「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録08

更新日:令和8(2026)年8月15日(土曜日)

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昭和の戦争 ~一兵士の回顧~ 江川守久(山手・68歳)

  ―日支事変とノモンハン―
 昭和十二年七月七日、北支那盧溝橋で日本軍と中国軍の衝突が起き、日支戦争の開始となった。一時は協定によって収まるかに思われたが、現地ではどんどん拡大していった。その戦火は上海へ飛び、本格的な戦争へ発展して行き、中国軍は抗戦意力が強硬であったため、日本軍も大兵を送り激戦が展開された。この結果日本軍の死傷四万に達したといわれた。わが国軍は更に増兵し、頑強な敵を破り、十二月十三日に首都南京を占領した。軍のある高官は、「チヤンコロとの戦いは無敵皇軍の手により六カ月で解決できる。」と豪語していた。南京陥落の時は、国中が沸きあがり、当時私は仙台市にいて学生生徒一員として、市の提灯行列の祝賀行事に参加した。ここは第二師団のある軍都なので、この行事は盛大なものだった。
 この後二年して満州のノモンハンで日ソ両軍の衝突が起こった。時に昭和十四年五月、そのときの国内の新聞は、わが空軍の活躍ぶりと陸上では両軍五分五分の戦いと報じていた。戦記本としては草葉大尉の「ノロ高地」などが発刊され、砲撃戦でのわが砲兵の敵に負けない戦いぶりが、書かれていた。無敵皇軍の名に恥じない活躍ぶりを思わせた。しかし真実は、わが軍が初めて恐るべき近代戦争の洗礼を受けたものだった。ソ連軍は歩兵が主兵ではなく、重砲、重戦車が中心で、歩兵は戦車の後からついて来るという戦い方だった。射程の長い重砲を、偵察機による観測でわが軍を砲撃する。わが国の砲は射っても先方に届かないことが多く、わが歩兵は、砲兵の効果的な援護が受けられず、ソ連軍の重戦車と直接対決する戦いとなり、部分的な戦果を挙げたものの、何と一万七千人も死傷する損害を蒙った。この戦いは、ソ連の方の都合もあり、九月十五日に両軍の停戦協定により、終結した。
 昭和の十四年の秋、職場の先輩は、甲種合格により、会津若松の連隊に入隊した。入隊前彼は、懸命に軍人勅諭の「我国の軍隊は世々天皇の統率云々」の暗唱などの勉強をしていた。彼は一期検閲終了後中国の戦線に出征した。それからいくらもたたないある日、戦死の公報が届いた。彼は歩兵の軽機関銃手であったという。全く呆気ない最後だった。その時私は、軍の高官が豪語したように、私の兵役年の頃までに戦争が終結するであろうことを、期待したものだった。
 昭和十六年五月、我々の徴兵検査のときがやってきた。同年の私達一同は、役所の兵事係や、地域の在郷軍人の幹部等に引率されて、町の学校体育館の検査場へ。検査長は中佐の肩章をつけた軍医、その下に下士官兵が若干名いた。その下士官の一人が、「お前達は、民間においては相当な地位にある者もいるだろうが、ここではみな同一に取扱う」と会場を圧するような声で告げる。体格その他の検査のあと、検査長の前に一人ずつ立つと検査長が書類をみて、甲乙丙の判定を告げる。受験者はそれを復唱する。私の場合は甲種を予想していたが、宣告は乙種とされた。同年のもので、甲種或いは第一乙種となった者は、すべて同年の十二月から一月にかけて現役入隊兵として、故郷や職場を出て行った。
  ―日米開戦―
 昭和十六年十二月八日朝、突然ラジオが、軍艦マーチを鳴らし、帝国陸海軍は、米英両国と戦斗状態に入った旨の放送があった。ほーやったかと驚く。大工業国の米国と戦って勝てるか疑問に思ったが、無敵皇軍と称するわが軍部故、何らかの成算があって始めたのだろうとも思った。緒戦の戦いはハワイ攻撃、仏印、シンガポール、ジャワ、ビルマ、フィリピンとめざましい進撃、シンガポールでは、覆面の司令官山下奉文大将が英司令官パーシバルに対する談判で、降伏にイエスかノーかと直言の交渉ぶりで猛将のたくましさを感じさせた。これで東南アジアでの石油ゴムその他の資源を手にし、長期戦になっても、負けない態勢ができたと、一般的にはそう思われた。しかし、ここに敵戦力を軽視する油断の心が生じたのである。
 昭和十七年六月五日、ミッドウェー海戦。この戦いに、わが海軍は、当時世界一の無敵艦隊といってよい陣容をもって、ミッドウェー島攻略と米空母部隊の撃滅のために進撃した。しかし結果は、わが方の正式空母六隻中の四隻と、優秀な一流の空軍戦士(この養成に五年以上かかる)と飛行機三百機の一切が吹っ飛ぶという大敗戦となった。勝ってよいこの陣容の日本海軍が何故こんな最悪の負けとなったか。この原因については、島と米空母の二兎を追ったこと。偵察の軽視、不徹底。先任序列制により航空を知らない将官が司令官になっていたこと。緒戦の戦勝により、敵戦力への軽視とおごりがあったことなどがあげられている。この敗戦により海空の主導権が米軍に移り、日本敗戦への大きな節目となった。
 当時の我々は、軍の報道が、例により兵や国民の意気消沈を恐れての「敵空母撃沈、わが方損害軽徴」式であったため、その重大さを知るところではなかった。
  ―召集令状と入隊―
 昭和十七年九月五日、私に福島連隊区司令部から、郡山東部六十六部隊へ入隊せよとの教育召集令状が役所の係から配布された。この時局下、来るであろうと思っていたものが遂に来た。家では、親類縁者が集まり、入隊祝いとなった。入隊するとうまい物は食えないだろうと鯉料理などしてくれた。父はその時四十九才、東京中野電信隊の軍隊体験があり、軍隊経験がないと一人前の男になれないという考えのようであった。まだ召集のない同級生の友と、町の料亭へ二人で当分の別れということで、飲みにく。そのときもてなしに出た美形の女性が駅まで見送りに出て餞別などくれた。軍国時代とはいえ一寸感激したものだった。出発の日駅前の広場で大勢の見送り人に、通り一辺の国のため、粉骨砕身軍務に精励する覚悟云々の、とつ弁の挨拶をして汽車に乗る。服装はカーキー色の国民服と帽子、父は付添えで同行した。郡山駅前の旅館に宿をとる。隣村の国鉄に勤める人と一緒になり、その知人だという将校が訪ねて来た。今日はよいが、明日からは一寸きびしくなるぞとの弁を聞く。同君は、南方へ出陣し、帰らない人となった。
 五日朝、部隊の兵舎に着く。兵舎の中で衣類を軍服に着替え、着てきたものは、父がそれを受け取り帰っていった。いよいよ今日から星一つの新兵さん。兵舎の棟数は六つ程あり、小銃中隊が主で重機関銃と速射砲中隊が各一であった。私は、その内の重機関銃隊に配属された。当時この部隊は、教育隊のためか、二年兵、三年兵の数は少なかった。重機隊は馬付きの隊であり、馬の世話をしなければならない。馬の扱いが初めての者は大変に思った。小銃は重さ四キロ位だが重機は銃脚で六十キロもあり、又弾薬も大きな箱に六〇〇発程も入って重いため、行軍の際は馬の背を使った。軍馬のなかには、暴れ馬がいて、誰かが胸を後脚でけとばされた。幸い、軽くて済んだが危ないところだった。中隊長は斎藤中尉。教官は、村松少尉で、年は二十二か三位、行軍のとき馬に乗り、一寸得意そうであった。三年程前はただの人が今は昔で言えば上級侍、兵は足軽といったもの故、破格の出世といえる。助手は古川伍長、好人物だった。それから二年兵の森田上等兵は、内務、演習の一切の教育担当であった。一緒に入隊した同期兵の年齢は、現役でないためか二十一才から二十六才位まで不揃いであった。入隊して一日二日はお客さんだったが、三日目頃からうわさのビンタが始まった。声が低い、欠礼をした、ボタンがはずれている等々の理由。何か注意を受けている際のこと、貴様笑ったなとくる。笑いはしませんと答える、図々しい野郎だ、おかしいならおかしくないようにしてやるとビンビンとくる。よろめいても、バネのように、正姿勢に戻って更なるビンタを甘受しなければならない。当時でも一般社会では、かかる暴力制裁はなかった。あれば刑法の暴行罪であるし、腕力が違わなければ、とっ組み合いのケンカになる。俺のやったことに落度があったとしてもなぐることじゃないじゃないかということである。このことは米英軍などではみられない、日本軍独特のことのようであったので、若干掘り下げてみたい。明治以前の日本では、軍は武士の専属的なもので百姓町人は無関係なものであった。戦争は国内の領主連中の土地の奪い合いで、百姓町人は無関係の立場だった。それが明治になり、西欧の近代国家のまねで、国民皆兵の徴兵制度となった。よって百姓町人が軍に入って来る。武士と百姓町人は厳とした身分差があり、武士は百姓町人に無礼があれば、無礼討ちが認められていた。武士道の精神のない百姓町人を一人前の兵隊にするには、この無礼討ち的方法で教育するのが能率的だと、当時の武士あがりの軍首脳が考えたことであろう。しかしこの風潮は軍隊内の上下の間で、人間的な言葉のやりとりの説得による秩序維持の道でなく、「文句を言うな!」「言い訳を言うな!」更なる暴力をふるって言葉を封じ、上長の唯我独尊が幅をきかせることとなった。他国民や異民族に対しても同様なやり方で臨み、アジア人の共栄とか白人の抑圧から解放云々というきれいなスローガンも、絵に描いた餅に過ぎなくなった場合が多かった。
 こんなわけで、国のためとか、天皇のためとかでやらねばの心で入隊してきた新兵だが、つまらぬことで暴行を受けると、その心に冷水をかけられる心境になる。食後、炊事場へ食缶を返しに行くのは新入りの兵隊の仕事だが、炊事場では、当番の古兵が待っていて一つ一つの食缶を検査する。米粒一つでもついていると忽ちに怒声がとび、時にはビンタである。新兵は怖い場所の一つであった。当時一般では、食糧の統制がきびしくなっていたが、軍ではそれ程ではなく、毎日献立が変り、単純な家庭の食事とは違い、質的には満足のいくものだった。しかし何分二十才代の食べ盛りなので量的には不足をいう者が多かった。ここ郡山では、なす料理が多く、なす部隊だと皮肉ったものだった。
 機関銃隊は九十二式重機関銃をもって戦闘する隊である。これは銃身と三脚があり、重さは合せて六十キロの重さ、小銃の四キロと比べると十五倍の重さである。タマは四〇センチ長さのソロバン状のケースに三十発入っているもの。一分間に六〇〇発発射可能の性能をもっている。一銃に八人の兵がつく、射手と弾薬手である。この運搬は、行軍のときは、銃弾薬共馬の背で運び、戦場では銃と脚と分解して、輸送し、陣地に着く前は、銃脚結合して四人又は二人で運び、敵が前に居るときは、ほふく前進して敵地に銃を据える。そして敵に発見されないようにして、不意急襲的に射撃する。

 敵に発見されて集中砲火が飛んでくるときは、被害をさけるため銃を他に移し攻撃を続行する。この重機は、三脚で安定しており、そのうえ、望遠眼鏡がついているため命中率がよく、故障も少ないということで、評判のよい兵器だった。この銃の演習でつらいのは、分解搬送であった。銃・脚を分離して肩に担ぎ、かけ脚で陣地まで運ぶことだ。荷重力があって、陸上競手のような脚力があればよいだろうが、補充兵の体力では大変重荷であった。
  ―軍旗祭と秋季演習―
 在隊中、部隊の最大の祭である軍旗祭があった。式が終って仮装行列があり、教育助手の森田上等兵が着物姿の女装の麗人になって、一同を喜ばせた。相撲大会などもあり、大卒の柔道四段の幹候生がいて、ほかの力持ち連中もそれには勝てなかった。祭なので平常と違うご馳走や酒が出て、平生こわい、下士官、古兵らも今日は無礼構だなどと言って、ゆとりの一日を送れた。

 ほかの中隊だったが、同郷の伊藤という大卒の幹侯生がいて、郡山の市内に姉夫婦がいるから、一緒に行かないかと誘われ、同郷の気安さから同行する。連絡してあったっとみえて、すき焼きなどの馳走を作り、歓待してくれた。彼はその後、比島にまわされ、帰らぬ人となってしまった。同じ部隊に同じに入っても生死が分れる、生きて帰った自分も、その岐路に立っていたのだと思うと、運というものの恐ろしさを痛感する。この死者は、戦後の社会にあいまみえることができなかった。そう思うと痛ましく慰めの言葉が出ない。
 入隊が秋のため秋大演習の時期とかち合った。場所は会津の地、対抗軍は新潟県の高田連隊、途中予行演習をしながら、そして民宿。一戸に五人位ずつである。稲刈りの終った田圃をかけめぐり三日程民宿をする。食糧事情もよくはなかったが、民宿では精一杯の歓待をしてくれ、しばし地方民間の気分に浴することができた。
 この演習の対抗軍のなかの機関銃隊は、奇しくも満州ハルピンの同じ兵舎である第二装甲列車隊に入った連中であった。何百とある教育隊の行く先が、同じ兵舎とは全く奇遇ではあった。後でその一人が、会津の民宿は全く楽しい思い出であったと語っていた。十一月末、教育召集で入隊した私達の、三カ月間の訓練の結果の判定ともいうべき一期検閲が、連隊長立会いのもとで行われた。
 このときは、中隊長と教官は平常と違い、兵と同じように緊張そのものとなる。終ると概ね良好なるも云々という検閲官の講評があった。
  ―臨時召集で満州ヘ―
 一期検閲が終了した。我々は三カ月の教育のための召集ということなので、その字義から言えば、除隊そして一般社会に戻れることと解される。しかし戦局は太平洋戦争開始後一年の時期、果して在隊のまま臨時召集令が発令され、お前達は外地に転属になるとの事だった。行先は知らされない。兵同士の話で、どこに向けられるだろうか、南方か、中国か、満州か、暖かい南方だったら良いナという願望が多かったようだ。どこかへの転属と決って、私等一同整列して隊長に申告の後、三カ月暮した東部六十六部隊の営門を後にした。営門の前まで、中隊の古兵連中が送ってくれた。今まで見られない柔和な目つきで、「元気で頑張ってこいよ」といっていた姿が今もまぶたに浮かんでくる。郡山駅から客車に乗る。同年兵だけの心安い車中であった。転属先は千葉県佐倉連隊で、ここに二日程いて、又転属となり、着いた所は千葉市の鉄道連隊、歩兵の我々がなんで鉄道連隊かと不審に思う。ここで、下士官の大野、竹内、会田氏等と一緒になる。同氏らの弁、又召集になったいやいやどうもと話し合うのを聞く。我々は、初回でやむを得ない気持だったが、支那事変の戦いに参戦して、二年、三年の戦争体験を経て除隊になり、ホッとしていたら又赤紙がきた。同情されることだった。
 千葉鉄道連隊内で、どこ行きか知れない一行の部隊の編成ができた。これには歩兵ばかりでなく、砲、鉄道兵も入っている変った部隊だ。汽車に乗り、東海道線を経て下関に着く。ここで関釜連絡船に乗船する。天船に乗るのは初めて、甲板に出ると船が上下に大きくゆれ高低は二米位もあり、船酔いする者も出てくる。毎日船乗りの海軍さん等は大変だろうと思う。やがて船は釜山港に着く。
 ここでは、夜大きな公会堂のような所で千人程の兵が集まっていて、壮行会があった。内容は、伴奏なしの演芸大会で、のど自慢の者が次々と台上にあがって、当時流行の歌謡曲、そして故郷の民謡等が演じられた。校クラスの人が愛敬たっぷりの司会をやっていた。ここで一泊し、翌日十何両の列車で釜山を出発。この列車は、スチームのきいた客車が二輌で、あとは有がい貨車。時期はもう十二月、朝鮮は内地とは寒さが違う。私等の服装は、内地のカーキ色のラシャ外とうと毛布一枚だけである。一車両三十名位頭を互い違いにしてゴボウを並べたようにして寝る。寒気が身にしみる。昼停車のとき、カラの石油缶と薪をみつけ、車内でこれを燃やし暖をとる車両が出てきた。監督の下士官がそれをみつけ、先任の兵が強く叱られた。このとき程寒い思いをしたことはなかった。車中二、三日しての朝、列車は目的地に着いた。六時頃人声で目を覚ましたら、列車は引込線に入っていて外をみると戦車兵のような革の防寒帽をかぶった兵がチラホラ居た。迎えの兵達であった。寒さに震えて、鼻水をたらし、内地の兵帽子をかぶった私等の一隊が、兵舎の前で整列し、輸送指揮者による到着申告後兵舎に入る。兵舎内はペーチカで暖かだったので、ようやく人心地がついた。この有様を見て居た先輩は、あのときのお前達の様はなかったよと、後で冷かされたものだった。ここは北満の中心地ハルピン市香坊の第一装甲列車隊だった。兵舎はレンガの二階建てと、体育館のような所の仮設兵舎の二つだけ。我々歩兵は、この二階建ての上階に入る。下階はちがう部隊の第二装甲列車隊という。兵舎内は、二段ベットで一個班三十二名入るすし詰め舎内だった。窓際には直径一米高さ二米の円筒形の黒色のペーチカがあり、これに冬季間朝夕石炭をもやす。ガラス窓は二重になっており、これで外は零下三十度になっても室内はプラス二十度前後の温度が保たれる。日本の木造障子戸の住居とは大きな違いだ。班内には、満期除隊前の三年兵達がいた。歩兵三個班、機関砲一個班、鉄道兵二個班、砲兵は別の兵舎に入る。こうして私達の第一装甲列車隊員として二年九カ月の生活が始まった。内地出発のとき落ちつく先はいづこと考えていた処だが、軍隊としては聞いたこともない満州で一カ所の装甲列車隊への入隊だった。部隊長は安士中佐、各兵種毎の長と隊付将校、下士官は内務班長と班付下士官。私達歩兵は落合、猪狩、佐藤の三班長でそれが演習の教育担当でもあった。演習は勿論兵舎外でやる訳だが、冬の服装は内地とは違う。帽子、外とう、脚巻、靴、手袋等々みな防寒用の厚い裏に毛のついたもの。この服装だと零下三十度になっても耐えられる。私等は内地で一期の基本訓練を終了してきたが、この部隊でまた一期訓練のやり直しが始まった。兵の助教は三年兵の兵長であったので、これに口を出す古兵も殆どなかったせいで、きびしい制裁は少なかった。兵舎の野外は、山の見えない平野で、降雪はあるものの積雪は十五センチ前後で、サラサラと乾燥したもの。晴天の日が多く、天空に太陽が輝いているが、殆ど暖かさが届かない日光であった。服装が重いのだが、なれるとそれ程苦ではなくなった。しかし銃の分解搬走は、依然としてこたえた。ここで変っていることは、馬がいないことだ。この隊の移動は列車に乗ってするため必要ないのだ。砲兵も同じで満州でも一般の砲兵部隊は、人の数より馬の数が多い位いたという。当時世界の先進国でばん馬砲兵は、日本とポーランド位で、他は自動車搬送になっていたという。馬がいると、その扱いに多くの時間が、さかれ砲術訓練はそれだけお留守になる。当時の日本の工場水準は、まだ車社会にはほど遠いものであったことを物語るものであろう。十八年二月末、安士部隊隊長の検閲があり、この部隊の歩兵として基本訓練が終了した。
  ―ガタルカナル島戦―
 その頃の戦局は、舎内のラジオ放送設備により、時折大本営発表を聞くことが出来た。戦果があがれば、軍艦マーチのあと「敵撃滅、わが方の損害軽微」等のものであった。当時国民の注視を集めていたのはガタルカナル戦である。二月になっての発表は「わが軍はガタルカナルにおいて敵に相当の損害を与え、所期の成果を挙げたため、この度他方面に転進せり」というようなことだった。
 上陸の米軍を撃滅し、同島の基地を奪取せりではなく、転進という今までにない言葉を使った。一寸変だなの感じがしたが、たいした価値のある島でないなら引き上げるのも戦略のうちだろうと思った。
 しかし、実際はここに我軍は、何回かに分けて計三万一千の陸軍をつぎ込んだが、攻勢限界線を越え、兵と小火器は何とか上陸させたものの、大砲、弾丸、食糧の大半は輸送船が荷揚げ中に敵空軍の爆撃により船と共に海中に沈められたため、我軍は米陣地を攻撃するのに、夜間の白兵銃剣突撃を主とする外なかった。福島、新潟、宮城を郷土とする第二師団は、万余りの兵のうち七六〇〇名戦死又は餓死の損失を蒙った。私の同郷の人々も会津若松二十九連隊に属し、三〇人が帰らぬ人となった。残った一万余りの飢えで戦力を失った兵は、幸いにも退去できたということで、転進というのは、このことであった。孫子の言葉に「敵を知らず、己を知らないものは百戦危うし」とある。我方では、米軍の本格的反攻は一年後の十八年としていた。そのためか上陸した米兵は、二千人位との判断であった。しかしそれは一個師団の大軍で、三十隻の輸送船での本格的な反攻だった。
 米軍はこの兵力で、日本海軍の人力による作業隊二七〇〇人が、五〇日かかって完成したガ島の飛行場を八月七日上陸の上奪取してしまった。
 ガ島戦は、この島上空の空軍力が勝敗を分けた。それは第一に飛行機の数であり、第二に空軍基地から戦場への距離であった。米軍はガ島基地で、ゼロであるのに対し、わが空軍はラバウル基地から九〇〇キロを往復のため、ガ島の滞空時間は二十分足らずしかなかった。
 わが軍の参謀のなかでも、理性的に彼我の力を正当に評価し、早期撤退を主張する人があったが、多くの参謀は神がかりの大和魂偏重主義で、それを臆病者とか、皇軍不敗の信念がない腰抜け侍として排除した。
 しかし、砲や砲弾食糧なくして、大和魂による夜間の白兵銃剣攻撃も、一坪何発の割合で落す圧倒的なロラー砲撃の前では、如何ともなし得ず、多大の死傷者を出すばかりであった。
 補給確保の出来ない場所での戦いをすべきではないとは、古来軍作戦の基本原則であったのだが、物量より必勝の信念あればという、陸大出の軍参謀がこれを犯し、多くの犠牲者を出すに至ったのである。
  ―部隊生活―
 三月、三カ月余り一緒に過ごした三年兵は、それまで指折り数えていた満期除隊の日がきて、喜び勇んで隊をあとにしていった。
 この除隊のあとは私等六カ月初年兵と三名程の二年兵だけとなる。二年兵いわく「今度の除隊兵のかわりに後補充の兵が入ってくる、それが新兵さんなら、お前達は古年兵様だぞ」とニヤニヤしながら冗談をとばしていた。同じく三月、補充の兵が内地から入隊してきた。それは初年兵ならぬ、現役を満期しての再度の召集の方々であった。考えてみれば、隊として初年兵ばかりでは、格好がつかないということであろう。私達はこのため終戦まで殆ど下のない兵で過ごしたが、現役の新古でなく、補充兵と再度召集兵の関係であったので、比較的おだやかな隊生活を送ることができた。
 当時内地は、食糧の配給制が実施され、相当厳しくなってきていたが、ここ満州はそれ程でもなかった。勿論白米のみの銀飯ということではなく麦、こうりゃん、ひえ、きび、大豆等の現地産のものと米のまぜ飯で、こうりゃん飯はどうもという人もあったが、量的にはまあまあのものであった。野菜、魚、肉等は現地調達で、営内に地下倉庫をつくり、そこに保存し、冬季間の凍結を防止してた。食糧の自給は、兵営の近くの畑三歩程に、
じゃがいも作りと、残飯で豚飼育をやった程度である。南方の闘いでは、は、飢えとこれによる病気の死亡兵が全死亡者の七割に達したと言われる。遠い島等で補給ができなくなると悲惨な結果となる。
 私達の部隊は、満州第四三七〇部隊という名である。部隊というと内地では連隊を思わせるが、ここは各兵種混成の四〇〇人足らずの人員で、内地の観念からいえば、三個中隊位というところ。しかし部隊長は、陸軍中佐である。列車の装備は指揮車、歩兵車、軽砲車、十加砲車、十五梱砲車等で昭和九年頃製造されたといわれる。装甲は一〇ミリ程度、外面は緑とその他の色の迷彩がしてある。鉄道沿線の警備用といったところ。これは、内地にはなく、満州でも二つだけの列車隊で、よくも私達はこんな稀少な部隊に入ったものである。
 兵も兵器も列車に乗り、鉄道で移動する。徒歩行軍や砲などの馬力の搬送はない近代的な部隊?ではあった。
  ―ハルピンの街―
 ハルピン、ここは北満の中心都市で人口五十万程、松花江の沿岸にあり、船、鉄道の要衡の地、私たちの隊は、市内の香坊駅の近くにあり、隣りが鉄道三連隊である。市の中心街までは約五キロ位の距離、日曜日には外出が許可され、日常の規則づくめの生活からちょっぴり解放されて街へ出たものだった。汽車で行くときは、香坊駅から十分たらずでハルピン駅へ着き、また徒歩でも、馬家溝、南崗、地段街へと行く。南崗には十字路の中心に、キリスト教の木造三角屋根の中央寺院があり、ハルピンの街の象徴的存在だった。行く先はまず地段街、ここには、大型の軍酒保があり、行列に並び甘味品の配給を受けとることが第一、数が十分ではないためだ。地段街は石畳みの道路でときわ、丸商という五階建程のデパートがあった。そこには、ロシア娘の可愛いい店員もいた。映画館は、平安座、南崗劇場、ロシア系のモデルン、満人系のものもあった。映画は、日本内地で作られたものが、そう遅れないで上演されていた。一度満人系の映画館に入ったことがあったが、そこはにんにく臭が充満していて閉口した。彼等満人はにんにくを常食していて、この匂いは気にならないのだろう。一面街には柳町と呼ばれる一画の慰安街があり、二十戸ほどまとまっていた。それが路地をはさんで両側に並び一戸に五、六人程の若い女性がたむろし、客である殆ど兵の慰安をしていた。女性は大体朝鮮出身。彼女らが「朝鮮、朝鮮って馬鹿にするな、朝鮮だって天皇陛下同じだぞ!」といったという声色をまねした冗言を、よく兵舎内で耳にすることだった。支那、前線の仮設慰安所の話を聞いたことがあるが、ここでは、日曜の外出日ともなると、混雑して長い行列が出きたそうだが、ハルピンではそれ程でもなかったようで、とにかくつわ者共の夢の場ではあった。
 松花江河畔、ここは大きな市民の憩いの場で、河幅は四百米程もあったろうか。相当大きな船も通行でき、遊覧船もあった。河岸の一角では朝鮮系の女性が、何十人も洗濯する様が見られた。彼女らは洗う衣類を棒でたたくやり方で、所変れば方法も違うものだと思う。河は、冬季間は厚い氷にとざされて、人も馬車も通行でき、またスケート遊びもできる。
 キタイスカヤというロシア風の商店街があって、毛皮の商店などが多く、北欧風の雰囲気があった。行き交う人にもロシア人の姿が多くみられた。街をあるいているとロシア人の住宅がときたま目にとまった。ガラス窓越しに見える室内は、小ざっぱりして、色彩的にもきれいだった。満人の住宅とは全く対照的である。欧州の生活風習のせいかと思う。ときにそれらの家から出てくる若い女性に出会ったことがあった。背丈がすらりとして、色は白く鼻高で青い瞳、ハッと息を飲む程の美形である。
 公用自動車で、冬の夜街中を通ったとき、街頭であの寒空の下、ロシアの若者のアベックの群に出会った。なにかのパーティーの帰りでもあったのか男女が毛皮のオーバーに帽子をかぶり、皆一様に腕を組んで同方向へ歩いて行く情景である。よくまあこんなにと驚きであった。
 ハルピンには、大型の上部が宝珠型の教会寺院が数多くあった。ロシア人の造った街といわれれば、成程と思われる。そしてロシア墓地もあり、観光の対象ともなっていて、私達も見に行ったことがある。大理石の墓石に写真がはめ込んであって、周囲は花一杯で公園のようであった。

 軍のある所には、いづこにあっても衛兵を立て警戒することを常とする。ましてここは異国の満州であるので、当然この勤務があった。人員は衛兵司令以下十名での二十四時間勤務である。衛門、弾薬庫、列車庫の三カ所で一時間交替。列車庫衛兵とは、釜の火を絶やさず燃やしている機関車の警備である。夜間は三時間に一時間仮眠ができるが、時間が長く、夜よく眠れないので一番きつい勤務だった。ときに居眠りしながら歩いていて怖いのは、週番士官の巡視である。下手をすると重営倉の罰をうける。その他の勤務では、将校官舎当番、炊事当番などがあった。
  ―部隊演習と創立記念祭ー
 年何回か遠隔地へ、列車を走らせての演習があった。コースはハルピン~北安~チチハルが多く、ハイラル行きもあった。
 ハイラルまでは約800キロ。ここへきて、平原草地へ出たら、ブヨがワンワン飛んでいて、人肌をさすのには参った。ノモンハン戦のとき兵士が顔にカヤをして苦闘している写真を思い出した。ハイラルの帰り、パリンという所で骨休めの一日を送った。形が三角形の眺めのよい山があって、この地方の保養地といった所。絵の好きな宮崎さんがせっせとスケッチしている姿を見かけた。この近くは西瓜の産地らしく、隊で大量に買い込んで一同に配った。一人二つ位づつあたり、果物を腹一杯食べれるのは久しぶりで、この甘い西瓜を一同喜んで賞味した。
 鉄道沿線のある場所で、列車よりする砲の実弾射撃演習が行われた。十加、十五榴、軽砲の大砲から二千米位な目標に発射され、弾丸が土煙をあげて破裂する様が目撃できた。歩兵はこの砲の援護のもと、敵へ進撃する状況設定で、私たち重機隊は、射撃しながら前進した。丁度この時にわかにどしゃぶり雨が降り、下着までぐっしよりぬれるという印象深い演習となった。
 冬季の演習では、夜はそれぞれの車両に寝るのだが、防寒衣を着たまま毛布一枚位で床に横になる。車体のすき間から零下何十度の寒気入るので、なかなか寝つけなかった。でもそのうち睡魔の方が勝って、何とか就寝ということになった。食事は、炊事車がついてそこの大なべで煮たきをするので、一般部隊のような飯盒炊飯の必要はなかった。
 この部隊は、昭和十六年六月隣りの鉄道三連隊で編成されたということで、八月はじめ頃一般の軍旗祭と同様な創立記念祭が行われた。隊員全体が正装して営庭に整列し、歩兵の山田大尉の号令のもと宮城遙拝そして安士部隊長の訓示等の儀式を行った。
 その後、その祝行事として、相撲大会が催された。相撲に自信のあるニ十余人の兵が相撲用厚地の白いふんどし姿で集まり、ポプラ並木の下に作られてあった土俵で競技が開始された。正面の観覧席は部隊長はじめ隊幹部が居並び、両側に兵が観覧。私江川一等兵も当時、身長一七〇センチ、体重六八キロで、相撲取りのタイプではなかったが、多小相撲の経験もあったので出場した。競技はまずトーナメント式で開始。周りの声援のもと相手に恵まれたせいか、準決勝まで順調に進み、いよいよ決勝となる。相手は砲兵の現役二年兵、体重は七十五キロ位でこちらよりは立派な体格、これは大敵と思って臨む。突っぱり、そして押し手で土俵際までつめて行ったが、なかなか相手はしぶとく、いま一歩で苦戦したが、何とか押し出して優勝ということになった。次は余興の五人抜き勝負。土俵の周囲に十余人程待機、勝った者に次々と間を置かず周りから挑戦、三人程相手にしてつぶされるのが多く、なかなか決着がつかない。私もこれに挑戦したが一度目は失敗、二度目に何とか五人目をしとめ、五人抜きの勝者ということになった。私は走幅飛び、走高飛びが得意であったためか、腕力はそれ程ではないが、脚力があったため突っぱりをやると、思わぬ効果が出て観覧席でも以外そうな表情が流れていた。賞品は両手に花の清酒二本。これを内務班に提供して一同に喜んで貰った。
  ―三一式山砲訓練―
 十九年になってわが隊に山砲が配給されてきた。山田大尉なども何とか戦力にしようと期待しているようであった。この山砲は三一式山砲という。三一式というのは明治三十一年製を意味するらしく、四十年前の旧式砲である。これを扱う要員として、歩兵の重機隊の二年兵で比較的体格のよい者十名程が当てられた。前田、八巻その他で私もその中に入った。教官は仲曽根中尉(沖縄出身)助教は内山さん(元北満の重砲隊員)この砲は、砲弾を発射すると、砲が一米以上も後退するというもの。砲身の重さは約一〇〇キロ以上の重さ、砲身と砲車が分解でき、分解搬送することもある。砲身を誰か一人でかつげないかの声があり、体格が並みの八巻が、よし俺がと、周囲の心配をよそに肩にかつぎ挙げ一同を驚かした。とにかく一カ月程この訓練をやった後、空砲射撃試験をやることとなった。砲腔内爆発の危険を考え、後方二十米位に穴をほり、砲の引き金に細いロープをつけ、これを引いて発射させる段取りをした。しかし教官が自信をもてなかったせいか、この発射試験は中止となった。当時、安士部隊長は、兵を集めて訓示の際、ソ軍の戦車は装甲が一〇センチもある。これを貫通させる砲は一〇センチ程の砲が必要だが、関東軍にこれ等の砲は各方面へ抽出の師団が持っていったので、いくらも残っていないという話をした。こんな事情のため、兵器庫の隅に、永年放置されていた山砲を無きに勝ると考え、この活用を考えたものだろう。隊の山砲訓練は以上のような経過で中止となった。
  ―関東軍の抽出と太平洋の戦局―
 昭和一九年三月頃から一カ年に渡り、関東軍の精鋭二十個師団が軍機密を考え、深夜ひそかに今までの部隊根拠地から武器装備共グアム、サイパン、パラオ、レイテ、台湾、沖縄、ルソンその他の対米第一線へ向け出陣して行った。これは、戦局が本土間近かに米軍が迫り、背に腹は替えられないという事情のためだった。わが装甲列車隊は、満州鉄道連隊の附属品であり、満州の鉄道沿線以外での使用は考えられないためか抽出の対象とはならなかった。これ等の抽出部隊は、米軍の進攻が既にトラック島、サイパン島比島に迫る状況になっていたので、海路は安全でなく、敵の潜水艦や空軍に攻撃され、海没することが少なくなく、又上陸しても、港で敵の空爆により武器弾薬等消失され、ろくに対戦の陣地も出来てない処での戦いとなった。レイテ戦等では、わが陸軍七万五千の将兵は、脱出できた三千の兵を除き、ことごとく屍を孤島の山河に埋めたという。このレイテでも空軍の援護のない歩兵、砲兵はみじめであった。動くとたえず上空を飛んでいる敵の観測機に見つかり、大量の砲爆撃を受け、食糧は欠乏し、次々と死んでいった。米軍は、後方のテントで寝て、食事、休息を十分とり、交替で前線に出てくるのであった。
 精鋭部隊抽出後の関東軍は、各師団がそれぞれ一個大隊程残して行った兵を中心に、内地からの未教育兵を送って貰うほか、在満日本人の根こそぎ動員をかけて七十万の部隊を作ったが、未熟、半装備のため、全満の防備おぼつかなく、通化を中心とする満州の南東部に戦力をまとめ、そこの山岳地帯で持久戦を行うという方針をきめ、総司令部を通化に移すこととなっていた。そのわけは、独ソ戦に二〇年五月勝利したソ連は、ソ満国境地帯に軍をどんどん増強してきた。わが関東軍との戦力比は歩兵で八対一。近代戦の両翼をなす空軍は四八〇〇機対一六〇機(練習機を含む)戦車は三五〇〇台対八〇台でこの戦力は三〇対一という劣勢であることがそうさせたようである。
 昭和二〇年七月二六日連合軍のポツダム宣言が発せられた。これに対し、わが軍の統帥部は政府に対し、これを無視し戦争完遂を強硬に迫った。鈴木首相はこれを受けて、日本政府はこのポ宣言を重視せず、黙殺し、戦争完遂に邁進すると声明した。しかし、この七月時点の日米の戦力比は、開戦時一〇対六強で出発した海軍力は三〇対一とも、五〇対一ともいう激差になっていた。わが統帥部は敵に一大打撃を与える一勝してから講和を考えると言いながらサイパンで破れ、比島、沖縄でもその機会を得られず、本土まで来てしまった。
 本土では、ポ宣言の後国体護持とか、一億玉砕の覚悟で戦勝の神機をつかみ取るとかで日を送っている内、八月六日広島、更に八日には長崎に原爆が投下され、おそるべき戦災を受けるに至った。
  ―ソ連軍との戦い、そして停戦―
 このときソ連のスターリン首相は、好機至れりと八月九日早朝前面的に満州国境を突破侵攻を開始した。これに対して大本営は、八月九日作戦会議を開き、八月十日に関東軍に対し「関東軍は、来攻する敵を撃破して、国土朝鮮を保衛すべし」の命令が出された。それまで通化を中心とする満州の一隅で持久戦を行うという方針が大きく後退して朝鮮を守れとなったので、関東司令部は大混乱の状態となった。
 第一装甲の後藤中尉は、北満の孫呉、第二装甲の大井田中尉は東満の東安に、五月頃転属し、ソ連進入後九死に一生の戦闘をされたという。ソ連軍は、その主攻撃正面は、一キロ幅について、戦車自走砲を二五米間隔で四〇台の割で配し、この射撃密度は四米に一発の割合で打ちながら進撃して来たという。これに対するわが軍の歩兵は、小銃一、弾丸三〇発、手榴弾二個、機関銃、テキ弾筒若干、支援火砲なしの戦いであったという。
 時期がちょっと前後するが、昭和二十年の五月、わが部隊の一部に転属があった。鉄道兵の多くが九州方面へ、歩兵も鈴木兵長以下十名程が第二装甲列車隊へである。第二装甲といっても隣の兵舎であり、中隊が変った程度であった。隊員の顔も知っていたので、すぐ隊になじめた。この転属のなかに私も入っていて、この隊で八月九日を迎えた。早朝三時頃兵舎のガラス戸の外が明るくなったのを不寝番等が気付き騒ぎとなった。窓越しに見ると傘のようなものの下に丸い大きな発光体があり、四辺何キロ程もの広さを明るく照らしている。照明弾と気付く。誰が落としたか疑心でいるうち、やがて、非常呼集がかかり、ソ連が対日宣戦布告し満州の全面に進入して来たことがわかった。或はと恐れていたことが現実となった。来たらば戦うほかはない。強敵との戦い故、まず命はなかろうと心にいい聞かせたものだった。部隊は、出動のための準備は急がしく開始された。第二装甲は、必要な武器弾薬食糧等をつみ込むと十日の朝、命令されたハルピン南方一二〇キロ程の第二松花江の鉄橋警備のためハルピンを後にした。このとき私は、又この兵舎に帰ることがあるかと思い、私物の一部を置いたままで出たが、再帰することがなく終った。警備についた所はほぼ満州の中央部、そこで砲および重機は上空射撃体制をとり待機する。しかし、敵機の姿を見ることなく平穏な日を送った。天候は晴天で、食事は炊事車で作り、各車両に食カンで配分、各人はそれを飯盒に分け、三度の食事をとった。ここで平沢軍曹以下六名が、ハルピンの兵舎に連絡のため出張を命ぜられ出発した。以下は後年聞いた話である。八月十二日ハルピン兵舎に到着した。ここで兵器、食糧、被服を受領して本隊に追及することになっていた。残留の遠藤中尉以下二十名の応援を受け、前記の物の受領を終り十四日午後二時頃、貨物に受領した物資を乗せ、満鉄の機関車で香坊の兵舎を出ようとしたら、炊事の裏の割木にて脱線してしまい、仕方なく明十五日朝早く出発することにした。ところが同日夜、明十五日の正午に重大なラジオ放送があるから、それを聞く様にとの指示のため出発は取り止めになる。重大放送は天皇が終戦を宣するものであった。その日はもう本隊との電話連絡も取れなくなり、追及は断念のほかなかった。
 八月十二日我々の本体は、命令により、この第二松花江鉄橋を撤収して南下し、十三日新京駅につく。十一日の早朝から朝鮮方面への引揚げが開始されたという民間の引揚げ列車で駅構内は大混雑の有様であった。屋根のない貨車に婦人小供老人等が満載され、水や食糧を求めるみじめな姿であった。九日以前はそれぞれの地で、平穏に暮して来ただろうに、ソ連軍の進入により、突如急転家財産を置き去りにし、手荷物一つで避難の身の上にされてしまった。わが軍が国境で敵をはね返す戦力があればよかったであろうがと思う。
 わが第二装甲は野戦鉄道司令部の命令で、四平街駅から朝鮮方向へ左折し、十四日梅河口駅に着く。これは多分、大本営命令にある朝鮮防衛のため、鮮満国境の鴨緑江の鉄橋を守るためであろうと思われる。ところがここで、明十五日は天皇による重大放送があるので、これを聞くようにとの指示で、梅河口駅で待機することになった。十五日通信車の前に一同集合してこのラジオ放送を聞く。聞きとりにくい放送だったがどうやら戦争を終結するという内容と認められた。これを聞き、ある将兵等が、そんなことは承伏できない、山にでもこもってどこ迄も抗戦し、ソ連に打撃を与えるのだと隊から出て行った者があった。十六日夕方停戦命令が示達され、わが隊は、朝鮮に行けとの命令を受けた。梅河口駅には、元当部隊兵で、十八年三月除隊し、この駅の助役になっていた羽田という人がて、混乱状態の列車運行のなか、専門の立場から色々と便宜を図ってくれた。このためか十六日ここを出発、十七日鴨緑江の鉄橋を渡り、朝鮮に入る。列車は完全武装のまま、何の妨害も受けることもなく、緑深い山野を走り十八日平壌駅に着く。ここに一日程停車の後、更に南下し、二十日京城の竜山駅の引き込み線に到着した。
  ―朝鮮から内地復員ヘ―
 ここ南鮮は、ソ連軍の進入もなく、そして終戦ともなったためか、そう混乱することはなかった。食糧が足りなくなったため、トラックで附近農村の買い出しに行った。日本円がまだ通用して居るので、農家も食糧を売ってくれた。こんなわけで食事の心配はなく過ごせた。炊事車は依然として使いなれた大釜なべで、三度の食を作り、その職分を遺憾なく発揮していた。部隊は終戦による解散を前にして兵器の手入れもなく、当然演習もない手持無沙汰な日々を送るだけだった。三百米程の距離に漢江があった。相当大きな河だが、遠浅さで水はきれいだ。水浴し或は泳いだりするには恰好の場所で、二日に一度位水浴に行ったものである。京城の町への外出も時折り許可されて、軍装のままで出掛けた。町では若人達は、永年の日本から束縛から、朝鮮が解放され独立できるということが解ったと見えて、意気揚々肩で風を切るという様子であり、敗戦国民というより戦勝国民と云ってよいものだった。歴史、言葉、思想の違う異民族支配のむずかしさを痛感したものだった。
 九月に入ってから間もなく、京城に米軍が進出して来た。B29が空を飛ぶ様が見られ、その巨体には驚かされた。そして、わが装甲列車と武器類は武装解除ということで米軍に引き渡し、我々は軍服は着ているものの丸腰で戦力のない軍人となった。住いは、装甲列車から、有がい貨車に変った。我々の部隊は、将校下士官を除くほかは、殆ど同年の三年兵で階級も上等兵、兵長であり、私ほか若干第一装甲から転属で入った者も入隊当時から大がい顔見知りであったので、至って心安い関係であった。九月の半ば頃、部隊は京城をあとにし、釜山行となった。いよいよ故国に近くなる。釜山には既に米軍が入っており、旅館の様な所が宿舎となった。アメリカ兵の姿に初めて接する。彼等は至って陽気であり、宿舎の前で十人程の兵が水浴のためか丸裸になっている二、三の兵をまじいて談笑していた。丸腰の我々の姿をみても殆ど気にしていない様子だ。それからわが部隊は米軍の指示による労役があった。それは港に多くある倉庫のなかの大豆の様なものの入っている麻袋の積替え、或は移動の仕事であった。日本通運の荷方のような仕事であり、楽ではなかったが、三度の飯を食べているので、へたばることはなかった。後で聞いた話だが、この釜山の停車場司令部に、わが部隊から転属した我孫子の須藤信一さんが居て、わが部隊のことをしっていたという話だ。この港の倉庫には軍用の非常用ビスケットとか、砂糖などもあり、ある倉庫には軍用の革の編上靴が大箱で山積してあった。番人も居ないので、足に合うものを二、三足引っ張り出して失敬して来た。体裁はよくないが当時としては貴重なものだった。
 いよいよ内地への引上開始の日がやって来た。その第一船は九月二十八日である。どこからの指示か知れないが、わが部隊がこの第一船に乗ることとなった。どうしてこんなにくじ運がよかったのか、当時在鮮部隊は、色々と民間の世話とか隊内の整理があって、時日を要するという事情。こんなことがこの理由ではないかと考える。乗船当日、港で米軍による荷物検査を受ける。その際前述の編上靴だが一足はよいが、それ以上のものは没収となった。アア残念と思う者が大部あったようだ。船は大きな船で千人程乗船できるものだった。乗室は二段程になっていて、私はそこで釜山の書店で買って来た谷崎潤一郎の本を開き、この作家の筆力に魅せられて、船中の薄暗い電灯のもと、しばし読書にふけったりしていた。
 船は、その日の夕方山口県の日本海側の仙崎港に着いて、上陸する。三年ぶりの内地日本、もう安心だと感慨一潮であった。それから町の劇場のような所へ行き、ここで一泊となる。翌朝軍の解散式。部隊長竹内大尉の涙の挨拶があり、軍は解散となった。その際、白米一人一斗と、その他缶詰砂糖などと退職金三百円余が交付された。大荷物となったので天幕か毛布に包み背中に背負って、満員列車に乗りそれぞれの故郷へ向った。第一装甲からの仲間五人程と同行した。京都から東海道線に乗り換える。車中は人ばかりでなく皆大荷物をもっているので、荷物を下に人はその上に乗るという混みようであった。東京に着く。見渡した処、こわれた鉄筋コンクリート建物以外一面の焼け跡の野原であった。話に聞いてきたがひどい惨状であった。上野から東北線に乗り換える。途中夜となったので、白河駅で下車し、駅で聞いて近くの旅館に宿を取る。旅館では米をもっているかと言うので、二合程出す。食料は相当不足していたのだった。翌朝宿を出て汽車に乗り郡山駅から会津に向った。午後家郷の駅に着いた。昨夜電報を打っていたので、母と弟等が迎えに出ていた。母は当時四十七才、役立たずの息子ではあるのだが、私の姿を見る顔は、喜びの心が満面に浮かんでいた。軍隊に入って戦地に行った者は、死して返らざる者も少なくない。当時の内地ではソ連軍と交戦した在満の兵などの生死は不明であるし、生きて帰るにしてもいつの事やら全く解らないことであった。こんな立場の在満の兵であった私が、終戦後一カ月半の十月二日に帰って来た。こんなことが母、その他の喜びであったのかと思う。家に入ると父がいろりの横座に座っていた。顔色は青白く身体はやせている。病気のため職場の方は休んでいると云う。母が別室でそっと、父は胃ガンで手遅れ状態だという。それから五十日程で父は他界した。でも私の帰りが早かったため、或程度の話も出来たし、又葬儀の喪主も勤めることが出来た事は、不幸中の幸いであった。
  ―昭和戦争のまとめ―
 最後にここで十五年戦争と云われた昭和の戦争について、以下私なりのまとめをしてみたい。
 この戦争でわが国は有史以来はじめて、無条件降伏という最悪の結果となった。何故こんな惨敗するような戦争を始めたのだろうか。
 戦争の原因といえば、遠く日露戦争までさかのぼると言われている。この戦争の結果、満州の一角に租借権を獲得して日本の大陸経営が開始された。日露戦争の勝利は、アジア人が欧州の白人の大国に勝ったということで日本が世界の五大強国の一、或は三大強国の一と信ずるようになった。そして、そこに日本人の優越感が膨らんで行った。支那人の能力は日本人の足元にも及ばないものだ。だから日本が彼等を指導してやらねばならないと。昭和六年満州事変が起き日本が満州全体の支配権をにぎり、昭和七年には清朝のラストエンペラー博儀をもって満州帝国を誕生させた。中国はこれに抗議して国際連盟に提訴、この連盟の総会で満州国を非認する決議がなされ、日本はこれを不満とし松岡全権は国際連盟を脱退してきた。
 日本では、満州は日本の生命線とマスコミ等で高揚され、国民もそう思ってきていた。満州の経営を着々と進めているなかで昭和十二年七月北支で日中両軍の衝突を契機に、日中戦争が開始され、わが国の言い分は暴支をようちょうするということだった。軍の指導部は、支那は日清戦争頃の支那とそう変りないという判断で、三カ月か半年で終結できると計算した。しかし、支那は経済水準は依然として低かったが民族意識が高まって居り、背後に米英ソ連の支援があった。こんなことでわが軍部の予想に反し、八年の泥沼戦争となってしまった。欧州では昭和十四年九月から独伊対英仏の戦争が開始され、日本はこの一方のドイツの力を過信して即ち、ドイツはドーバー海峡を越えて英本土を制圧するであろう。そしてソ連もヒットラーに征服されるだろう。そうするとヨーロッパはドイツの天下になり、米国も参戦をためらうであろうだろうと。これを否定する達眼の士の情報もあったのだが、これを退けてバスに乗り遅れるなと他力本願の、日独伊三国同盟を昭和十五年九月二十七日に締結した。昭和十六年日本が南部仏印進駐した事により米国は石油鉄等の禁輸措置を取った。それで日米交渉が開始され、米国は日本に中国から軍隊の徹兵を要求してきた。これに対しわが陸軍は、満州その他はわが父祖十万が血を流して獲得したものなので、米軍の要求に応ずることはこの英霊に申し訳ないから絶対承伏出来ないとした。こんなことで両国の協調ができず、わが海軍のハワイ攻撃から日米戦端の開始となった。緒戦で有利な戦いをして来たわが国軍は、開戦後七カ月後の六月ミッドゥエー敗戦でつまずき、海空の主導権が米軍の手に渡った。
 開戦後の軍需生産力において米国は、石油、鉄その他の軍需資源は日本の七十倍といわれ、工業生産力は自動車生産能力が日本の四万台に対し四百万台余の力をもち、その工業力が飛行機戦車の生産に転換されて、軍用飛行機の生産は日本の一〇倍を算するに至ったという。
 これに対してわが国は、兵を北の満州から南方各国まで、更に太平洋上の各島々に分散配置、少ない石油の保有量はどんどん消耗。折角の南方からの石油その他も、敵の空軍或は潜水船により輸送船団が沈没させられ、効少ない状況となった。
米軍は、蛙跳び方式という重点選別の上の、集中攻撃で進撃してきた。わが国の海軍は、日本海々戦の経験による戦艦中心の艦隊決戦を原則とした戦法を固持していた。しかし時代は航空機の発達により、空軍が主兵に変っていた。そのため六万トンの大戦艦までが、空軍の傘をさしていないとその戦力が発揮が出来ない状態となっていた。
また陸軍でも、天皇の名による軍の典範令により、地上戦闘の主兵は歩兵とされ、その戦法は白兵銃剣突撃と夜襲である。ところが米軍の戦法は、彼我の間が遠ければ、空爆と射程の日本より長い重砲によるじゅうたん砲爆撃で叩き、近接すれば、重戦車、自動小銃等により、又夜襲に対しては照明弾を打ち上げてわが軍の得意の戦法を封ずるものであった。わが国軍の精神重視主義は、確かに効あるとしても、その効果はプラスアルファ程度で、何倍もの物的破壊力を越えるものではなかった。神州不滅、神風なども半ば期待したものであったが、神通力なるもので、艦船を沈め飛行機を落とし又戦車を粉砕したという例を耳したことはなかった。
こうしたことで、わが軍の前線はずるずると後退し、サイパン島近くまで迫ってきた。東條首相兼参謀総長はこのサイパンの線で、敵に大打撃を与え、その進撃を食い止める日米戦の天王山であるとして、今度こそはと豪語した。しかしその防備は泥縄的なもので、昭和十九年六月十五日米軍はここに上陸し、三週間程の激戦でわが軍は一万余の民間人を道連れに三万の将兵は、何ら応援も得られず全滅してしまった。その上六月十九日のマリアナ沖海線で、日本海軍は残存空母と航空機の大半を失った。七月には、三月に開始されていた無謀なインパール作戦は悲惨な失敗に終った。参加兵士十万、死者三万、戦傷病四万五千を算した。ここでも制空権と補給欠が敗因となった。
それから一勝を獲得できないまま、米軍の進撃は、比島レイテ、ルソン、硫黄島、沖縄とつづき、結局本土決戦終戦の段階の二十年八月を迎えるに至った。
 八月に入って満州の関東軍では、まだ先と思っていたソ連が、突如として九日未明満州国への全面的な侵入をしてきた。国境方面では我が軍がこれを迎え打ち激戦が展開された。しかし十五日に至り、日本の政府が連合軍に降伏したことにより、戦いの停戦命令が発せられた。関東軍とソ連軍の戦いは、一週間の慌ただしい戦いで、終戦を知らずに戦い続けた部隊もあった。
 このため、満州帝国は八月一八日最後の高官会議により、皇帝の退位と満州帝国の解体の決議が行われ、一三年余りの夢幻のような短い歴史を閉じた。皇帝博儀は、八月一九日日本へ亡命しようとして奉天飛行場で待機していたとき、ソ連軍の飛行機が飛来し、皇帝は即刻身柄を拘束され、翌二〇日ソ連領の連行されてしまった。
 関東軍の総司令官山田乙三大将は、日本の民間居留民の安全と内地引揚げについて何度もソ連軍に要請したが、ソ連からは何の回答もなかった。司令官といえども、先方から見れば一介の捕虜にしかすぎず、何ら効なき接渉であったのである。こうして日本の無条件降伏によって、在満の民間居留民および関東軍は、ソ連および中国側のなすがままの外ない身分に落とされてしまった。この戦争のため、奥に散在していた開拓団二〇万の民は、戦いに巻き込まれた者も多く、その他の居留民一二五万人も家や家財を奪われ、収容施設において寒さ、飢え、病魔にと引揚げまで苦難の日々が続き、一三万余の犠牲者を算するに至った。
 また軍人の方も武装解除された後九月になってから一〇〇〇名単位の作業大隊に分けられた。そして次々と貨物列車に乗せられ、お前達はナホトカから日本へ帰国だとソ連兵に言われ半ばそれを信じたが、列車は東のナホトカには向わず北や西に向って進むのを見、不審に思っているうち、ソ連各地の作業収容所に送られてしまった。その人員数は六十万といわれる。旧兵達はこの収容所で寒さと劣悪な食と過重な労働の苦難な生活を強いられ、帰国して家族に再会することを夢見ながら、あえなく異国の土と化した方々は七万人といわれる。その他なんとか命を永らえることの出来た人も、平均三年の虜囚の憂き目をみた。
 ここで思うことは、昭和十九年十二月の比島敗戦の頃戦局の大勢が決していた、近代の海戦では、空、海面、海中の三装備が揃っていなければ戦いにならないのに、なぜずるずると無条件降伏まで引き延ばさず、条件付の停戦ができなかったかということである。
 元来武力行動は、政治外交の延長であって政治家が世界の大勢と、戦局の進行を冷静ににらみながら軍の進退を決すべきなのに、軍首脳の臣意が君意の名をもって暴走すると云う、政と軍との主客転倒が軍民に大きな禍いをもたらした。
 中国の満州における日本の利権は、日清日露の戦争で一〇万の犠牲のもとに獲得したもので、中国から撤兵はこの父祖一〇万の英霊に申しわけが立たないと軍首脳は強硬に主張した。これが太平洋戦争の発端になったとすると、その後首脳はこの戦争の作戦指導で二三〇万の将兵の犠牲者を出した。それでも敗戦の連続で中国の権利を守り得なかった。ではこの二三〇万の英霊にはどういう申しわけが立つと云うのだろうか。互角に戦っての戦死というものでなく、補給ができなく見殺し的な最後が多かったのである。
 一国の指導者の誤りは、国民に大きな禍いをもたらすものである。国民はこのことを切実な教訓として、永く記憶に留めて置かなければならない。
 関東軍の兵だった我々も、今平成の時代まで命永らえて来たが、戦時中、軍首脳の兵配置のペン先次第によっては、この二三〇万の英霊になかに鎮座することとなっていても、不思議ではないことだった。犠牲になった方々の霊のご冥福を祈り筆を置くものである。

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