豊富の歴史
豊富の歴史について
「神保新田」(豊富・神保)
神保新田のおいたち
下総国千葉郡神保新田は、標高23m~29mの台地上につくられた村で、北に小室村、東に小野田・車方・行々林の各村、南に金堀・楠ヶ山・三咲の各村、西に八木ヶ谷・大神保・印旛郡復村にかこまれています。江戸時代はじめ頃は広大な原野でしたが、延宝の頃(1673~1680)白井与惣右衛門(神保新田与惣右衛門組)、矢橋長兵衛(金掘台長兵衛組)、佐藤吉佐衛門(島田台吉佐衛門組)の3名が開墾請負人となり、新田開発の鍬が入り、幕府の検地を受け、神保新田として代官支配地に組み入れられた村です。
神保新田の名は、昔からこの地が神保郷とよばれたためであるとか、隣の大神保村の名をもらったとかいわれています。開墾当初の石高はわかりませんが、元禄15年(1702)に906石7斗1升6合、天保5年(1834)に1097石9斗3升、慶応3年(1867)に1927石9斗3升となっており、開墾がすすみ耕地が次第に増えて行きました。
明治元年(1868)この地は知県事佐々布貞之丞の支配となり、一時葛飾県に属しましたが、明治4年(1871)印旛県に属します。明治6年(1873)千葉県11大区5小区に、明治8年(1875)第11大区11小区に改められました。
明治11年(1878)郡区町村編成法施行のさい千葉県千葉郡に編入され、八木ヶ谷・大神保と共に村連合を組織し、同17年(1884)戸長役場所轄区域更定で豊富村の母体となる12ヶ村がまとまり、同一戸長役場の所轄に属しました。そして明治22年(1889)には、小室・小野田・車方・行々林・神保新田・金堀・坪井・大穴・楠ヶ山・古和釜・大神保・八木ヶ谷がまとまり千葉郡豊富村が組織され、豊富村神保新田となりますが、神保新田のうち島田台は分離し千葉郡睦村に属しました。またこの地の地区も神保新田は神保区、金堀台は豊富区となりました。
昭和29年(1954)豊富村は船橋市に合併し、船橋市神保新田となり、同30年(1955)には町名設定で船橋市神保町・豊富町となりましたが、この時神保町の一部が大神保町に編入され、現在に至っています。
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