三山・田喜野井の歴史と文化

更新日:平成23(2011)年2月12日(土曜日)

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歴史

三山村に、いつごろから人々が住みつき、生活したかについては定かではないが、海老川支流前原川上流の東に位置し、低い台地にあった。
村内には二宮神社があり、三山村や周辺の村の生活に深く関わっていた。

当地及び附近は太古時代に「蝦夷」に占領されていたが、その後天孫民族が房総地方まで進出して大事業を計り、日本武尊が蝦夷討伐の軍勢を率いて当地を通過した時には、祖先が小部落を形成して生活していたと思われている。
尊の死去後、天皇の第4皇子県主になると三山地方もその尊の所領地になったと云われている。

三山村の領主は徳川家の旗本渡辺氏で幕末まで領し、知行地であり村内の神宮寺の墓地には、渡辺勝綱の墓があります。

明治12年に田喜野井・滝台新田・薬円台新田と一聯合村をつくり、21年の市町村制実施により、千葉郡二宮村を組織し、大字三山になり、昭和3年に二宮町大字三山に、28年には船橋市三山となり30年には新町名設定で船橋市三山町となり、53年の住居表示で船橋市三山になりました。

三山の地名の起こりは、三山はみやまと読み「深山」、「御山」、「宮山」と江戸時代の記録に表わされており、また三山は二宮神社を中心として発達した部落であると言われています。

田喜野井は、明治6年に第11大区5小区に組み入れられ、11年に滝台・薬園台・三山と共に村連合に組織し、その後22年には二宮村大字田喜野井にそして昭和3年に二宮町制がしかれ、28年に船橋市田喜野井に、30年には町名変更により船橋市田喜野井町に、53年の新住居表示で船橋市田喜野井となり現在にいたっております。

田喜野井の地名の由来は、村の名は「田喜野井」あるいは「田木ノ井」で、土地の人は「タギノイ」と発音していました。
「タギ」とは元来「滝」とほぼ同じで、水の勢いの激しいという語であり、この地に昔大きな泉が有ってたぎっていた事から「タギノイ」の名前ができたのだろうと言われています。

文化

三山・田喜野井地区の文化・文化財としては、平成16年に「千葉県指定無形民俗文化財」に指定され、丑年及び未年におこなわれる二宮神社の大祭である「下総三山の七年祭り」があり、また弘仁年間に創立された「二宮神社社殿」・「齊藤その女等奉納句額」・「二宮神社の神楽」などがあります。

そして、寺院・神社等はそれぞれ「神宮寺」・「二宮神社」・「正法寺」・「子神社」・「御岳神社」(子神社境内に移設された)・「弁財天社」・「庚申等」・「馬頭観音塔塚」などがあり、みやまは古村であると共に、人々は信仰深い人たちであったと記されています。

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