「平和の尊さを伝えたい」従軍の記録01
戦争と一兵士の回想 相田利夫(駿河台・68 歳)
私がもの心つく頃は、昭和恐慌の時代にして、生い立ちは札幌にて、記憶にあるのは、五才の頃、雪のカマクラにての遊び、又、橇に乗せて貰う遊びは、今にしても心の底に残る。
此の頃、東京を中心に震災の後、復興に好景気に湧くので、父は一足先に伝手を求め船橋に居住する。
突然或る日、高所より広い畳を見下ろしていた私は、飛び下りたい気持ちになるが、あとにして思えば、青函連絡船上での事と思える。
汽車の旅、子供には誠にいやな出来事としての思いなり。上野駅には夜半に着き、迎えの父の案内にて、千葉県船橋市の一隅に落ち着き、此ゝでの生活は、親が没するまで続く。
貧しさとは、己れの希望も捨てねばならず、小六卒にて他人の世話になる之からの人生とは些事にも心掛け、早朝より夜半までの附合なるが、兄弟子の言葉にさゝえられ水に馴れんものとの努力も、次第に見いだされる様になりゆく。
当時の休日は、盆、正月、年に二日しか無く、当日は早朝より浅草に行き、終電車頃まで目一杯、日頃の苦しさをぬぐう。可様な日にしても、今も心に残るのは、降雪の夜半、人々の叫び声にて起き、見んものと外に出ると、消防団の人達の止めに朝行くと、六本木の坂にバリケードがあり、一般人には近づけない雰囲気が漂う中、彼等は赤坂の山王ホテルに立て籠もるも、食事の不足を気付く婦女子の好意に依り、あらゆる方法にて運び込まれるも、尚、不足があったかもしれない。
事件も終わり、平日の暮らしの中、満州に出兵する兵への、町内会より何度と見送りが続くこの頃より品物が不足し始め、次第に高騰を始めていく現象となる。此の時突然、弟が現われ、父が工事中怪我をし入院するも、労済も今すぐには入らぬので何とかしてほしい、と言われても、私の持ち合わせの金子にては賄える事でもなく、主人と相談の上、積立金を渡す羽目となり、此の時、主家より絶縁されもとのでだしにもどるそんな時、見かねた本家の人達より何かと温情のある就職話があれど、十代の考えでは、人の愛より親の愛と思い、家に戻ればそこは、貧しさ渦巻く渦中にて、私の持ち物、貯金まで取られほうり出されまじき有様なり。
仕方なく、もと主家の得意先なる天幕工場を尋ね身を寄せる様になる。人の好意のお蔭にて、一工員として出征する迄お世話になる。
この頃の船橋の海は、今と違い遊ぶ場所としては最適で、産物など豊富に取れたので、閑があれば一人で行くか、幼馴染と連立っての日を過ごす時は、別天地の思いなり。
昨今にては海も縁遠く、作業所にての工具の手入れなどにて過ごす。
私が考の中、食は生きて行く手段なるが、心に貧困を植え付けられなば、之は生きた化石同然である。人は育つ時に於て父母の愛情を受く。之が独立心を強め、社会に出た時心のバネとなり、いか様なる苦しみも乗り越え、立ち向うと思う。
十八年二月初旬、神宮外苑の近くにある東部三部隊に入隊した。私達は中旬、品川より汽車にて中支那行きの途に着く。食事は、途中指定された駅にて受けとり、各自、分配されつつ博多に着き、ここより船にて釜山に着くが、之より汽車にて朝鮮半島を縦断する時、北鮮にてリンゴの差し入れがあり、何とも心の中に感動が渦巻く。中国に入ると船を利用しつつ、大湖のほとりの宜興の町に着く。宿舎は民家を改造した家で、ランプとの附合が半月程あり、この間は市内見学、又、市外に出て、大湖のほとりにて一服する時は、何とも言えざる心地なり。
初年兵教育時代の宿舎は接収した四階建ての建物にて、之に教育者がつく。こうなると今迄とはかわり、早朝より寝る迄、訓練、訓練の明け暮れにて心休まる暇もない。此こでの難関は腹がへる事で、食事が終れば最早、空腹状態である。今にして思えば、陶器の町にて風光明媚なる処にしても、観賞するでもなく、思いは喰う事、寝る事に執着する、誠に情けなき限りであると思う。
朝六時に起きれば、点呼後、駈足にて近郊を廻る。戻るなり兵器の手入れ、掃除、洗濯、食事の支度、食事の後片付け、演習の支度、何をなすにも一日中駈足にて暮らす。夜半にも交替にて、不寝番の任務が廻り来くので、寝不足になりやすい状態であり、又、時に依り非常呼集のラッパが鳴り渡り、暗やみの中、手さぐりにて身仕度を整え、訓練に遅れまいとの意気込みにて訓練に出る
可様な日ゝにも、仲間同志出し抜かれまいとの思いはあろう。皆、必死に暮らす日ゝにても、大湖のほとり雑草地にての演習は、広ゝとした景色、一時の草いきれは、幼い頃の思い出が儚なく頭の中を横ぎる。初年兵教育新兵の中には、地位もある方も居た様なれど、年の差は如何とも至難く、何時も班長に文句を言われる許りにて、私達の集いの時など、あの野郎、何と一本気で融通の付かねえ野郎、と気を晴らす依り道もない。
可様な日ゝも検閲が廻り来たりて、八月半端、上海近郊に於て一週間に亘り行われ、終了後、中隊に戻ると特殊教育との事にて、大隊の近くにある野戦倉庫にて教育を受くも、此処での任務は、大隊の衛兵と野戦倉庫内の不審番兼門営、あとは古参兵になぐられる丈の事にして教育などなし。
この野郎、時が変われば何時の日か殴り返してやろうと思う心はあれど、今は致し方もなく、胸中に秘す丈なり。
此処にて、もと将介石の別荘を見る廊下は、石に彫刻をした回廊景色に合わせた建物の様式、ただただ、恐れいる許りにて豪華なるが、見方に依りて質素とも受け取られる奥行きの深さに感銘を受く。
特殊教育も終わり中隊に戻ると、再編成にて、之依り奥地に入る。行軍より舟を利用しての移動が主として、途中、友軍による食事の支給を受ける。せまい運河が多けれど、時には湖の上を行く時などは、景色を見渡しつつ、一時の我が身の幸せを思いつつ、晴ばれとした心地となりゆく。
落ち着いた処は、安微省銅陵県銅陵鎮という町のはずれにある、大隊の護衛中隊としての任務なり。月に一、二回位の討伐の他は、雑用に追われ日を過ごす。此の頃になり、やっと我が身にも心を持つ様になれど、何と言っても、下世話に将校商売下士官道楽兵は、其の日のさぼり得などと申せ、上より何かと用件ありて心休まる時はない。此処では、日曜は外出が許されるので、友と町に行き最大の娯楽、飲食に一生懸命励む。
秋になった頃、作戦の話があり、揚子江の向い側に出兵する。私の目に入った状況何か大隊本部あたりより、治安が良い様に思える。乏しい頭の中では命令を順守すべしとの心根なれど、作戦も終わりの頃、突然、捕虜護送の任務を受け見た時、女性が多いのに驚く。四、五人先に眼をやった時、赤ん坊を抱いた婦人のうったえる様な眼差しを、身体で受け止めた私は、何とも言えざる気持ちになり、思わず背後を振り返り、戦友の有無を確かめ、女性達に向い急いで逃げる様指示を出す。曲がり角にては、見えない様にし、背後の戦友の有無に気を使う。
目的地が近づいてきた頃、仲間が現われ、「おい、大分減ったな。」「そうかい、曲がり角が多くあれば致し方もない。」との言い訳にて言葉をにごす。
目的もわからぬ作戦もどうにか終局を告げ、半月後、宿舎に戻るも敵の反撃が予想され、一部の人は歩哨に出る。此の後、数回の討伐の後、任務変更にて陣地勤務に着く。他の中隊との入れ替わりにて、大隊依り七里くらい先にある、揚子江沿岸の大通鎮の町はずれに中隊を置き、三里程先に小隊を置き陣地勤務に着く。最初の陣地は、登るのに一日かかる。途中に給水係の民家があり、頂上は虫けら一匹もいない有様にて、無の山なり。何か所かある陣地の中で、私が好んだ青山(チンザン)と申す陣地、登るのに半日以上要すれど、何といっても此処の朝は最高なり。漆黒の帳がうすれ行く中にある我が身は、雲海の中にして雲霧となるにつれ、他山が幻の様に浮かび上がり、朝日がさす迄は最高のもてなしにて、我、只々仙境とやらに漂う。
敵陣地は、直線にて三里位先なるが、八月十三、四日頃、夜間も提灯を持ち山を上下しているのが当方より判別でき、此の分にては近い内、一大反攻があろうかと思案中、十五日夜、中隊より終戦と陛下の玉音が流れ、つづいて之依り、一般民間人の引き揚げが始まるので、陣地は其のまま死守せよと命令も入る。
一か月余り過ぎた日、中隊に戻った私達は、今迄と違う心地にて身の廻りの整理を行いながら、此の先、如何様な運命が待つであろうと思う。
日曜なれど、外出許可も不要にて皆自由に町に出ていく。私も友と連れ立って、飲食目的にて町に行き、飲食店に入ろうとする時、入口近くに見なれぬ将官が陣取っており、店内は何か今迄とは違う雰囲気が漂うが、飲食目的なら別に変わりもあるまいと思い、友と酒を飲み出している時、将官が誰か東京依り来た人と、再三の問い合わせにも返事がない。隣席のよしみもあり私が返事をすると、彼は神田を知っている。えゝ、彼は英国に留学後、モスクワのマルクスレーニン研究所にて勉学中、近衛内閣の呼びかけに応じ来日、神保町の古本屋の二階に下宿し、上智大学に通い、日曜はニコライ堂に行く日ゝを過ごしていた様です。何せ話題も豊富なら、酒肴も注文してすすめてくれる、私が不思議に思い、何で古本屋の二階に下宿をとの問いに、笑いながら、古書がただで読めると申される。
大東亜戦に入ると、仲間と協議し祖国朝鮮に戻り、何度か同志と会合の後、満州入りをし、毛沢東の指揮下に入り、学校を卒業後、私は中支那に派遣されたのですと、私が何で可様な生き方をの問いに、彼は私達には之依り他に道は無いと、当時の私には不思議な話を聞く様なれど、己の知識にては解釈仕様もなく、只ゝうなずくだけなり。
四方山話の終わりに彼は、「日本は、石油を手にする事が出来るでしょう。又、之からの日本は土地が上がりますよ。だが、下る時が来ます。之からの日本は大変ですよ。」私を愛しむ様な眼差しで語りかけてくる彼。それより、私如き一兵士を、親切にもてなしてくれた彼を、私は敬意と好意、之は終生忘れることはない。
此の日より半月程の間自由日ゝなるが、敗戦の規律が申し渡され、次第に窮屈な日ゝとなりゆく中に、武器は中国側に押収され、捕虜収容所も我ゝにて建設し収容所生活が始まる。
日常は、運動目的にて道路工事、其の他の作業に従事する。だが、心の中には引き揚げのはやる気持ちが優先する。収容所生活とはいえ、中国軍による脅威を感ずる様な事もなく、食料の一端にと揚子江にての魚の取得、又、豚舎等があるも、食に依る不足は何となく佗びしく、酒類は今迄とは違い、不自由になれば、致し方なく、固型燃料を二度程蒸留させ、之に少量の砂糖と茶を入れて、呑むとホンの少量にてもほろよい気分となる。後の不足は、何といっても食糧なり。
此の時、不審番と仲間が手を結ぶ様になる。されば倉庫内の食料が目立って減るので、班内一斉検査を行うも、大体が豚舎に穴を堀り隠匿を図るも、探す方も事前に気付き、重点的に行われ引き上げられる。
可様な日ゝにも何時とはなく、引き揚げの話が流れ、二月初旬、揚子江を舟にて南京迄下り、汽車にて上海に着き、帰国船に乗船する事なれど、実際には思う様にいかず、四月になっても上海にいる有様なれば、途中に於て、事の他変わりたる珍事が待ち受けるなり。只、之丈の事にて、中国軍に依る被害は更ゝなし。
最後の宿舎となったのは、新市街地にある新しい図書館にて、この豪華さは筆舌には語り得なきが、暖房もなければコンクリートの床に身をひそめて待つつらさは、正に無情なり。時々、交代にて食糧を運びに出るも、コンクリートの床より大地の方が暖かい。
四月十三日明日との話にて、身の廻りを整え、乗船場の近くにて、中国側より最後の検査を受ける。検査とは名のみの事にして桟橋を渡り、帰国船上の人となる。船は、米国の上陸用船艇にて、横ゆれがあり、船員より注意と同時に食事が出る。船の旅、島かげを見つつ一夜を船にて過ごし、博多に着いたのは昼頃となる。
待ち受ける婦人会の人達より、ねぎらいの言葉とにぎり飯、茶を接待され、一休止の時、自宅迄の切符を貰い、又、乗車前には米兵に依るDDTの消毒を受ける。之よりは自宅に近い仲間達と汽車に乗るも、満席にて座る処もないので、荷物を椅子替わりにし、話しをしながらの道中となる。
広島を通る時見た光景は、何か想像を絶する莫大な力に依り、むしり取られたる様な気がする。何と無残な出来事なのか。時折、車内に臨時検査があれど、調べるよりねぎらいの言葉がかかる。
関西路より関東路に入ると、混雑が一層はげしくなり、友とはなれる時もあるが、駅にてすいた時は又逢う。
東京駅に着いたのは昼頃なれば、一緒になり連れ立ってどうにか最終目的駅に辿りつき、友と別れ何とか家に戻ると、食料不足にて、持ちかえりし食は家族の食料となる。それでも足りぬので、数日後、農家の友を尋ね、わけて貰い食いつなぐ有様なり。可様な事にては、お先真っ暗と私は提案する。
今、市役所に於て、習志野にあるもと軍用地を開拓農家として募集中なれば、親の同意が得られれば入植できるのだと、私の提案に対し、親兄弟揃って反対。かくなるうえはと、闇屋に精を出すも、資本もままならず、仕入れ先も其の場かぎりの状況にて、駅の手入れ列車内の手入れをくぐり抜け、我が物とする迄は、誠に悪戦苦闘なり。
どうにか落ち着いた頃、廻りの人のすすめもあり元の大工に戻り、三年後、妻に恵まれ二年後、子供が産まれる様になったので、親よりはなれ、私達の独立が始まるも、皆様の好意に依り生き抜けて来たと思う。
土地も最初の頃は、欲を持つ人はいない状況にて、真夏も冬も働く事のみ気を配り、間借り生活より、狭いながらの我が家と希望は満たされる。土地も、先行きの為にと求める。一緒に働く仲間たちにも、土地を求める様すすめるも、彼等は、土地は求め得難き代物ではないとの考えが、心の中、支配していた様であり、求めさせる迄の苦労は頭痛の種なり。
有為転変の人生も、年令と共に落ち着かざるを得ない様になり、求めてあった処に居住する様にし、作業所も併用して使える様にと建設する。
此の頃依り、廿年に中国で教わりたる事を考え始めるも、勉強に入るには、何処より思考を始めれば良いか人に問うても、話の糸口さえも解らぬ。だが、時の流れは、彼の言う通りの様な気がしてならぬ。当時の仲間なら、誰か手伝ってくれる人もいるやもしれぬと、初回の戦友会を発会させ、皆に発表し意見を聞きたい。只、それ丈の思いにて、初回の戦友会を開くべく封書にて出すと、当時のにおいの仲間が集まり、現在の自己紹介等、賑やかに過ごす中、頃合いを見、終戦時の話にふれ、皆に答えの一端を求むるも無なり。
致し方なく以後は、新聞、テレビの影響などなどあれど、ある時、妻のすすめもあり、一緒に近くの図書館の門を初めてくぐる。館内を探す内、目に止まりたる本があり、其の場で読むも内容があり、借り出しての読書は文章丈にて全体の把握となると、大工の本と同じにて、現点は近づけば近づく程、離れていく様な気がする。
急いでは無理なりと、発行元に問い合わせ身近に置く。時折の読み直しにても、一部のみにて終わる。
それ依り、無学に等しい私が可様な事に熱中するのも、中国に於て彼の情にふれた故に他ならない。妻よりの忠告と愛情、之が今の私の支えなり。
人生とは、親の愛情に目ざめた者は、懸命に努力し、人生を前に進むべく思う。人生の基は親の愛なり。
之依り私が申す事とは言え、遺漏もあろう。されば諸兄の叱正を得度。
日露戦争以後、欧州社会は未来に向う為、熱エネルギーの転換期に入る故に、工作機械に依る生産は停止され、失業者相次ぐ中、道路工事に依り救済を行うも、我が国にては石油がない。故に、次第次第に底なしの如き、不況の時代に入る。
私が北海道で産まれた頃、関東大震災があり、一時ながら、活況を呈するも一部の事にして、他は不況の嵐の真っ只中なり。此の頃東北より、親子の絆を切られ、犬や猫の如く売られていく婦女子は、政府発表にて六万人弱とあるそれに、網の目をくぐり売られし弱者は如何程か。可様な人に対し、政府要人は、いかなる手段を講じ得たか、又、彼等の此の時代の思考の持ち合わせは。
人の世は、親の愛に依り育つ、されば、どの様なる悪条件をも乗り越え、前に進むべく努力する。之が、社会を押し進めるもとになると思うのだが、親に売られし弱者に、待ち受ける運命とは。此の中より、人の愛に依り更生し得た人は、いないと思える丈の事と思う。
可様な頃、時の内閣近衛首相が、日本は之より亜細亜の解放に向って立ち上がる、故に、亜細亜各国の子弟は、日本に留学する様呼びかけがあり、多勢此の地に入る。此の場合の子弟とは、王公の子弟と思われる。私が中国にて行き逢った方も、此の一員かと思われる。
亜細亜の植民地の解放、まずは、清朝政権を倒すのが始まりなり。過日に於て、孫中山が果てし得なき事を行う様なれど、之を行う事に依り新しき芽が吹き、新生中国となるのは必定なり。されば、何としても満州入りを果たさねばならず、上海よりの侵入に始まり、抗州湾上陸、清朝政権有する軍隊との戦いに於て、我が方も被害を受くも、前進のみとの事にて戦う有様なり。
満州に於ては、新政権の樹立に依り一時ながら、中国は軍の管理下に入る。軍は、南支に向い、植民地の解放を武力に依り行いつつ、次第にシンガポールに至るも、此の時、先進国依り和平のすすめがあり、指導者は、苦しみ抜く。
何故か今、和信をすすめても又、亜細亜の各国は独立国としての地位を得るも、之依り始まるであろう欧州社会の資本攻勢に依り、其の足下に信伏は火を見るより明らかなり。又、日本としても、石油がなければ第二の昭和恐慌に向うより、他に道とてあろうか、後に下れば、あるのは自然と不況が待ち受ける様にして、前に進めば、幾多の困離が待ち受けるも、今となり乾坤一擲、遂にアラブ社会に入る。だが、事後が各国を相手に戦う様な羽目となり、次第に、敗戦への道を辿り行く。
私が中国に出兵したのは、十八年であり、中国との関係は敵対国なるも、中国が新興国家としての立場を得るに至らず、孫中山が募りし同志の一員、毛沢東が、国内統一に奮闘中なり。今、日本が兵を退かば、北より南よりの侵攻もあろうし、国内にても紛争もあろう、されば、隣国が地位を得る迄は、致し方なき儀なり。
私が中国で、敗戦後出逢いし朝鮮出身の一将官、彼の親にも勝る優しき心根にふれる故に、解釈に挑むべく心掛ける。彼の国とて、中国との関係は、昔日より親子(シンシ)の礼を保つ間柄なれば、今此の時、彼の手足となり、協力したものと思われる。
石油ほしさに、各国を相手とし敗戦した日本に、先進国は、協調精神にて、石油を輸入出来る様にしてくれたものと思える。
土地が上るとは古より独裁政治にて、次第に覇権争いの渦中武家社会となり行く、昭和になりても土地に関しては名残をとどめ、彼等の手中になり、米国が統治時代農地解放との形にして古き絆を解き放す。次第に地価の上昇となり成長した経済界にては土地を求めに走るが故に、天井知らずの高値となり行く。今よりも続く、下るとは老齢化社会の到来なり。何時の世も時の流れには抗す可くもない。只時機となると問題なり、土地が下り行く社会は下層より活況が薄れ行き次第に不況に向い行くと思われます。国としては低開発国の援助を行わねばならず、石油を求めし時の義理もある事にして苦しい状況になると思います。
私達が中支部に在中の時八路側より逃亡の囁が最初は美女を用いて後には階級にて流れるも、彼等は学びの中に終戦後日本が歩む道程、世界史に於ての道を切り啓き待って居てくれたのだと思います。将官の言葉の中に共産独裁が何時迄続く理由がないだろう、言われし時は分らねど今にして分り始める。
このページについてのご意見・お問い合わせ
- 総務法制課
-
- 電話 047-436-2122
- FAX 047-436-2196
- メールフォームでの
ご意見・お問い合わせ
〒273-8501千葉県船橋市湊町2-10-25
受付時間:午前9時から午後5時まで 休業日:土曜日・日曜日・祝休日・12月29日から1月3日


