「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録04

更新日:令和8(2026)年8月15日(土曜日)

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私の青春時代 市村 清(八木が谷・73歳)

 私は昭和九年六月一日志願で、横須賀海兵団に入団しました。当時は満十五才から入れる兵科があったのです。私は少年航空兵として合格したのですが最終テストで落ち、掌電信兵として無線通信の道を進むことになりました。海兵団で三カ月の基礎教育を受けた後海軍通信学校普通科で十カ月余の教育を受け、卒業と同時に軍艦木曽(軽巡洋艦)に配属されました。当時は本洲沿岸警備の任務に従事して、諸訓練を積んでおりました。あの二・二六事件には海軍部隊の旗艦として駆逐艦数隻を率いて芝浦岸壁に接岸し、陸戦隊を揚陸させ鎮圧に成功した思い出があります。
 其の後支那(現中国)との関係が悪化し昭和十二年に入り日支事変が勃発、木曽は種々訓練を行いながら旅順港に入港ここで陸戦訓練を受けておりました。八月木曽が旗艦で第四艦隊を率い陸軍を乗せた輸送船団(数十隻)を護衛し、あの抗洲湾上陸作戦を敢行したのです。私は陸軍との連絡兵として陸軍部隊と一緒に上陸したのですが、何分にも実戦に参加するのが始めてでもあり、果たして陸軍と行動を共に出来るか不安でした。丁度雨期でしたので心配していたのが的中と言う結果になりました。携帯無線機を背負って歩くのですからそれは楽ではありません。陸軍の総指揮官松井巌根大将と同道したのですが、とても陸軍について歩けません。我等海軍通信連絡隊は朝から夕刻迄歩いて一里余(約四キロメートル余)しか進めませんでした。軍歌にある通り泥檸の味をたっぷりと味わいました。松井大将は我々が苦労しているのを見兼ねて、河童が陸に上っては気の毒と言われ翌日支那馬一頭徴発して与えてくれました。支那馬は小柄でおとなしいので我々素人でもすことが出来ました。徴発した馬には飼主が後を追ってくるので、夕刻には此の馬は○○部隊が使ったから使わないようにと書き付けを持たせて返してやるのです。この繰り返しで十数日かかってやっと上海にたどり着きました。ここに来る途中野営した時陸軍騎兵隊と同宿になり馬房を襲撃され馬は放馬し、内、数頭は遂見付からず、馬のなくなった兵隊達は私達と行動を共にしたのですが歩兵と違い足を失っては哀れなものでした。上海にて揚子江警備に従事、青島に行った時の寒さには驚きました。顔を洗う時に洗面器に水を取ると同時にパット氷が張るのです。休養の為、昭和十三年四月横須賀に帰港しました。
 同六月木曽を下艦、海軍通信学校高等科に入学、新設の暗号班に入り翌十四年三月卒業し第一航空艦隊司令部附を命ぜられ航空母艦赤城に乗り組みました。其の後赤城は北支、南支方面、台湾、南洋方面で活躍した後十五年九月呉に帰着。私は第四連合航空隊司令部附を命ぜられ、赤城から横浜海軍航空隊に移り、部隊は「マーシャル」諸島の小島「ルオツト」島に飛行場を造成整備しておりました。完成一段落したところで久し振りに休暇が与えられたのです。出発に先立って此の度の休暇は必らず帰郷したら墓参をしてくるよう訓示がありした.当時の日米間の情勢から見て若しかしたらと言う胸騒ぎを感じました。休暇が終り帰島した後も小さい島々に飛行場の造成が急ピッチで行われ、昭和十六年十二月八日の開戦を迎えたのです。七日夜通信参謀が電信室に来られ明八日早々に作戦緊急電報(勿論暗号電報)が来る筈だから来たら直ぐ届けるよう言われました。夜半に作戦緊急電報「サキ」が受信されどう解読しても「新高山に登れ」の文句しか出てこないのです。疑問に思って色々やっているところに通信参謀が見えてその文句でよいのだ何ぐずぐずしているのだときびしく怒られました。後刻其の理由がわかったのです。当部隊は宣戦布告と同時に機動部隊の真珠湾攻撃に呼応して「ウエーキ」島爆撃を敢行する作戦だったので飛行機の発進が数分おくれたとのことでした。開戦から一年近い間南方作戦は順調に推移しましたが十七年六月あの「ミッドウエー」攻略で海軍機動部隊が主力となり陸軍輸送船団が「アリューシャン」列島方面から南下中敵の「レーダー」にキャッチされ、満を持していたらしく、航空母艦より艦載機が発進した後反覆爆撃を受け飛行機は帰艦出来ず海没母艦も撃沈してしまいましたが、赤城は沈没せず燃え続け飛行甲板にも助けを求めている人影が見えると言う情報をキャッチしながら救助する術なく、拿捕されるおそれがあると判断され味方潜水艦の魚雷攻撃に依り沈没させたのです。ほんとうに悲壮なものでした。それからと言うものは航空母艦なしで陸上基地が頼りの南方作戦を続行したのです。当司令部傘下部隊は南洋の島々を経ながら十七年一月「ラバウル」に進出し「ツラギ」攻略に成功し横浜航空隊が先発基地設営完了し次第司令部が進出することになっていたのですが出発しようとすると、スコールの為飛行機が飛べず延び延びになっているうちに先発の横浜航空隊は玉砕と言う熾烈な戦闘が展開されていたのです。当司令部の宿舎は「ラバウルホテル」だったのですが近くに活火山が噴煙を上げており夜間爆撃の格好の目標になり数回爆撃を受けましたが運良く難を免れました。その火山が終戦と同時に活動が停止したと聞きましたが之が本当だとしたら何と言う皮肉なことでしょう。
 一方「ガタルカナル」島の戦況も不利な情報ばかりで本土からの飛行機の補充も途絶えがちとなり、濠州作戦(陸軍と共同)を目前に控えながら使用機不足で涙を飲んだのです。部隊立て直しの為十七年十二月末本土に帰還しました。然し長居は許されません。十八年五月敗戦も濃厚になり、陸軍の「アッツ」島山崎部隊の救援作戦の為暑い南方から寒い千島列島幌筵基地に転進し、五月というのに雪が積もっておりストーブなしでは過ごせませんでした。救援も天候不良(殆ど濃霧)の為飛行機が飛べず二度敢行したのですが失敗に終り、司令官が病気になり交代するというハプニングもありました。結果は玉砕で幕を閉じました。我部隊は反転再び「ルオット」島に進出し私は厚木航空隊に転勤を命ぜられ、代りに本土から同年兵が来ることになっていたのですが、彼が乗った輸送船が魚雷攻撃を受け沈没してしまいました。又「ルオット」島に進出した部隊も厚木航空隊で玉砕の悲報を受信したのです。何とも言いようのない複雑な気持ちでた。二十年三月東京海軍通信隊附となり日比谷の海軍省の隣にありあの東京大空襲に会いました。焼夷弾が雨霰と降るなかを軍服を水でビショビショにぬらしながら海軍省の職員を地下道を通じて日比谷公園に避難させるのが精一杯でした。今でもあの空襲の恐ろしさが思い出されることがあるのです。
 広島に原爆が投下された時には海兵団で準士官教育を受けており爆撃を受け爆弾の破片が帯剣に当りはね返った為九死に一生を得たのです。当時広島に投下された爆弾は新兵器ということはわかっていたのですが、原爆とわかったのは暫く過ぎてからでした。それからというのは私は四度死線を突破しましたので、大東亜戦争は絶対死なないと異様な自信を持ったのです。八月十五日終戦となり千葉県下にある航空隊の残務整理を命ぜられ十月三十日予備役となりました。我々九年志願兵(通信)は全國で五百数十名で、大東亜戦争勃発当時下士官で最も働き盛りだったので犠牲者がたくさん出ております。現存者も百数十名となりましたが海軍通信九志会と言う会を設け各鎮守府持ち廻りで毎年四月親睦会を行って昔話に花を咲かせております。
 終りに現代の核兵器の恐ろしさを若い人達に知ってもらうこと又如何なる理由にせよあの凄惨な戦争は避けなければならないと声を大にして言いたい。(終)

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