と砲声と銃声にまだ実弾を撃ったことのない自分達は内心ビクビクでした。何時間いや何十分だったかも知れません。銃声も砲声も聞こえなくなり、敵も引揚げたらしく中隊の古年次兵達も帰って来ました。「ご苦労様でした」と言いながら部屋に座ってきた古年次兵の身の廻りを片付けている時に、戦友は「敵さんは初年兵が来ると必ずと言ってもよいくらい襲撃して来るのだよ」とのことでした。
軍隊は健康には厳しいところで、特に中国大陸は水が悪くて生水を飲むと必ずと言ってよいくらいに腹をこわします。初年兵が喉が乾いてついうっかり生水を飲んだところを見つかりますとビンタが飛んできます。体をこわしては、いつ出動命令が来るかわからない戦地では役に立たないからなのです。
分科の選定と一期の検閲
野砲隊の分科には観測・通信・砲手・馭者とがあり、初年兵はその中のどれかに属することになります。私は馭者に、稲木は砲手にと分科は別れましたが、分科が決まってからの教練は厳しさが増し、一日も早く一人前の兵隊になるよう乗馬訓練から併馬訓練と毎日毎日が猛訓練でした。助教、助手が毎朝持ってゆく青竹が、教練が終る頃にはバラバラになるほどでした。乗馬も馴れないうちは内股が赤くはれて歩く時にも痛いくらい、夜古年次兵からヨーチンを塗ってもらう時は飛び上りますが、翌日は乗馬が出来るようになり、古年次兵の経験による手当には頭が下りました。
青年の若さとは言え、厳しい演習にエネルギーを消耗しますので甘味を体が要求してきます。少しの暇を見つけては当時三個入十銭の酒保の鰻頭を買っておき、夜ふとんの中で音のしないように食べたものでした。また一番楽しかったのは内地からの慰問袋が届いた時でした。袋の中の品物を想像しながら、内地の匂いのする袋を開ける時のわくわくした気持は、戦地で経験した者でなければ味わえない気持だと思います。特に女性の手紙が入っていた時には尚更でした。
六月の一期の検閲に向っての猛演習も、一日の聯隊の検閲が好成績で終ってみますと、その苦しみも消えて一人前の兵隊として認められ、古年次兵の教育もビンタも無くなり、更に星が一つ増えて一等兵に進級し、俸給も六円台から八円台となりましたのでありがたいことです。その一等兵の中から成績の良い者が上等兵候補となりますが、中隊(一班から四班まで)で十四名、一班で四名が発表され、私も稲木君もその中に入っておりました。上等兵候補となりますと、他の兵隊の模範とならなければなりませんので今までより一生懸命です。それから勤務(衛兵・厩当番・不寝番)に着くことになり、休日には楽しい外出が出来るようになり、街で青春を発散させることが出来る場所へ行くことができました。そして本来の任務の作戦にも参加出来るようになりました。
移動と作戦に参加
十五年の七月も終ろうとしていた時期に、里屋隊の警備地が変り、輝県を後にして新郷県の新兵舎にと移動しました。新郷は街も大きく遊ぶ所も食べる店も沢山ある楽しい街でした。然し何処でも危険な場所があるので外出の際には必ず二人同行でなければなりません。新郷の軍隊生活も、いろいろとありましたが、十二月十日上等兵に進級の発表があり、一班では稲木、原田、金沢、大村の四名の名が呼ばれホッとしました。早速襟章には星が三つの上等兵になり、俸給も十二円五十銭となって貯金が出来るようになりました。
正月も過ぎ、二月に入ると待ち焦れた初年兵が内地から来ましたので、自分達が迎えられた気持で歓迎の出迎えをしました。内務班の二年兵の上等兵が初年兵教育を直接担当することになります。教育を上手にやらないと年次の古い古年次兵から怒られますので一生懸命に鍛えます。これも敵と闘う時の為と張切ります。
初年兵が来て暫くすると、どこからともなく「今度の作戦は大きいぞ、死ぬか生きるかわからないぞ」とのこと、それは中原会戦のことでした。「中原を制する者は支那を制す」とまで言い伝えられてきた河南省は、平野が多く都市も住民も多く、産物も豊富で交通も便利でした。
中原会戦には、私は特別編成の佐藤山砲の伝騎として参加しました。山岳戦を考えての山砲編成で、秘密裡の行動で一週間の夜行軍が続き、中条山脈の山中に入り黄河附近まで進み、迫撃砲のヒュル、ヒュル、ヒュルと言う音と、狙撃兵の弾のブスッ、ブスッと言う音は経験して帰ってきましたが、帰隊してみると我が六中隊は解散して無くなり、稲木君は満州に私は四中隊に転属となりました。紙面の関係で作戦中の具体的なことは記すことが出来ませんが、私が行く四中隊は湯蔭にありましたので、疲れを治す暇もなく駐屯先の四中隊で軍務に着くことになりました。
転属した直後は居候気分で窮屈でしたが、隊風に少し馴れてきたときに、中隊事務室の筆稿の手伝いをすることになり、割と気楽な日々が続きました。そうこうしているうちに、十六年の九月二十八日に河南作戦が開始され、河南省内の共産匪のせん滅と同時に、黄河以西の鄭州と洛陽への次期作戦への橋頭堡を築く作戦とのことでした。私はまた佐藤山砲の伝騎として参加しましたが、この行軍中に本隊から追われた敵と遭遇し、小部落の中で九死に一生を得たこともありました。この闘いで、敵に向って馴れない騎銃を撃ったのも始めてのことでした。また私は伝騎ですから、ときに隊長の命令で友軍と連絡をとりに行く時がありますが、一人で敵陣の中を通る時の心細さと恐さと言ったら、今でもよく無事だったなあーと思い出されます。
河南作戦も終り、暫く湯蔭で警備についておりましたが、四中隊も警備地が変り、十一月の下旬に京漢線の終着駅の開封の兵舎に移動しました。開封は新郷より大きい都市で、教育も歴史も古く、由緒ある街です。城外にある兵舎に落着いた十二月八日の夜半に非常呼集がかかりました。
大東亜戦争勃発
軍装を整えて営庭に整列しましたが、まだこの時には何が何だかわかりませんでしたが、編成隊が開封市内に行き、米英の施設を押えたことを帰隊した古年次兵から聞き、愈々やったなと思いました。この時から苦しい道に進んで行ったのでした。
昭和十七年の夏に大行山脈周辺の作戦があり、この作戦には第一分隊の後馬取者として参加し、山の谷川を行進した際に落鉄が多くて困ったことと、帰り途で砲を畠に落したことが思い出として浮びますが、この作戦が秋の鄭州作戦につながり、鄭州作戦で確保した黄河の渡河点の要塞「覇王城陣地」の警備に私は駐屯することになりました。
秋も半ば頃に中隊命令で覇王城陣地の警備に着き、約半年山の中腹で暮しましたが、その間に雀を捕えての水ギョーザ作りも、赤犬の肉のカツレツも美味しく食べ、敵の榴散弾が不発の為に助かったことも、十八年の春に警備を交替し中隊に帰ってみると思い出にとどまり、私もいつの間にか四年兵の古参上等兵になっていました。
内地への帰還と除隊
六月に入った或る日、四年兵を除いた中隊の将兵は移動して行きました。南方らしいとのことです。そして八月に入りますと「帰還の為十七日に開封を出発する」と命令が出て私達の内地帰還は本物として心に伝わってきました。当日は軍装を整えますと召集の井上少尉の指揮下に入り、開封駅では各隊の帰還兵と一緒になり、軍用列車で釜山にと向いました。
列車は新郷・石家荘と過ぎ、二十日山海関に到着、万里の長城を垣間見て朝鮮半島に入り、安東を通過して釜山に二十四日の朝着きました。この日に検疫を済ませて船で下関港に上陸した時は、本当に日本の土を踏んだのかと足を踏み鳴らしたほどでした。下関からは客車用の軍用列車で神戸、大阪、名古屋と過ぎ、二十六日に品川駅に到着、列車を降りますと駅前で点呼をした後、徒歩で兵舎に着いたのは東部第二部隊でした。部隊に着くと営庭で留守部隊長の「ご苦労様でした」の言葉の後、割当られた兵舎に入りその夜は内地での楽しい夢を見ることが出来ました。私は三十日に兵長に進級し、この日の面会に除隊の時に着て帰る衣類等を受取りましたが、久しぶりの家族との対面で父が二年前に中風で倒れていたことを知りました。
八月三十一日、現役兵除隊の日の朝、お互いの顔の明るさが心を表し、朝食後の戦時下における留守部隊長の訓示も、右の耳から左の耳へ抜けて奉公袋を手にした私達は営門を後にしました。除隊後は休職中の荒川郵便局に復職し勤務しておりましたが、内地もそろそろ戦時体制の強化の色が見えてきました。
南方の基地が次々と取られ、二十年に入ると三月九日の夜半に下町一帯の空襲に始まり、四月十三日には山の手方面の空襲で我が家は焼かれ、義兄の世話で渋谷の富ケ谷に移って落着いた時に私は赤紙を手にしました。
五月一日に沼田の聯隊に入隊し、二十三日の外泊で我が家の防空壕を改修した夜に渋谷・赤坂・世田谷方面の空襲でまたまた焼け出されて家族は義兄の世話になりました。
隊は野田に移り大隊を編成しますと東京の町田小学校の仮兵舎に移り、敵が相模湾に来襲した場合の対戦部隊としての配置につきました。しかし、広島・長崎に原子爆弾が落下されて八月十五日の天皇陛下の終戦に関する放送で大東亜戦争も漸く終りとなりました。
隊は二十六日に朝霞の小学校に撤退し、三十日に解散となりましたので、親戚の世話で家族が杉並の和泉町に住んでおりましたので其処に帰り、苦労はしましたがお互いの無事を喜び合いました。
この時代に出逢った若者の人生で、二度と戻らない青春を取り戻すことが出来るでしょうか、難かしい課題であると思います。
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