「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録07
戦争体験記 氏原嘉治男(芝山•75 歳)
入営
昭和十一年一月十日、佐倉歩兵第五十七聯隊に現役兵として入隊。
ニ・ニ六事件
二月二十六日、事件勃発。佐倉歩兵第五十七聯隊に出動命令下り、午後五時雪の降りしきる中を軍用列車で出発。信濃町駅下車、歩兵第三聯隊に入る。私は特別任務を受けて「北白川宮邸」警備につく。
この警備は衛兵司令以下十二名で、私は表門一番歩哨となる。
表門歩哨には守らなければならない一般守則と、特別守則があり、夜間歩哨に近づく者ある時は「誰何(すいか)」すること三回に及ぶも尚、答えない時は銃殺、又は捕獲して、衛兵司令に引渡す。
右の心得にて服務いたしましたが、反乱軍の襲来もなく一週間で交替し、帰り際に宮邸受付で記帳、執事から、今後上京の節は宮邸にも立ち寄って下さい、御苦労様でした。とのお言葉がありました。
満州派遣
昭和十一年五月第一師団は満州派遣となり、我が佐倉聯隊も派遣準備を完了して一路、佐倉駅から満州に向って出発す。
部隊は、聯隊長山口直人大佐の肩章もまた燦然(さんぜん)と輝く。沿線は歓呼の声、旗の波、部隊は進軍ラッパの音も勇ましく「勝って来るぞ、と誓うが如く」そして後に続く部隊は黙々として前進。その威容は無言のうちにも国民の信頼の度を高めてゆきました。私達もまた国家を保護し、国権を維持するは兵力にあり、と信じ身命を賭して御奉公の誠を盡(つく)さんと、決意を新に致しました。
これより部隊は宇品港出港、大連に上陸。更にまた満鉄にて一路北上して、本渓湖に駐留し、山嶽地帯に出没する匪賊討伐に当る。
カンチャーズ島事件(昭―ニ・七・六)
当時ソ満国境は黒龍江の川巾の中間をもって、国境としていましたが、偶々この川の中間にカンチャーズ島があり、ソ聯の警備艇が川の中間より満州側に航行してきたので、当地区の警備部隊である歩一(六本木の歩兵大一聯隊の連射砲"対戦車砲") でこれを砲撃、1発で船体に命中、艇は島に乗りあげたとの情報が伝わってきました。
当時満州派遣部隊には、ソ軍と問題を起こさぬよう厳重警告が出されていたが、このような事態が生じたので、我が部隊も急撮出動して北安(べいやん)に駐留す。
このように我が第一師団は賊繊滅の意欲に燃えて、国境の警備に当っていたのであります。
このような行為も、一億国民の支援があって、はじめてできることです。
慮構橋事件(昭―ニ・七・七)
昨日はカンチャーズ島事件。明けて今日は慮構橋事件と聞いて、さてこれからどんなふうに進展するのかと。
私達は皆、不拡大を願っていましたが、事件は次第に拡大の一途を辿りはじめてきました。この中で我が第三大隊(喜多少佐)は北支に転進。この部隊は後に、グアム島にて優勢な米軍の攻撃を受けて全滅。
孫呉に移駐(昭―ニ・一〇)
我が部隊は孫呉に移駐し、我等は別の任務をもって黒龍江岸奇克特(チカトー)に進駐。
翌年二月某日、深夜衛兵司令として勤務中単独で江岸を巡察中、突然二十匹位の狼に襲われた。私は中学時代剣道の先生から、犬と喧嘩をする時は剣を下段に構えよ、と教えられたことが頭に浮かびましたので、下段に構えて睨みつけますと、狼の方も私を取り巻いてウーとうなり声をあげています。その中の一匹が頭目らしく、眼光炯々(けいけい)として私の眼との脱み合い。この時の気分は死生を超越して頭は澄み切っていました。私の目と狼の目が一瞬パチリとしたと同時に狼は退散、本当に命びろいをしました。
千葉聯隊区司令部附
昭和十四年十月、千葉聯隊区司令部附となり、佐倉五七聯隊より転属す。
同司令部の業務は、(1)青年学校、在郷軍人の点呼(2)徴兵(3)兵籍、恩給(4)動員に分担されていました。私はこの中で動員課に配属になりました。
動員業務の主たる作業は、国家保護の為、師団司令部で不測の大事を想定して、作戦計画を立て、敵に優る体勢でいる為に、常に必要な兵力を掌握することであり、その準備手段として業務が行われるのが動員業務であります。
毎年行われる徴兵検査により、甲種合格者が決められ、これは翌年一月各兵種毎に現役兵として満期(丸ニカ年)服務いたします。その他は第一補充兵役、第二補充兵役、国民兵役等に区分され、私達の戸籍と同様に兵籍が作られます。
この兵籍を基礎にして、軍人名簿が各兵種毎の各市、各郡別に区分され、本籍、現住所、氏名、免許、特技、職業が記され、海外居住、召集、解除年月日等が記されます。
従軍志願者や余人をもって替え難き猶予者もこの名簿に記載されています。
これを種類別に集計して表に纏めますと、例えば会社の給料日当日、給料支給人員別の、金種別(一万、五千、千、五百、百、五十、十、五、一円別)の集計の総額がいくらで、支給、未払、残高が掌握出来ますが、動員における人員掌握もこのような要領です。
動員には充員召集と臨時召集があり、赤い召集令状により召集されます。動員計画は毎年八月頃現在で、充員計画者、現在応召者、事故者(病気、海外居留、猶予者)を除き召集可能な人員を師団に報告いたします。これは第一師団管区内の、千葉、本郷、麻布の各聯隊区司令部からも同時に提出されます。
師団では、これに基いて例えば、一個師団の兵員を編成する為には「附表第一」に示すような部隊が短日時に編成されます。この為に、毎年三月三十一日各市、警察の兵事係が召集されて、その計画令状(充員召集令状)が渡されます。後日師団から電話で「歩五七ノ一動員下令(歩兵第五十七聯隊第一号)」と通達されますと、聯隊区司令部は各警察に電話で通達いたします。これを受けた警察署は、保管してある充員召集令状各種の中から「歩五七ノ一」の令状を出して、関係町村の兵事係に渡すことになります。この聯隊区司令部、警察、町村兵事主任の円滑な行動を期する為、聯隊区司部から警察及び町村に出張して、その演習を行います。
こうして計画され、訓練されておりますと、いざ動員下令となりますとどうでしょう。日本の常備兵力二十五万の兵力は三日で出動準備が完了です。そして翌日には召集令状を受けた人員が忽ち集結できます。
この充員計画、事故者以外の人員は待機要員であり、これが各方面の戦線から必要に応じて要請されるもので、これを充足する為に行われるのが臨時召集であります。よく巷で、私は二回も召集されたのに、彼は健康で身体も頑健であるのに、どうして召集されないんだろう、という声を聞きますが、それは毎年更新して計画される大きな仕組みの中に入っている為であります。
千葉陸軍兵器補給廠附(昭一八・三)
昭和十七年三月、初の空襲警報発令。
昭和十八年五月、山崎部隊がアッツ島で全滅。同年十月には学徒動員壮行式が雨の神宮外宛で行われる。このように戦争状態が次第に身近に感じらる中で私はフィリッビンに兵器補給の指揮官の内命を受け、ひそかに準備をしていました処、何時迄過っても命令がこない。そのうち台湾沖でこの兵器輸送船は敵に撃沈されたとのこと。その指揮官は偶然にも私の親友であり、奥様は真実を知らず、その後も度々補給廠に安否を尋ねに来られ、その姿は誠に痛ましいものがあった。
船が沈没して乗船者は死亡したであろうとしても、確認書が作られない時は公報に乗らない。
この御遺族の方には心から哀悼の意を表します。
長野陸軍兵器補給廠附(昭一九•四)
千葉から補給廠長(実川大佐)以下全員長野県篠ノ井町の国民学校に進駐して業務開設。
移駐にあたって若い女子工員は退職してもらって現地で新にエ員を採用する方針でありましたが若い女子工員はみな元気で「どうしても連れて行って下さい。家のことは何も心配ありません。」と、この覚悟に皆男泣きす。
もうこの頃一月には建物強制疎開がはじまり、三月には宝塚歌劇団休演、当日ファン殺到し、警官抜刀で整理という情勢であった。
ここの業務は、満州から還送される物資を新潟港に揚陸して、長野地区の山野に隠匿、集積(私の所は主としてガソリン)して、本土決戦に対応の準備を進めておりました。
終戦(昭和二〇• 八•一五)
正午に重大ニュースの発表とのことで校庭に集合。私は記録係を命ぜられた。放送の内容は、天皇陛下の荘重な音声で「堪え難きに堪え、忍び難きを忍び、万世の為太平を開かんとす。」と。聞く者皆万感胸に迫り、血涙の止まるを知らず。
思えば昭和十二年七月七日、慮構橋一発の銃声に端を発し、爾後拡大、米英を敵として大膽な、そして大規模作戦を展開して奮戦するも利あらずして矛を修むさるに至る。この正義の戦に国家の総力を尽し、股肱の任を果たしたことを誓って、この稿を終わります。
附表第一
第一師団平時編成
歩兵第一旅団 歩兵第一聯隊 東京
歩兵第四十九聯隊 甲府
歩兵第二旅団 歩兵第三聯隊 東京
歩兵第五十七聯隊 佐倉
戦車第二聯隊 習志野
騎兵第二旅団 騎兵第一聯隊 東京
騎兵第十五聯隊 習志野
騎兵第十六聯隊 習志野
騎砲兵隊 習志野
野戦重砲兵第三旅団 騎砲兵大隊 国府台
野砲兵第一聯隊 東京
野戦重砲兵第一聯隊 国府台
野戦重砲兵台七聯隊 国府台
輻重(しちょう)兵第一大隊 東京
横須賀重砲兵聯隊 横須賀
1終戦
耐え忍んで倒るる勿れ異国の涯に父母妻子の君を待つ千秋の想い
寒風に友を呼ぶ雁の声又哀れなり君を讃え神に祈る大八洲
2 弔忠魂
靖国の宮に鎮まる我が友よ 積る話は夢の枕で
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