大学駅伝三冠へ!國學院大學 陸上競技部 前田 康弘監督

更新日:令和7(2025)年1月6日(月曜日)

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前田監督ガッツポーズ

「時代を変えたい」

そう語るのは、市立船橋高校出身で、現在、國學院大學の陸上競技部を率いる前田 康弘監督。

市船時代は都大路(全国高校駅伝)の花の1区を2年連続で走り、駒澤大学時代はキャプテンとして箱根駅伝で総合優勝も経験した名選手は、指導者として大学駅伝三冠(出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝)に王手をかけました。

前田監督の駅伝への思いや監督になるきっかけ、船橋での思い出についてお話いただきました。

箱根駅伝で優勝して歴史を変えたい

2024年目標
▲2024年スローガン

- 今回の箱根駅伝への意気込みは?

今シーズンはタイトルを2つ(出雲駅伝、全日本大学駅伝)とることができ、箱根駅伝でも総合優勝できる力はあると思います。
他の大学さんも力がありますが、地元の商店街などたくさんの人たちが応援してくれているので、初優勝して“時代を変えたい”と思っています。

31歳という大学駅伝監督史上最年少で監督に

- 國學院大學では初となる他大学出身の監督と伺いました

それまで國學院大學は、母校出身者が伝統的に指導していたので、ある意味新しい風として、期待されていた面もあると思います。
けど逆風もすごくて、初めてだからゆえにこんなやつじゃ駄目だろみたいな人もいたので、認めてもらえるように努力しました。

- 監督としてここまで来るのは大変だったのでは?

今となっては、地域の応援やメディアで取り上げてもらったりなど、注目してもらえるようになりましたが、当時は監督としての人脈や実績がないので苦労しました。
私も47歳なので、やっと高校の指導者の世代が、同級生や少し下の世代になってきたんですよね。
31歳で監督になった時は、高校の先生たちも年上の方たちばかりで、選手のスカウトもとても大変でした。
なんだお前みたいな感じで、結構やられた時もありました(笑)

- どのように乗り越えた?

いい選手に来てもらうためには、安心して任せてもらえるかが大切だと思います。
選手たちも、調子のいい時もあれば、うまくいかない時もある。
怪我したりとか、そういう時にどうフォローできるか、というところも大事にしてきました。

選手との「対話」を大切に

指導中
▲多摩川の河川敷で練習

- 指導する上で気を付けていることはありますか?

今は部員が60人以上になりましたが、少しでも時間を共有できるよう心がけています。
主力級の選手たちとは、対話をする機会が増えますが、部員はそれだけではありません。
体重や筋肉量など、一人ひとりのデータをしっかりと把握し、気になることがあればしっかりと伝えます。
 
また、選手たちに頭ごなしに言いたいことを言っても、選手の心には響きません。
コミュニケーションをしっかりと行い、相手が納得できるような伝え方を、自分自身も気を付けています。

- 寮生活ではどのようなことを行っている?

國學院大学では、毎週報告書を手書きで書いてもらっています。
ちょっと古いやり方になるとは思うんですけど、やってみると今の子は誤字脱字が多いような気がします(笑)
でも社会に出る前に、こういうことを学ぶのはとても大事だと感じています。

うちの大学では10分前集合も行っています。
時間っていうのは貴重ですし、大学にいるうちに、社会人としての基礎を身に付けて欲しいなと。
自分の当たり前のレベルを、上げていって欲しいです。

- 社会人になるうえでの大学の意義とは?

箱根駅伝っていうのがコンテンツとして、大きくなっているので、選手たちが勘違いしないようにしなきゃいけないとは思います。
人生を長い目で見ると、箱根で優勝しても、一生保証される仕事はないじゃないですか。
そこは人生の始まりに過ぎないと思うので、人として成長できるよう指導するようにしています。
 
箱根駅伝もエントリーが終わって、部員が60人以上いる中、走ることができるのは10人のみ。残りの50人以上は走ることができないんです。
4年生でも、走れない選手がいます。
ただ、自分が走れないからもういいやではなく、主役にはなれないですけど、支える側になって、チームとして結果を取りに行くことも大切にしてほしいと思います。
人生って、その時で精一杯なので、後になってわかることもたくさんあります。
サポートになったとしても、そこで一生懸命にやった経験が、長い人生の中で活きてくることもあるはずです。

市船で始めた競技人生

前田監督

- 陸上はいつから始めましたか?

中学生までは野球をしていたんですが、けがをしてしまって、高校では別の道も探していました。
漠然とした気持ちではあったんですけど、足の速さには自信があったので、どうせやるなら一番強いところでやりたい!と思って、県内の強豪校で知られる市船への進学を目指しました。
当時、家族や先生に反対されたんですけど、逆にやってやろうという気持ちになりました(笑)

- 市船の陸上部はどうでしたか?

入ってみると、当時、県でナンバーワンの選手など、レベルの高い選手がたくさんいて、自分とのギャップに驚きました。
練習場の運動公園まで、5キロくらい走っていくんですけど、素人の自分からしたら、その時点できつかったです(笑)
家に帰ってきて、また朝練に行ってという生活をしていたので、毎日ヘトヘトでした。。

- その中でも1年の秋にはレギュラー、2・3年時には全国高校駅伝で2年連続「花の1区」を ?

根性だけはあったので、監督はそこを認めてくれたんだと思います(笑)

- 学校生活はどうでしたか?

その当時は、サッカー部が本当に強くて、選手権で優勝とかしてましたよね。
学校でも、すごい人気でした(笑)
どの部活も強くて、みんな輝いて見えたんですけど、その中にいるからこそ、自分もやらなきゃっていう気持ちになりました。
野球部とかサッカー部とか、いろんな部活の人がいましたが、お互い目指すものが似ているからこそ分かり合えるものがあるというか、そういったこともあり、みんな仲良くしてましたよ。休み時間とかも部活の話をすることがあるんですけど、話をする中で、ためになることも多かったです。
 
今でも当時の同級生とご飯に行ったり、仕事でも関わりがあったりと。大人になってからもつながりがあります。
船橋の梨を寮に送ってくれる友達もいて、学生とみんなで美味しく食べさせてもらっています。
変に気を遣わないというか、安心感もあります。

- 一番の思い出は?

練習がきつかったっていうのが、やっぱり一番覚えていますね(笑)
都大路(京都で行われる全国高校駅伝)に出場できたことも思い出深いです。

あとは、練習していた海老川ジョギングロードや運動公園も記憶に残っています。
社会人になって千葉に住んでいた時は、練習していた場所の近くをわざわざ車で通ってみたりもしました。

苦難を乗り越え指導者の道へ

- 駒澤大学時代にはキャプテンとして、大学史上初の総合優勝も経験されました

高校卒業後は 、一番初めに声をかけていただいたこともあり、駒澤大学に進学しました。
4年時には、目標としていた箱根駅伝総合優勝をすることができて、嬉しかったです。

- 卒業後は?

卒業後は、富士通に入社し、陸上を続けましたが、結果を残すことはできず、サラリーマンとして働いていました。
駒大時代の恩師である、大八木監督に陸上競技を引退することを伝えにいくと「明日からグラウンドに来い」と言われ、その時から駒大のコーチとして手伝うことになったんです。そこからは、平日はサラリーマン、休日はコーチとして活動していました。

- 國學院大學の監督にはどのような経緯で?

富士通はすごくいい会社で、そのまま社員として勤務することも考えたんですけど、20代後半だった私は、大企業ゆえの自分の小ささを感じてしまうようになりました。
当時、父は会社経営、兄は企業に勤めていたこともあり、父の会社を継ぐなら自分かなという気持ちもあったので、そこで富士通を辞める決意をしました。
ただ、父の会社に入るにも、何も知識がないんで、夜間の学校に通いながら下請けの会社に行って、勉強した時、父が亡くなりました。
 
陸上界を離れ、経営の道で生きていこうと決意した矢先のことで、なにもかもなくなってしまった感覚でした。
なんとか会社を経営できないか考えたりもしましたが、そんなに甘いものではなく会社を畳むことを決めました。
 
そういった状況の中で、國學院大學からの誘いがあり、陸上界へ戻る決意を固めました。

- 陸上の世界に戻ることをお父様も喜んでいるのでは?

そうですね。
父も陸上に携わっていることを、喜んでいたので、ある意味背中を押してくれたのかなと思っています。

一つのことをやりきって欲しい

- 最後にみなさんへメッセージをお願いします

「やり切ること」が大切だと思っています。
今は多様性の時代ですから、いろんなことに興味を持てますし、スマホで何でもできるような時代です。
でも逆に今の時代だからこそ、自分がやると決めたことを最後までやってみて欲しいと思います。

やり切れないと、何も見えないと思います。
自分がやると決めたことをやり切ってみて、次の世界に行く方が、人としても成長できるんじゃないかなと感じています。

史上6校目となる大学三冠へ、前田監督の挑戦が今始まります。

プロフィール

生年月日:1978(昭和53)年2月17日
出身地:千葉市
経歴:加曽利中学 - 市立船橋高校 - 駒澤大学 – 富士通
選手引退後は、駒澤大学コーチを経て、31歳という大学駅伝監督史上最年少で國學院大學の監督へ。


市立船橋高校入学後に陸上競技を始め、駒澤大学陸上競技部へ。
駒澤大学時代に第30回、第31回全日本大学駅伝で2連覇。第76回箱根駅伝では主将として同大学史上初の総合優勝を果たしました。

大学卒業後は、富士通に入社。

現役引退後、社員をして働きながら、駒澤大学陸上競技部のコーチを務める。
その後、家業継承を志すも父の死もあり叶わず、2007(平成19)年に國學院大學陸上競技部のコーチに就任。
2009(平成21)年より監督を務める。

就任翌年の第87回箱根駅伝では、予選落ちが続いていた同大学を、本戦10位に。
そこから5年連続で本戦出場を果たすなど、箱根駅伝の常連校に導く。

2019(平成31)年には、第31回出雲駅伝で大学初の大学三大駅伝優勝。2024(令和6年)年には、第56回全日本大学駅伝で初優勝を果たす。