「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録02
真珠湾攻撃特殊潜航艇 新井 貢 (三山・73歳)
イ号第二十四潜水艦艤装員附。昭和十六年七月二日。日支事変に続いて益々国際状勢も緊迫となり、本艦も佐世保工廠にて急きょ昼夜工事が進められ、同年十月、三笠宮殿下御臨席のもとに、進水式が挙行されました。威風堂々太平洋に進水した。その勇姿は海の男ならでは味えない感動でした。同十一月三日呉軍港に回航。まだ一カ月の訓練もできない時、特殊潜航艇(魚雷発射管二門を持つ二人乗り)で、イ号潜水艦の後部甲板から発進したものだった。僚艦イ十六、イ十八、イ二十、イ二十二の五艦に搭載でした。本艦には、酒巻和男元海軍少尉稲垣二曹も乗組でした。
昭和十六年十二月八日の真珠湾攻撃の命を受け、花房中佐の訓示を受け、愈々海竜に移乗の際は航空服にて身を固め、日の丸のむすび熱量食軍刀、鉢巻姿で乗組んだのでしたが、ジャイロ・コンパス不良との連絡でしたが、ここで浮上すれば一〇〇人全滅の恐れありとの事で、潜望鏡にて出撃した。当日我が機動部隊の空母から飛び立った航空機が「パールハーバー」を奇襲攻撃中でした。故障のためか、戦果もあがらないまま全滅でした。酒巻艇は敵駆逐艦の爆雷攻撃を受けた末珊瑚礁に座礁。稲垣二曹と共に、陸に向って泳いだものの気を失い、気づいた時は岸に打ち上げられて、米国兵に両腕を掴まれ、日本軍人としての最大恥辱感と最大苦悶が湧いて出たと聞きます。自決する機会を失った。酒巻少尉はハワイからアメリカ本土の収容所に入れられ、四年後の昭和二十年十二月八日、アメリカを発って帰国の途に着く。帰国後しばらく郷里(徳島県)の自宅で生活していたが、
翌年知人の紹介でトヨタ自動車に入社、総務課や輸出課を経て、四十四年にブラジルトヨタの社長として南米に渡っていると聞きます。
広島で原爆体験を持つ、貞子夫人と二十一年に結婚している。式を挙げたのが八月十五日というから戦争に対するこだわりがあると思います。「生きて虜囚の辱めを受けず」と戦陣訓の言葉があり、この人ほど重く受け止めた人もいないだろう。潜水艦の主計課の長として、士官から兵卒までの食事は私の一手にかかって居り、栄養エネルギーの根據となる献立料理は、新鮮の野菜等は無く、乾物類、缶詰野菜、缶詰飯で苦労いたしました。この勤めは何んと言っても頑健の体力、不屈ふとうの精神力の持主で無いと務められない。私は他の艦船、陸上部隊ならどんなカン難辛苦でも良い、と何度か心に思った事でしょう。幸い部下である佐藤さん、篠原さんがよく協力して和を保て、一致責任を果した事は今でも感謝の念で一杯です。
真珠湾攻撃の大任を果してクエゼリン島に上陸、紺碧の空入道雲が静かに流れ「ザーツ」と降る「スコール」も瞬く間に止み、燦然と輝く太陽、青青と澄みきった海、島民からのパインアップル、バナナ、椰子油で揚げた「ドウナツ」、島民による「フラダンス」などの状況で慰められ、世界の国々が経済問題等で戦争しなければならないと思い乍らも、ひとときの懐しい思い出でした。
私はこの生活で根性をいやと言う程感じ体験で今も役立っています。次に同乗であった、当時大尉、荒木浅吉さんは航海長として勤務であったが、その後艦長になり海上自衛隊の前身海上警備隊が発足した二十七年に入隊、第二掃海隊司令や、防衛大学校の教授など勤め、三十二年再び潜水艦くろしおの艦長となった。三十四年一月アメリカ海軍の潜水学校に留学して、新しい潜水艦の教育を受け、国産一号艦おやしおの建造を指導した。戦後の「ブランク」に遅れをとりもどし、優秀な潜水艦乗員も多数養成したとのことでした。
四十六才にして、海上自衛隊初代司令になり、海将として退職して神奈川県鎌倉市に在住しています。出身地は山形県です。
先日電話でお話をいたしましたが、益々矍鑠としておられます。本年十一月か十二月に、潜水艦乗組員の慰霊祭が行われるとのお知らせでありました。当時イ二十四潜乗員は、海将荒木浅吉さん、元海軍少尉酒巻和男さん、砲術長の山本(現一流会社の顧問をしている)さんと私の四人と思われます。
特殊航艇について。
特殊潜航艇の着想は、昭和七年頃当時艦政本部第一部二課長であった岸本海軍大佐の発案でしたが、これを実現することができたのは、一にかかって名和造兵中佐(後技術中将・電気)の開発による大容量の二次電池の力でした。
その最初の試作艇は昭和8年呉工廠で二隻建造されましたが、その性質上機密扱で、その名称もその以前に極秘裡に実験完成した。高速標的船の続きの実験ということにして、標的といいふらし、これをA標的と呼称することにしました。翌九年の試航では実に水中二十七、五ノットと、すばらしい速力を得て、この艇が建造可能なることを立証したのでありました。
その要目は。
全長二十三、九メートル
幅直径一、八五メートル
深直径一、八五メートル
常備四十四トン
予備浮量一、五トン
発射管四十五センチ×二門
潜望鏡三メートル×一本
電動機六〇〇馬力×一
電池特口型×二三二個
開発A型大力量電池
軸馬力 水中二十五ノット
航続力 水中二十五ノット×〇、九時間
六ノット×十四時間
安全深度一〇〇メートル
乗員二人
本艇の形状は全く魚雷を拡大したもので、前端に上下二段に四十五センチ魚雷発射管を有し、最初のものは、発射管は解放型であったから魚雷は常に水浸してあったものを、後にはこれにキャップを付けて、水防として発射の際にはこれを突飛ばす構造となっていました。
これに従事する者は、機密保持のため厳重な監督を受け、宣誓し、登録し特殊の写真付、マークやバッジを付け工場に出入りの都度点検を受けてかくして最初の五隻が真珠湾の襲撃に参加したものでした。イ号第二十四潜はシドニー港攻撃後キスカ島の近海で最後は敵駆遂艦の雷撃を受けて沈没したとの事でこれは認定されております。昭和十八年六月十一日喪失と認定された。
平成元年八月十五日 おわり
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