「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録03
喜寿が書いた体験談 飯田幸一(夏見・78 歳)
「飯田さん、召集が来た様です。至急面会室へ来て下さい。」
昭和十九年九月、戦争中のこととて天気予報もありませんでしたが、二百二十日の影響か荒れ気味の十日、第一乙種第二補充兵の私に召集令状が届きました。
軍需工場につとめる私達産業戦士の増産につぐ増産とはうらはらに、戦局は日々にきびしく、誰も口には出しませんでしたが、敗色の暗い影がヒタヒタと押し寄せていました。
今年に入り私の弟二人は、中支に、又海軍にと兄をおいて相つぎ戦地に発つてゆきました。次は自分の番である、とかねて覚悟はしていたものの、遂に来たか。令状を手にした私は一瞬顔色を変えました。それもその筈、この時、妻は二人目の出産予定日が十日後の二十一日という身重だったのです。
私の出征中、二児を抱えた若い母親は立派に銃後を守っていけるだろうか。私の頭の中はグルグルと急回転するばかりでした。
今日よりは顧みなくて大君の
しこの御楯と出で立つ吾は
今奉部與曽布
余りにも有名な歌です。いままで私の心境は正にこの歌の如く奮い立っていました。然し現実に一枚の赤紙を手にした時、心に大きく揺れ動くものを感じました。
工場では出征者が多く、徴用工、女子挺身隊等の配属もありましたが、何処の職場も人手不足でした。役付である私の出征は生産に響くことでしょう、と言って生産は落とせない。
主任をはさんで対策会議が開かれました。少しも早く会議を終え、市役所で特配の手続をしなければなりません。私は何回も腰を浮せました。
私の住居は夏見営団と呼ばれた日本建鉄の社宅です。強い南西の風に自転車はハンドルを取られ、牛馬車のわだちにはまり乍ら夏見の坂を下りました。
市役所での特配は薪二把、石鹸二ヶで肝心な国旗と清酒の配給は翌日廻しとの事でした。二把の薪を荷台に積んだ私は、重い自転車を押して坂を上るのでした。この坂からは丹沢の山なみの上に富士の秀峰が浮び、南には逆光にキラキラと輝く海が見えるという恵まれた処でした。この素晴らしい風景を再び見ることが出来ないのだろうか、否、俺は足を引きずっても夏見に戻って来るぞ、と私は思いました。
帰ると大きなお腹をした妻が浴衣をほどいて、生まれてくる赤ん坊のオシメを縫っていました。助産婦は、出征前に赤ちゃんの顔が見たかったらそれなりの処置をとります、と言う。母体に後遺は無いだろうか。二人は迷いました。
相談は決まり妻の実家近くの病院に入院させることになりました。妻の実家は荒川区日暮里、と言っても田端に近い閑静な処でした。
九月十四日朝、自転車に行季をつけて走っていた私は、市川橋のたもとで巡査に呼び止められました。
「その荷物は何か。」、巡査の眼はきびしく行季に向けられています。縄を解いて中を見せろというのです。行季には産着をはじめ何組かのオシメ、その他出産用品が入れてあり、その下には理由を話し、知り合いの農家から分けて貰った少し許りの野菜や主食が忍ばせてあったのです。私は懐中の召集令状を巡査の前に差し出しました。そして、妻の出産が間近であること。妻を実家に預けて心置きなく出征したい。産前産後に少しでも多く栄養分をとらせてやりたい。妻の実家は荒川区日暮里町渡辺町、開成中学(現開成学園)近くであること。隣家は退役陸軍少将丸野勝喜閣下宅で行季の中の日の丸は閣下に御署名いただくものです。行季はそこへ運ぶ途中です、と嘘いつわりなく話しました。
巡査は早く行けと眼で合図をしてくれ、ホッと胸をなで下ろした私は、三日前に刈った許りのイガグリ頭を深々と垂れ再び自転車を走らせました。
庭の片隅の防空壕は浅いのでもっと掘り下げて大きくしたい。いつもそう思っていたのですが、盛土の上に咲いた色とりどりの松葉牡丹は余りにも可憐で、社宅住いの殺風景な生活の私達夫婦の眼を楽しませてくれていたので、防空壕を作り直すのが延び延びになっていました。
出征祝に訪れる客の応待を妻に任せては置けません。私は来客の度、泥手を洗い又スコップを握りました。慣れない作業にマメを作りながら、母子三人が楽に入れる壕を完成させたのは、秋の日が暮れかかった夕方でした。
二歳になった長女を背に、産まれた許りの幼児をかばいながら壕に避難する妻のモンペに防空頭巾姿が眼に浮かび、そんな事があってはならない、と私は祈りました。
いまを盛りと咲いていたおしろいの花も取り払いました。鳴きはじめたコホロギは何処へ身を隠すでしょう。戦争はこんな小さな虫けらの住居まで奪ってしまうのです。
入隊は九月十八日、東部第六十三部隊(甲府)でした。大きなお腹の妻は長女を背負い、これが別れとなるかも知れない、せめて新宿駅まで見送りたいと言う、妻の気持は痛いほど判ります。しかし、何処まで来ても別れは同じです。日の丸の小旗を振る妻を後に、私は独り出征の途につきました。
新宿発午前〇時三十分の列車に乗りました。次の最終松本行でも入隊時間には充分間に合ったのですが、一本前の列車に乗って本当に良かったのです。それと言うのは塩山駅を過ぎるまでは、あと幾駅で甲府到着と指を折っていたのですが、連日の疲労が出たものか遂ウトウトとしてしまい不覚にも私は寝込んでしまいました。
「兵隊さん何処で降りるんですか。甲府は過ぎましたよ。」
揺り起こされた時はもう遅かった。何故もっと早く気が付かなかったのか、大失敗でした。次の駅は竜王です。軌道伝いに歩けば甲府駅まで四、五粁の道のりですが線路上を歩かない様駅員から注意されました。
私は腰の奉公袋をブラブラ揺りながら駆足で甲府に戻りました。これが若し逆コースに走っていたら、入隊を嫌い兵営から脱走を企だてた不忠者と思われたかも知れません。事実、その様な例がいくらもあったのです。脱走者は逃げ廻った末、憲兵に捕えられ、一家一門恥をさらしたと耳にしました。
私と同じ隊に配属された兵のほとんどは妻帯者でした。甲府盆地の残暑は殊更厳しく、猛暑の中での初年兵教育は残して来た妻子の顔を思い浮かばせない程きついものでした。
入隊して十一日目の九月二十九日午前九時、営門を出た同年兵三十九名は部隊と共に軍用列車に乗せられ、わずか数日間でしたが汗にまみれて見上げた山々を後に甲府を離れました。楽しい旅でしたらあちらこちらで談笑がかわされているのでしょうが、周りは皆黙りこくり、只震動に身を委ねている許りです。車外に眼をやると、曼珠沙華の真赤なかたまりがいくつも車窓をよこぎっていきます。この花は秋の彼岸の頃に咲くので、彼岸花と呼ばれています。兵隊は皆この花の様に鮮血に染まって果てるのだろうか。縁起の悪い花を見てしまった。だが私は決して死んではならない。船橋の海が見たい。大神宮の守札を身につけています。意富比神社に額づいて無事帰還の報告をしたい、と思いました。
後で知ったのですが、案じていた妻は予定より四日遅れましたが無事男児を出産しました。
北支に渡った私は一期の検閲後原隊を離れ、谷兵団天津兵站事務所勤務を命ぜられました。そして翌年の八月十五日正午、所員一同直立不動のうち玉音放送を聴いたのでした。
折柄、来津中の皇軍将士慰問団の一行が居りました。女子団員は敗戦と知り、顔を覆って泣き崩れました。いまなお眼に焼付いております。
兵站業務を終え復員したのは翌年の二月四日でした。一度も砲火を浴びることなく帰った私でしたが、それとは逆にたまたま実家に出掛けていた妻は、四月十三日の空襲に遭ったのです。さきの東京大空襲で焼け残った地域が被害を受けました。二人の幼い子を守り、爆風と焼夷弾の炎の中を必死に逃げ惑った相です。二度とこの様なことがあってはなりません。恐ろしいことです。
私共夫婦の実家はそれぞれ被災しましたが、幸い家族に犠牲者はなく、又応召した弟達も次々と復員いたしました。
私は五十三万都市船橋に住む一人です。夏見寿大学運営委員長として七年目を迎えました。至って元気です。
これで七十七才の手記を終ります。
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